上杉謙信は、わずか22歳のときに越後国統一を成し遂げた戦国武将です

上杉謙信のすごいところと言えば、戦が強くほとんど負けたことがないところでした。その強さから「越後の龍」と呼ばれたほどです。

また、上杉謙信は戦のみならず経済発展にも力を入れ、軍事力と交易の経済力を併せ持った武将でもありました。

わずか22歳で越後国を統一し49歳で死去するまで、どのように領地を広め、国の繁栄を行ったのでしょうか。

この記事では、制覇した領地と国づくりについて深掘りしていきます。

上杉謙信は何をした人?

上杉謙信は、戦国時代に越後国(新潟県)など北陸地方を支配した武将です。

19歳で兄の長尾晴景から家督を相続し、春日城の守護人となります。また、のちに上杉謙信は上杉家の養子にも入ったため、山内上杉家の16代当主でもありました。

上杉謙信の生涯を通した戦は70戦ほどで、そのなかで敗北は2戦だったと言われています。

最強と言われていた武田信玄でさえ、上杉謙信を討ち取ることができませんでした。武田信玄との5度にわたる有名な川中島の戦いでは、結局どちらが勝利したという明確な記録は残っていません。

一方で、上杉謙信は「義の心」を持つ戦国武将としても有名でした。自分の私利私欲で戦いをせず、頼まれたら参戦するスタイルがほとんどで、困っている人に手を差し伸べる性格だったと言われています。

また、国の繁栄のために越後の特産品の青苧(あおそ)で作った越後上布を、他国と盛んに交易などをして、莫大な富を蓄えていた経済力も持ち合わせた武将でした。

上杉謙信の越後国統一

上杉謙信が22歳のとき、越後国統一を成し遂げます。その功績によって、上杉謙信の名前が全国に広まりました。

ここでは、越後国を統一するまでをたどります。

栃尾城の戦いで初陣

1544年、上杉謙信が15歳のとき、栃尾城の戦いで初陣を果たします。当時兄の長尾晴景が守護代だった越後国では、内乱が起こっており、豪族が謀反を起こしました。

晴景の要請により栃尾城に入っていた上杉謙信を、豪族たちは若かったことを侮って、栃尾城に攻め寄せます。しかし、上杉謙信は少数の城兵たちに巧みに指令をだし撃退に成功

並外れた指揮官としての才能を発揮し、謀反を鎮圧することで初陣を飾りました。まさに栃尾城の戦いが、越後国統一への始まりとなったのです。

黒滝城の戦いで強さをみせる

栃尾城の戦いの翌年1545年、上杉家の家臣である黒田秀忠の居城・黒滝城で合戦が起こりました。上杉謙信は、この黒滝城の戦いで強さをみせることになります。

秀忠が、長尾家に対して謀反を起こし、上杉謙信の兄である長尾晴景の居城・春日城が攻め込まれました。秀忠は、上杉謙信の兄の長尾景康や景房らを殺害したあと、黒滝城に立て籠もります。

上杉謙信は、兄に代わって義理の叔父である上杉定実から討伐を命じられ、総大将として軍を統率し突撃します。戦いは、何人もの兵が上杉謙信の槍になぎ倒され、敵は上杉謙信を見るなり逃げ出すほどでした。

上杉謙信の突撃により敵陣は混乱し、収拾のつかない状態に陥り、結果秀忠を降伏させることに成功します。ここでも、上杉謙信の指揮官としての強さを見せつけることになりました。

坂戸城の戦いで越後国統一

1548年、上杉謙信と兄の晴景は、父子の関係を結んで晴景が隠居します。そのため、19歳の上杉謙信が新しい守護代、春日山城城主となって家督を相続しました

1550年に、一族である坂戸城主の長尾政景が、上杉謙信の家督相続に不満を持って反乱を起こします。翌1551年、上杉謙信は政景方の居城・坂戸城に攻撃をしかけ、戸城を包囲することで鎮圧に至りました。

上杉謙信は政景を許すつもりはなかったのですが、姉の夫であったことと老臣たちの必死の命乞いもあって、政景を許しました。その後、政景は上杉謙信の重臣として健闘します。

政景を鎮圧したことで、越後国の内乱に終止符を打ち、上杉謙信はわずか22歳で越後国統一を成し遂げたのです。

上杉謙信の代表的な領地

上杉謙信が制覇した代表的な領地は、越後国・越中国・能登国・加賀国です。ここでは、上杉謙信が越後国以外に制覇した領地を、城や戦いを交えながらご紹介します。

越中国の松倉城

松倉城は、越中国(富山県魚津市)にある城で「越中三大山城」のひとつに数えられています。

上杉謙信と椎名安胤(しいなやすたね)が合戦した松倉城の戦いの舞台になりました。康胤が甲斐国の武田信玄と同盟を結び、上杉謙信に背き反乱を起こしたため、上杉謙信は松倉城に攻め込んだのです。

松倉城は康胤との戦いの際、容易には陥落できずに上杉謙信が越後に撤退するほど、自然の要塞(ようさい)に囲まれた城でした。撤退したあと、一時的に上杉謙信との和睦が成立したと言われていますが、上杉謙信は再び松倉城を攻撃します。

この戦いで康胤を降伏させ、越中国の松倉城を攻略することに成功しました。

越中国の富山城

越中国(富山県富山市)の富山城は、越中平野のほぼ中央部を流れる神通川と鼬川の間の平坦な土地に建っていました。

1572年に富山城を拠点とした、富山城の戦いが起きます。

上杉謙信と加賀・越中一向一揆との戦いでしたが、一向一揆が大量の鉄砲を保有していたのと、一向宗の団結力も強かったので、上杉謙信にとって武田信玄や北条氏康に次ぐ強敵でした。しかし、上杉謙信は富山城の戦いを含む一連の勝利により、越中の反上杉勢力に対する優位を確立し、越中を平定することに成功したのです。

