豊臣秀吉は農民から天下人まで上り詰め、異例の出世を果たした武将です。厳しい戦国の世で出世を果たすのは容易ではなく、1人では決してなしえないことでした。
武士の家や大名家で生まれたわけでもない秀吉が天下を取ったのは、秀吉の人生を支えた家臣団や共に戦う武将たちがいたからです。今回はそんな家臣団7人の武将と、秀吉の五大老・五奉行について紹介します。
豊臣秀吉の家臣団|その特徴とは
戦国時代で家臣というと通常は一門衆・譜代によって構成されていました。
- 一門衆
兄弟や家族・親戚などによって構成 - 譜代
古くからその一族を支えてきた人たちによって構成
しかし秀吉は農民から武将に成り上がった人物です。
兄弟や家族、また自分の元に仕えてくれる信頼できる人材を集めていくしかありませんでした。
織田家に仕え信長に認められ小谷城で一国一城の大名となってからは、妻であるねねの血縁をたどり近習(きんじゅ 主君の雑用をこなすもの)や馬廻(うままわり 大将に付き添い護衛・伝令などをこなす)を探し回ったといいます。
また信長からも家臣を与えられています。黒田孝高や竹中重治らが信長より与えられた家臣です。豊臣の家臣は秀吉が信頼できる人材を少しずつ加え構成されていった家臣団といえます。
大名から天下人となる間には全国の大名を従わせ、家臣団7名のほか、五大老・五奉行も定めました。
豊臣秀吉と子飼い七将
秀吉は家臣を増やしていく中で「子飼い」を行い、忠誠心の高い家臣団を構成しようと考えました。子飼いというのは、親類などから子を預かり家族のように育てていくことをいいます。
秀吉の妻「ねね」がいたからこそできた子飼いです。秀吉とねねには子どもがいませんが、預かり受けた子を家族として1つ屋根の下で暮らし育てました。こうして育てられた子供たちは秀吉の七将として活躍したのです。
福島正則
福島正則は尾張国海東郡で桶屋を営む家の長男として1561年に生まれました。正則の母が秀吉の妻「ねね」の妹であったことから、秀吉の小姓となります。
播磨三木城の攻撃で初陣を飾り、小牧長久手の戦い、四国征伐、小田原征伐、朝鮮水軍との戦いなど秀吉軍として多数の武功を積み上げています。
1595年秀次に謀反の疑いがかけられ、秀吉の命によって秀次に切腹の命令を伝えたのは正則でした。
1611年に徳川家康が豊臣秀頼との会見を要求し、反対する淀殿の説得にも正則が加わっています。しかしその後、加藤清正・黒田長政など豊臣の恩顧大名が奇妙な死を遂げたこともあり正則は病気を理由に隠居しました。
1619年に居城の改修を無断で行ったことで武家諸法度の違反とされ、領地や家屋敷を没収する「改易」を受け、1624年に病により64歳で死去しました。
加藤清正
加藤清正は加藤清忠の子として、1562年に尾張国愛知郡に生まれました。清正が3歳の頃に父親が亡くなり母と共に津島に移ります。
母親が秀吉の妻「ねね」の従妹(遠縁の親類ともいわれる)だったことで、当時近江長浜城主となっていた秀吉のもとに小姓として仕え始めました。その後、近江の名門「山崎片家」の娘を正室としました。
幼い頃から体が大きく、武芸に優れていたといわれています。加藤家三傑である森本一久・飯田尚影とは幼い頃に「負けたものが家臣となる」という約束の決闘を行い、清正が勝ったことで生涯の忠臣となりました。
秀吉の中国遠征で一番槍をあげるなどでも活躍していましたが、織田信長の後継者を決める戦いとなった「賤ヶ岳の戦い」で一躍名をあげます。豊臣から柴田へ寝返った山路正国を打ち取り、「賤ヶ岳の七本槍」の1人となりました。
また、加藤清正といえば「熊本城」です。関ヶ原の合戦以前から着手していた熊本城は1606年に完成しました。日本一の名城とうたわれた熊本城を築城したほか、肥後統治では城下町の整備や治水事業、商業政策など手腕を発揮しています。
清正は徳川家康と豊臣秀頼の会見を見届けると、肥後へ帰国する船の中で病に倒れそのまま亡くなりました。
池田輝政
池田輝政は織田信長の重臣として知られる「池田恒興」の次男として、1564年に尾張国清洲で誕生しました。1573年に母方の伯父である「荒尾善久」の養子となったことで木田城城主となります。1580年の花隈城の戦いでは荒木軍の武士を数名打ち取り、信長から感状を授かりました。
