徳川家康は、初陣から戦いの連続でした。
織田信長と同盟を組んでから本能寺の変まで信長に付きしたがい、武田信玄を始めとする強敵と戦っています。

信長の勝利として有名な戦いには、家康が大きく貢献をしています。
浅井長政武田勝頼などに打ち勝った戦いの陰には、家康の三河武士団の働きが大きく貢献していました。

秀吉との直接対決である小牧・長久手の戦いでは、戦いには勝つものの財力や政治力に負けたところがあります。

関ケ原の戦いでは、戦況が不利であったものを覆して短時間で決着をつけています。単に武力だけでなく敵側の調略が功を奏しています。
初期の戦い方では、武力で押したところがありましたが、年を取るにつれ、老練な手段で勝利を確実なものにしています。

ここでは、家康の戦いの歴史を見てみましょう。

徳川家康 合戦一覧

年代 合戦名 勝敗 対戦相手
1558年 初陣 鈴木重辰
1560年 桶狭間の戦い 織田信長
1563~1564年 三河一向一揆 浄土真宗本願寺教団
1570年 金ヶ崎の戦い 朝倉義景・浅井長政
1570年 姉川の戦い 朝倉義景・浅井長政
1572年 一言坂の戦い 武田信玄
1572年 二俣城の戦い 武田信玄
1572年 三方ヶ原の戦い 武田信玄
1574年 第一次高天神城の戦い 武田勝頼
1575年 長篠の戦い 武田勝頼
1581年 第二次高天神城の戦い 武田勝頼
1582年 天目山の戦い 武田勝頼
1582年 天正壬午の乱(黒駒合戦) 北条氏政
1582年 賤ケ岳の戦い
1584年 小牧・長久手の戦い 和睦 豊臣秀吉
1590年 小田原征伐 北条氏政
1600年 関ケ原の戦い 石田三成
1614年 大阪の陣 豊臣秀頼

徳川家康 合戦解説

初陣

家康は、1558年に、今川義元の命によって、寺部城主 鈴木重辰を攻める戦いに参戦しています。
「三河忩劇」と呼ばれる国衆の反乱でしたが、今川家の人質としていた期間に武将としての英才教育を受けていた家康にとって初陣となりました。

桶狭間の戦い

1560年、今川義元は尾張に侵攻し、織田信長と桶狭間で戦いとなりました。
家康は今川軍の先鋒となり、大高城へ兵糧を運び入れることに成功します。
今川義元が討たれるとの報を受け、岡崎の大樹寺に入りました。
その後、岡崎城に入城、西三河を勢力下におきます。
その後、信長についた水野信元と戦いましたが、今川氏真が出陣しない事で離反し、信長と和解し清州同盟を結びます。

三河一向一揆

岡崎城の城主となった家康は、西三河の本願寺教団への特権侵害や流通統制、兵糧の強制的な徴収を行いました。
これをきっかけに西三河一帯で一揆が勃発、家康の家臣も多く一揆に参加することになります。
家臣団が分裂の危機に面していましたが、所領安堵や特権を与え、戦いに勝利したのち和睦を結ぶ政策をとる事で解決しました。
この戦いで、家康の家臣団の結束が一気に高まりました。
一揆平定後は東三河に侵攻し、三河統一を成し遂げます。

金ヶ崎の戦い

1570年、織田信長と同盟を結んだ家康は、朝倉義景を攻めます。
織田勢は大軍でしたが、北近江で浅井長政の裏切りに合い、挟み撃ちにされます。
この戦いは、後に「金ヶ崎崩れ」と呼ばれ、有名です。
この時、豊臣秀吉と徳川家康が後衛となり、信長を無事岐阜に帰還させました。

姉川の戦い

金ヶ崎の戦いの後、再び朝倉義景・浅井長政と戦います。
姉川の戦いでは、主となる敵は浅井長政であり、姉川を挟んで対峙しました。
この時、家康は一番隊として参戦することを信長に要求して、信長家臣の反対の中、信長に承諾させています。
合戦当初は朝倉・浅井軍が優勢でありましたが、家康が浅井朝倉軍の陣形が伸び切ってるところを見て、榊原康政に側面を攻めさせました
これがきっかけで、織田軍が勝利しました。

