徳川家康のイメージを聞いた場合、多くの方は「我慢強い」と答えるでしょう。
織田信長や豊臣秀吉に翻弄されながら最後に天下を取ったことで、「我慢強い」イメージが植え付けられたのは事実です。
しかし今ではNHK大河ドラマ「どうする家康」の家康像が上書きされて「短気」「優柔不断」「女好き」「慎重」というイメージでも有るかもしれません。
狸おやじ」と揶揄される家康の性格が嫌いだという方も多くいますが、何故そのように人気が無いのか疑問に思う方も多いはずです。
織田信長の様に、歴史小説のイメージが先行している可能性もあります。
家康を語る多くの史実や記録に基づき、どのような性格であったかを探っていきます。
この記事では、それぞれの角度から家康を見ていきましょう。

徳川家康の性格を表している出来事一覧

年代 出来事 性格
1547~1560年 織田・今川家の人質時代 我慢強さ・思慮深い・質素
1572年 三方ヶ原の戦い 臆病・短気
1575年 長篠の戦い 戦上手・思慮深い
1600年 関ケ原の戦い 人の見る目・ずる賢さ
1600年 三浦按針(ウィリアム・アダムス)との出会い 好奇心・勉強家
1614年 大阪冬の陣・夏の陣 ずる賢さ・人の見る目

徳川家康の性格を表すエピソード

徳川家康の性格を知るうえで、多くのエピソードが参考となります。
家康を多面的に見ることで、より深い性格を知る事が出来るはずです。
7つの項目から、家康の性格について触れていきましょう。

家康は我慢強い?人質生活が家康の我慢強さを形成した

徳川家康は、幼少のころ今川家と織田家に人質として暮らしていました。
特に織田家の人質として過ごしていたころは、織田信長と面識があり、後に同盟を結ぶきっかけとなりました。
家康は自身の両親と一緒に過ごした期間は短く、6歳で人質となりました。よって、親に甘えることも少なかったのだと考えられます。
人質の生活で、ワガママも許されなかったと推察されます。
徳川家康が残した言葉で、我慢強さを表す名言がこれです。
「人の一生は重荷を負って遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず。不自由を常とおもえへば不足なし」
「堪忍は無事(ぶじ)長久(ちょうきゅう)の基。怒りは敵と思え」
不自由だった人質時代を糧に、このような名言が生まれたのでしょう。

家康は臆病?気弱な主君を家来が支える構図

徳川家康に、蛮勇という言葉は当てはまりません。多くの文学、漫画で臆病な家康が描かれています。
戦国時代、臆病は決して悪い事では無いようです。なぜなら臆病ゆえに生き残れる可能性が高まるからです。
しかし、家康の場合、臆病ではなくむしろ慎重であったと思われます。
それは、家康が残した言葉が表しています。
「万事に用心のなきと言ふはなし」
「決断は、実のところそんなに難しいことではない。難しいのはその前の熟慮(じゅくりょ)である」
多くの困難な選択の場面で、熟慮を重ねた上で決断をしています。
家康が臆病である証拠として、武田信玄に敗走した際に馬上で脱糞した話ですが、実は典拠となる資料は不明です。
後世の創作とも言われています。
もう一つ、家康が気弱に見えるのは、信長のような独断的な部分が少ない事です。
常に、石川和正や酒井忠次を始めとして家臣と協議して決めていたようです。これが気弱な主君を家来が支えるように結束が強い主従関係に見えています。

家康は健康オタク?自分で薬を調合する徹底ぶり

徳川家康は、自分で薬を調合することで広く知られています。
戦国時代で、このように健康に着目した戦国武将はかなり少ないです。
これは、慎重であった事に通じるものであります。
鷹狩を好み、馬を巧みに操るのは、適度な運動につながります。
贅沢をせず、適度な量を食べる事を習慣としていました。
また、遊女と交わらなかったのも性病感染のリスクを知っていたからと考えられます。
この時代、多くの武将が性病に感染して寿命を縮めていました。
家康は遊女と交わらなかった代わりに、未亡人や名家の姫君を多く側室にしました。
子供を多く残す理由もあったかもしれませんが、性病リスクを避けたのは確かです。