1582年本能寺の変で明智光秀に織田信長が討たれ、中国大返しの秀吉と合流した際、秀吉から養子にすると約束されます。輝政は京都大徳寺で秀吉によって行われた信長の葬儀で、羽柴秀勝らと共に棺を担ぎました。
小牧長久手の戦いで父の正興・兄の元助が討死し家督を継ぎ、秀吉に忠義を尽くす家臣として九州攻め・小田原攻めと秀吉の天下取り合戦に参戦します。翌年に岐阜城を与えられ、その後、吉田城に本拠地を移します。
1594年、秀吉の仲介で家康の二女「督姫」と結婚、秀吉亡き後は徳川家康に仕えることになりました。
関ヶ原の合戦では徳川方として岐阜城の戦いに参戦し、以前暮らしていた勝手知ったる城を攻め、その武功から播磨52万石を与えられました。また池田輝政は姫路城、江戸城や篠山城など名城の改修工事に関わったことで、「播磨宰相」「姫路宰相」と称えられています。
信長、秀吉、家康という戦国三英傑に仕えた波乱万丈の人生は1613年、姫路城で閉じました。
細川忠興
細川忠興は1563年に、室町幕府13代将軍の足利義輝に仕えていた「細川藤孝(幽斎)」の長男として京都で誕生しました。
1565年に足利義輝が三好家の軍勢に襲われ二条御所で討死します。この「永禄の変」の始まりにより室町幕府勢であった細川家も越前国の朝倉義景などに頼り、その後、明智光秀の紹介により父藤孝と共に織田の家臣となりました。
初陣は15歳の「雑賀の戦い」です。正興は雑賀衆ら敵軍の鉄砲攻撃を防ぐ銃弾除けを作成し攻撃に参加、武功を上げました。1578年に信長の仲介により光秀の三女「玉子」と結婚します。丹羽平定、有岡城の戦いなどでも活躍し武勲を上げ、国持大名となりました。
本能寺の変では舅の光秀が謀反を起こすという、忠興にとって非常に難しい状況となってしまったのです。父の藤孝と忠興は喪に服すために剃髪、藤孝は隠居、忠興は明智に協力しないことを明らかにするため、最愛の玉子を丹後国味土野へ幽閉します。関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献しましたが、大阪城にいた妻「細川ガラシャ(玉子)」は石田三成が人質にする動きを見せたため、忠興の足手まといになることを拒み自害しました。
細川ガラシャ自害の際に脱出した忠興の嫡男「忠隆」の正室「千代」と離縁させようとしましたが、忠隆に拒まれ2人を追放します。1620年家督は三男の忠利が相続し、1632年八代城に入城、1945年に亡くなっています。
浅野幸長
浅野幸長は1576年に近江国滋賀郡で安井重継の長男として誕生しました。出生からしばらくして信長に仕えていた浅野長勝の子どもに男子がいなかったことから、浅野家の養子となります。長政は浅野長勝の養女「やや」の婿となりましたが、長勝にはもう1人養女がいたのです。それがのちの秀吉の妻「ねね」でした。
幸長は織田信長に仕えていたのですが、織田信長の命によって秀吉の元「与力」として仕えることになります。与力というのは大名や有力な武士に従属する下級武士のことです。
1573年の浅井攻めで活躍を見せ秀吉の信頼を得ます。1582年には京都奉行の職に就任し、伝統や教養がなければ理解できない難しい問題をミスなく処理しました。
秀吉亡き後、関ヶ原の戦いでは東郡に属し、前哨戦となった岐阜城攻略で活躍、また家康と秀頼の会見の際には加藤清正と共に秀頼の警護として二条城に付き添って対面を無事終わらせています。1613年幸長は、当時の居城であった和歌山で亡くなりました。
加藤嘉明
加藤嘉明は1563年、三河国幡豆郡で松平家康の家臣「加藤教明」の長男として生まれました。その年の一向一揆の際、徳川家康に背き敗れ流浪の身となった父に連れられ、嘉明も放浪しています。
近江国に入った加藤教明と嘉明は秀吉に仕えることになりました。嘉明はその後、羽柴秀勝の小姓として仕えましたが、1576年播磨攻めの際に秀勝に無断で従軍し、秀勝の養母であり秀吉の妻である「ねね」の怒りを買います。ねねは嘉明を無頼ものだとして放逐するように秀吉に訴えたのですが、秀吉は逆にその意欲を評価し陣中に留め置き、300石を与え直臣としました。