一言坂の戦い

1572年 武田信玄は西上作戦として、二俣城から浜松城に撤退中の家康を攻めました。
一言坂で追いつかれ戦いになったことで、「一言坂の戦い」と呼ばれています。
この時、本多忠勝の活躍により、家康はもちろん味方は一人の死者もなく撤退できました。

後に「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」と、狂歌が歌われました。

二俣城の戦い

1572年、一言坂の戦いからすぐに武田信玄は二俣城を包囲します。
家康にとっては、二俣城は掛川城と浜松城を繋ぐ重要な城でした。
信玄は二俣城の水の供給を断つことで、二俣城を降伏・開城させました。

三方ヶ原の戦い

一言坂の戦いや二俣城の戦いは、三方ヶ原の戦いの前哨戦です。
二俣城の戦いで、家康は遠江国北部を奪われました。

1572年家康は浜松城から出て三方ヶ原へ向かうところ、武田信玄がこれを迎撃しました。
戦いが始まり2時間という短さで、家康は壊滅的な敗北を味わいます。
信玄が浜松城を素通りして西に向かうことで、家康を誘い出すことに成功しました。
徳川軍の有能な武将を多く失うなか、家康は逃げ延びました。
浜松城に逃げ帰った家康は、追ってきた山県昌景隊に対し、「空城の計」にて引き上げさせました。

第一次高天神城の戦い

三方ヶ原の戦いの後、間もなく武田信玄が亡くなります。
1574年に家康と武田勝頼は、高天神城をめぐって戦います。
武田軍は25,000もの兵で攻撃しました。

この時徳川軍は、高天神城の籠城兵1000人です。

家康は信長に援軍要請しましたが間に合わず、落城しました。

長篠の戦い

1575年、武田勝頼は明知城や高天神城を攻略して、自分の城としました。
さらに長篠城を攻め落としたい勝頼は、長篠城を包囲しました。

織田・徳川連合軍は、設楽原に陣を敷き、馬防柵と鉄砲を活用して武田軍を打ち負かしました。
この戦いで、家康家臣の酒井忠次が信長に対し、軍議の席上で献策して却下されています。しかし、軍議の後ひそかに酒井を呼び出し、その献策を褒めたたえ奇襲作戦を採用しました。
これが後に鳶ヶ巣山攻防戦と言われる戦いで、これにより多くの武田の有力武将が討ち死にしました。

設楽原決戦では、織田・徳川軍は主だった武将の戦死は無かったのに対し、武田の多くの武将が討ち死にしました
結果、織田・徳川軍の大勝利で終わりました。

第二次高天神城の戦い

1581年、武田の城となっている高天神城を家康が5000の兵で攻めています。
この時に取った戦法は兵糧攻めで、武田の城兵の多くが餓死しており、高天神城を奪還しました。
この戦いを機に、武田勝頼の求心力が弱まり多くの離反者を出しています

天目山の戦い

織田・徳川と武田の最後の戦いです。
1582年、武田勝頼を天目山に追い詰めました。
先の第二次高天神城の戦いで、武田勢の内部崩壊が進み、穴山梅雪らが寝返りました。
そして、勝頼は天目山で自害しました
その後、武田残党を攻めた戦いを甲州征伐と呼ばれています。

天正壬午の乱

1582年、本能寺の変が起こります。

旧武田領地を支配していた織田家臣は逃げ、その後を北条氏直、上杉景勝、家康で争奪戦を繰り広げていました。
この、甲斐・信濃・上野などで広範囲に起こった合戦の総称を天正壬午の乱といいます。

賤ヶ岳の戦い

賤ケ岳の戦いでは、家康は豊臣秀吉と同盟を結びました。
家康はこの戦いでは、目立った動きをしていません。
天正壬午の乱が続いており、北条方との攻防により安易に賤ヶ岳に参戦できなかった事情があったと考えられます。