能登国の七尾城

能登国(石川県七尾市)にある七尾城は、能登国を治めていた畠山家の居城でした。難攻不落で縄張りも広いといわれた城でもあります。

また、1576年に越後国の武将である上杉謙信軍と能登国の畠山家の重臣・長続連が率いる畠山軍が起こした、七尾城の戦いが有名です。

織田信長の勢力を押さえ込むためにも、北陸方面を平定しておくことが重要だと思った上杉謙信は、北陸方面の勢力拡大を目指していました。そこで、能登国の七尾城を攻めたのです。

畠山軍による籠城戦が始まりましたが、攻めあぐねた上杉謙信は一度撤退します。二度目の攻めで、畠山軍の遊佐続光が重巨の続連を裏切って、ひそかに上杉謙信と通じており、城内で反乱を起こしました。

これにより、続連が率いる畠山軍は討たれ、七尾城は上杉謙信の手に落ち、能登国も上杉謙信の支配下に入ったのです。

加賀国の手取川

加賀国(石川県白山市)の手取川は、1577年に上杉謙信軍と織田信長の重臣である柴田勝家軍との手取川の戦いが起きた場所として有名です。

手取川の戦いは、上杉謙信が七尾城を落城したことを知らずに、勝家が進撃したのがきっかけで起こりました。手取川を渡り終えたところでその事実を知り、すぐさま撤退を試みるも上杉謙信に追撃され、勝家が率いる織田軍は大勢の死傷者をだして大敗します。

この戦いにより上杉謙信は、七尾城とともに加賀国を守り抜き、越後国の領地制覇を果たしました

関東方面で攻略した領地

上杉謙信が出陣した国は、越後国の新潟や北陸の富山、石川以外に下記の国に及びます。

  • 長野
  • 群馬
  • 埼玉
  • 栃木
  • 茨城
  • 神奈川

しかし、上杉謙信は北陸方面では獲得した城を守ったものの、関東方面で獲得した城は放置して戻ってきていました。そのため、上杉謙信が亡くなったあとの領地は、越後・越中・能登と上野および信濃の一部となりました

上杉謙信と武田信玄の因縁

上杉謙信と武田信玄の因縁は、12年に及びます。上杉謙信は越後国のために、信玄と12年のあいだに5回も戦うことになったのですが、最後は両者退陣という決着がつきます。

そんなふたりの代表的なエピソードをご紹介しましょう。

北信濃を巡る川中島の戦い

領土拡大を目指し信濃国(長野県)の大部分を制圧した甲斐国(山梨県)の戦国大名である武田信玄は、残りの北信濃の制圧を目指して侵攻します。その際、北信濃や信濃中部の豪族から援助要請を受けた越後国の上杉謙信は、反撃を開始しました。このまま自国にも被害が及ぶことを懸念したためです。

この戦いが、川中島の地域を主戦場にして行われた、信玄と上杉謙信の北信濃を巡る川中島の戦いです。

川中島の戦いは、双方が勝利を主張したといわれています。その理由は、信玄はこの合戦を経て川中島一帯を獲得し、上杉謙信の初めの目的は領土の獲得ではなく、越後国に被害が及ぶことを回避するためであったからです。

上杉謙信にとっては、12年にも及ぶ長期戦でしたが、越後国を守り抜き、それが上杉謙信の財産であったことは疑いの余地はありません。

上杉謙信の義の性格を表すエピソード

上杉謙信の義の性格を表すエピソードと言えば「敵に塩を送る」が有名です。このエピソードは、上杉謙信と武田信玄の間で行われた出来事が由来になっています。

信玄の領地の甲斐国は、海に接していないため、東海地方から塩を入手していました。しかし、信玄と敵対していた東海地方の武将である今川氏真と北条氏康が、甲斐国への塩の販売を停止したのです。

塩が手に入らなくなった信玄領の民衆は窮地に陥ります。事態を聞いた上杉謙信は、宿敵である信玄にも塩を買えるようにしました

正々堂々と戦うことが本分であると思っていた上杉謙信は、塩止めには参加せず、高値にしないように商人に伝えて越後から塩を送ります。

上杉謙信が無償で塩を送った説もありますが、実際は高値で売らずに定価で販売したと言われています。また、塩送りは上杉謙信の国づくりに役立てた可能性も考えられる出来事でもありました。

上杉謙信の国づくり

上杉謙信の国づくりは、戦だけでなく他国との交易でも富を蓄えていました。

越後では青苧(あおそ)が特産品で、古くから衣服の材料として用いられており、青苧で作った越後上布を他国と盛んに交易していたのです。数々の戦は、交易ルートの確保という一面もあったといわれています。

日本海側は物流が発達しており、越後には複数の港が存在していました。上杉謙信は、これらの港に入港税を課したのです。それに加えて、越後の特産品である越後上布の移出管理も行っており、これらの税収が莫大であったとされています。

また、上杉謙信は青苧の取引に関わる商人から営業税として、冥加金を徴収していました。これにより、相当額の収入を得ていたと考えられています。

軍事力と経済力で越後国を統一した上杉謙信でしたが、最期は脳出血が死因でこの世を去ります。

「戦略の天才」と称された上杉謙信の人生は、人のために戦い、ときには敵すらも支援する「義の心」を重んじた武将の生涯であったといえるでしょう。