信長が本能寺の変で倒され中国大返しで戻った秀吉による山崎の戦いに、嘉明も参戦し功績を残したこと、また賤ケ岳の戦いでも武功を残し「賤ケ岳の七本槍」の1人となったのです。
水軍での活躍の目覚ましく、小田原征伐の際には淡路水軍を率い戦い、文禄の役の際には船大将「九鬼嘉隆」に次ぐ副将格となって参戦、水上での数々の戦いにおいて認められ秀吉から感状を受け取っています。
嘉明は1631年に病を発症し桜田第でなくなっています。69歳でした。
黒田長政
黒田長政は1568年12月3日、黒田孝高の嫡男として播磨姫路城で誕生しました。当時の黒田家は御着城主「小寺政職」の家老で小寺姓でした。
父孝高は信長に仕えており、家臣であった秀吉に従っていました。1577年孝高は秀吉に起請文を提出、長政を人質として秀吉に預けています。(信長が播磨諸侯に人質を命じましたが政職の嫡子であった氏職が病弱だったため代わりに出されたといわれています)人質という立場で秀吉のもとにやってきた長政でしたが、秀吉にもねねにもよく可愛がられたようです。
本能寺の変により信長が亡くなると、父と共に秀吉に仕えます。備中高松城攻め、小牧長久手の戦い、九州平定と黒田親子は功績をあげました。その後、孝高は朝鮮出兵の前の1589年に隠居し、長政は家督を相続することになりました。
秀吉亡き後は家康に接近し、蜂須賀正勝の娘「糸姫」と離別した上で家康の養女「栄姫」を正室に迎えています。関ヶ原の戦いでは東軍の武将として、西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返り工作に貢献しました。
父は1604年に京都伏見屋敷で亡くなり、長政は1623年56歳で世を去りました。
秀吉政権下で活躍した「武断派」と「文治派」
秀吉の家臣の中には派閥があり、その2大派閥といわれていたのが「武断派」と「文治派」です。本来秀吉の家臣として結託しなければならないのですが、秀吉の朝鮮出兵辺りから対立が始まりました。
武断派のリーダーは秀吉の七将である加藤清正、文治派のリーダーは石田三成です。武断派と文治派について、またこの2大派閥の対立と関ヶ原の合戦との関係について紹介します。
武断派
武断派は加藤清正を筆頭に福島正則、黒田長政ら七将たちが顔を連ねます。武断派は武断「武力により世を治める」と考えていた派閥です。
加藤清正は朝鮮出兵の際、鬼将軍といわれるほど活躍したのですが、朝鮮との講和交渉で石田三成と意見が合わず孤立したことで日本に戻され、伏見で蟄居(田舎に退かされていた)せざるを得ず悔しい思いをしています。
黒田長政は賤ケ岳の戦いや小牧長久手の戦いなど、秀吉のもとで武勲を上げてきました。朝鮮出兵でも戦功を残していたのですが、石田三成の報告が悪く秀吉から叱責されました。それ以来、石田三成に不信感を持っています。
福島正則は賤ケ岳の戦いで一番槍の武勲を上げ、小牧長久手の戦いや朝鮮出兵でも秀吉の部下として著しい活躍を見せました。豊臣政権を支えているのは自分という思いがあり、武力もなくただ秀吉に可愛がられている石田三成のことが大嫌いでした。
文治派
文治派は文治「武力ではなく政務を担うこと」に従事していた派閥です。名護屋本営の設営や人員、兵器・食料の輸送など行う兵站、さらには交通路の確保に和平交渉など、頭脳を駆使する派閥といえます。石田三成を筆頭に小西行長、大谷吉継らがメンバーです。
石田三成は智将として有名な武将で、頭を使って秀吉を支えてきた人物です。賤ケ岳の戦いでは柴田軍を偵察する役割も担いました。1585年には五奉行の筆頭として太閤検知を行ったことでも知られています。朝鮮出兵時は奉行として海を渡り、「明」との講和交渉にあたりました。
小西行長は秀吉に才知を認められ重用されました。水軍の長として名高く、九州平定でも武功を上げています。朝鮮出兵の際、講和交渉で失敗し秀吉から死を宣告されながらも、前田利家が取りなし事なきを得ました。彼は石田三成を慕うというよりも、加藤清正が嫌いだったといわれています。