小牧・長久手の戦い

1584年、豊臣秀吉と徳川家康の直接対決となる戦いです。
賤ヶ岳の戦いで不満を抱いた織田信雄が徳川家康と同盟を結びます

信雄に親秀吉派の家老を殺害され激怒した秀吉が信雄に挙兵したいし、家康は反秀吉連合により秀吉包囲網を構築して秀吉を攻めました。
家康は次々と秀吉勢を打ち破るも、秀吉は織田信雄と和解し、戦う大義名分を無くした家康も続いて和解しました。

戦術的には家康が勝っていましたが、総合的な戦略としては秀吉の方が一枚上手でした
その後、秀吉はあの手この手で家康の上洛を画策し、結果として秀吉に臣従しました。

小田原征伐

豊臣秀吉が上洛要請を無視する北条氏政・氏直を攻めた戦いが、小田原征伐です。

家康はこの時、北条と秀吉の仲介役となっていましたが、一向に秀吉に従わないため、秀吉と共に小田原攻めに参加しました。
この戦いの後、家康は秀吉から関東移封を命じられ、領土は江戸を中心とした関東となります

関ケ原の戦い

豊臣秀吉死後に、豊臣政権の五奉行の石田三成と家康が戦かったのが関ケ原の戦いです。

1600年、石田三成が率いる西軍と家康が率いる東軍が岐阜県の関ケ原で戦いました。

当初上杉討伐で出兵した家康は、下野小山まで兵を進めた頃に石田三成が挙兵しました。
上杉討伐で参加していた武将の中に、豊臣恩顧の武将もいましたが、石田三成への怒りもあり家康に味方します。

関ケ原では、豊臣秀頼を補佐する毛利輝元・宇喜多秀家がおり、当初西軍有利と思われる転換でした。

しかし、小早川秀秋と吉川広家の裏切りにあい、東軍が勝利を収めました。

大阪冬の陣

1614年、このころ家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、大御所として政治を行っていました。

家康は秀頼に臣下の礼を取るように要請したのがきっかけとなり、大阪冬の陣が勃発します。

まず豊臣方は大阪城に武器弾薬、兵糧などを集め、浪人衆を雇い入れました。
集めた浪人の中には、真田幸村の姿もあります。

大阪城の城攻めですが、真田幸村が真田丸を築き善戦しました。

しかし、大阪城に大砲が撃ち込まれたことで和議が成立します。

その後、大阪城の外堀内堀が埋められ、大阪城の防御が著しく低下することとなりました。

大阪夏の陣

1615年、徳川政権は豊臣方の不穏な動きを察知して、浪人の解雇または豊臣家の移封を要求しました。

豊臣方は、数々の要求を拒否し、もはや戦うしかないと悟った豊臣方は、籠城戦は不利と考え野戦で戦う決定をします。
豊臣方は、徳川勢を翻弄し、天王寺・岡山合戦では、家康・秀忠本陣まで迫る勢いであったが、圧倒的な戦力差により壊滅しました。

堀を埋められた大阪城で、徳川方の攻撃に耐えられず、大阪城は炎上、淀殿と秀頼らは自害し、大阪夏の陣は終結しました。

家康の戦い方

徳川家康は、野戦が強いイメージがあります。

家康の代表的な野戦は、長篠の戦い(対武田勝頼)、小牧・長久手の戦い(対豊臣秀吉)、関ケ原の戦い(対石田三成)です。

若き日の家康は、織田信長と共に戦ってきました。信長も野戦が主でしたので、戦術的には慣れた戦い方だったのかもしれません。
ただ、城攻めや兵糧攻め(第二次高天神城の戦い)も時として、用いていました。

豊臣秀吉が兵糧攻めを多く用いたのは知られていますが、これは敵の数倍の兵数と長期戦に耐えられる莫大な軍事費用が必要となります。
しかし、味方の損失が少ないので、兵を減らしたくない秀吉には適した戦い方だったのでしょう。

家康の場合は、軍事費用が厳しい状況ですので、比較的短期決戦が出来る野戦を選ばざるを得なかったと考えます。