大谷吉継は武力に優れた武将ですが、九州平定では兵站(補給・輸送・管理の仕事)を任されるなど文治にも長けていた人物です。石田三成との友情が厚く、ともに船奉行などを務め、「明」との講和交渉も行っています。
武断派と文治派の対立から関ヶ原の合戦へ
豊臣秀吉が亡くなり、秀吉の後継者は嫡男「豊臣秀頼」に決定し、まだ5歳と幼かったことから五大老・五奉行の体制となりました。この頃から武断派と文治派の対立が激しくなっていったのです。
武断派は戦国時代の中で武力を用いて世を生き抜いてきました。しかし文治派は「これから戦がなくなれば武断派は必要ない」と考え始めます。2つの派閥には深い溝ができ始めたのです。この2つの派閥をうまく調整していたのが五大老の「前田利家」でした。しかし調整役だった利家は1599年に病で亡くなってしまったのです。
そしてとうとう「石田三成襲撃事件」が勃発しました。加藤清正・福島正則・細川忠興・池田輝政・浅野幸長・加藤嘉明・黒田長政という7名が石田三成を襲撃、石田三成は佐竹義宣と宇喜多秀家が助けに入り逃げ延びました。
このとき徳川家康が仲裁に入り、石田三成から五奉行の肩書を剥奪し隠居の身となることで事を治めたのですが、実はこの襲撃の黒幕が家康だったともいわれています。こうしたことがきっかけとなり、武断派は家康率いる東軍へ、文治派は石田三成率いる西軍として関ヶ原の戦いに突入していったのです。
五大老・五奉行
五大老・五奉行とは秀吉が晩年に整備した職制です。元々年寄や奉行と呼ばれる職があったのですが、秀吉が亡くなる前、秀頼を跡継ぎにすると決めてからこの職制ができました。
五大老は秀吉の幼き後継者「秀頼」をサポートする職で、秀吉は秀頼が成人するまで重要な政策などについて五大老の5人で決定するようにと遺言しています。
五奉行は秀吉の家臣の中から選ばれた人材で、秀吉が優秀と認め秀頼のもとで政策などを実行する役として任命されました。
五大老を務めた武将
五大老は以下のメンバーで構成されていました。
- 徳川家康
- 前田利家
- 毛利輝元
- 宇喜多秀家
- 小早川隆景
- 上杉景勝
- 前田利長
このメンバーの中でも特に徳川家康と前田利家は有力な人材でした。利家は信長の家臣筆頭、家康は信長の同盟者として2人とも戦国の世で高い実力と実権を持つ人物です。しかし頼りにしていた利家は秀吉が亡くなった翌年に死亡し、その役は嫡男の前田利長が引き継ぎました。
五奉行を務めた武将
五奉行は以下の5人です。
- 石田三成
- 浅野長政
- 長束正家
- 増田長盛
- 前田玄以
秀吉の元、政策の実現に貢献してきた頭脳明晰な面々です。太閤検地や築城などに元々関わっていました。長束正家は財政を担い、前田玄以は朝廷・寺社を担当、そのほかは行政に精を出していたといわれています。
五大老・五奉行の消滅
死期を察知した秀吉は、秀頼に託したい政権を他大名に奪われないように必死に考え五大老・五奉行という職制を制定しました。しかし秀吉が亡くなると徐々に機能しなくなります。最終的に五大老・五奉行は消滅に向かいました。
五大老・五奉行消滅までの出来事
- 徳川家康が秀吉の遺言を無視
五大老の中で最も影響力のあった家康
大名同士の婚姻を合議なく進めたり豊臣に不満を持つ大名を味方につけるなどした - 家康の勝手な動きに石田三成が立ちはだかる
前田利家の死後はさらにエスカレートした家康に対抗
豊臣と縁の深い大名を味方に引き入れようと画策 - 1600年石田三成が徳川家康に対し挙兵「関ヶ原の戦い」勃発
総大将「毛利輝元」として出兵
同時に自領会津にて上杉景勝も挙兵 - 関ヶ原の戦い「家康の東軍勝利」
家康率いる東軍の勝利により西軍大名は処刑・減封・取潰し
秀頼は一大名に格下げ
家康が政治の実権を握る - 徳川家康征夷大将軍任命
1603年に家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
政権が徳川に移り五大老・五奉行は完全消滅
このようにして秀頼のために策定された五大老・五奉行は、秀吉の死をきっかけとして消滅しました。
秀吉の死後、豊臣を滅亡させないために忠誠を尽くしてくれた家臣たちは大勢いましたが、家康の勢いには勝てず・・・豊臣は滅亡したのです。