家康はケチ?秀吉の真逆を行く質素倹約ぶり

豊臣秀吉は、お金の使い方が派手でした。
小田原征伐のように、お金に糸目をつけず攻略したり、黄金の茶室を建設したりといった派手な事をしていました。
一方、家康は質素倹約が代名詞のような生活をしており、お金を派手にばらまいたような印象はありません。
これも、苦しい人質生活で身に付いたものと思われます。
桶狭間の戦いから小牧・長久手の戦いまで、家康は戦いの連続でした。
戦争とは巨額の軍資金が必要となります。堺を手中に収める秀吉と違い、家康は年貢に頼る事が多くありました。
特に、秀吉と戦った小牧・長久手の戦いは戦では勝ったものの、領地が荒れており、長期戦では勝ち目が無かったと言われています。
このように、常に資金に窮している状態だったので、贅沢は出来なかったのです。

家康は好奇心旺盛?三浦按針を家来するほどの知りたがり

徳川家康は読書家でした。
家康は若い頃、織田信長や西洋文化の影響を強く受けたものと思われます。
日本で最初に鉛筆を使用したのは家康と言われています。また、眼鏡も使用しており、実際に愛用した眼鏡が久能山東照宮に保管されています。
しかし、家康自身はキリスト教徒との接触が無かったかのように、高山右近や小西行長のようなキリシタン大名との交流が見られません。
家康は以前より西洋に興味を示していましたが、更に発展したのが三浦按針との出会いでした。
三浦按針とは、イギリス人で本名はウイリアム・アダムスと言います。日本に漂着してそのまま家康の家臣となります。
家康と重臣は、按針から西洋の数学・地理学・砲術・航海術・天文学を学び、造船や大砲の建造に繋がっていきます。
このように老いても学ぼうとする姿勢は、生来の好奇心旺盛な性格によるものです。

家康は人を見る目がある?出来る人物は女性でも取り入れる

家康は、この時代に珍しく、女性でも有能な人物を取り入れています。
側室として、自分の側に置いて意見を聞いたり、時には交渉事も任せていました
特に有名なのは、阿茶局です。鋳物職人の未亡人で、大阪冬の陣で豊臣側と和平交渉を行い、徳川方の要求を受け入れさせた女性です。
その他にも、有能な側室が多数います。
女性を、身分にかかわらず積極的に登用している戦国武将は徳川家康以外にほとんどいません。
また、敵側だった武田旧臣も多く召し抱えてられています。
このように、女性であれ敵であれ、冷静に有能である人物の見極めは優れていました。

家康は優しい?裏切った家臣の扱いが寛容だった

豊臣秀吉は、裏切っていなくても無能と思われる家臣を、残酷な方法で殺害しました。
豊臣秀次は肉親でしたが、秀吉に自害を命じられ、秀次の一族は全員処刑という悲惨な最後を遂げています。
また、茶道の師匠である千利休にも切腹を命じています。
一方、徳川家康は裏切った家臣には寛容なところがありました。
三河一向一揆で、家康の家臣の多くが一揆に加担して家康を裏切りました。
一揆が鎮圧されて家臣が捕まりましたが、その多くは許され再び家康に仕えています。
しかし、すべての者に優しいわけではなく、本当に悔い改めた者にのみ、許しています。
そして、許されなかったものは処刑ではなく、追放という処置でした。
この事から見て、家康はあまり人を殺すのを好まない性格という見方が出来ます。

家康は何故、信長や秀吉よりも人気が無いのか?

徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉に比べ人気が無いと言われています。大河ドラマの視聴率でも顕著に出ています。
何故、家康が人気が無いのかを、織田信長、豊臣秀吉とも比べながら解説していきます。

「狸おやじ」を代表するずる賢しこさのイメージ

家康は良く「狸おやじ」と言われています。
これは、後年の関ヶ原の戦い以降のふるまいが、由来となっていると考えられます。
秀吉が亡くなるまでの半生を見ると、とても人をだますようなイメージが無く寧ろ愚直な印象を与えます。
おそらく、秀吉存命中は秀吉の巧妙さが目につき、家康が戦略的にうぶに見えるからです。
ですが、秀吉死後は、秀吉ほど心理戦に長ける者はおらず、秀吉にさんざん翻弄された家康にかなうわけもありません。
とは言え、家康も好んで豊臣家を滅ぼそうと考えた訳ではなく、乱世を終わらせるために苦しみぬいた結果、「狸おやじ」を演じたと思われます。

戦が強いのに、華やかさが無い

徳川家康の戦いの歴史を見ると、かなりの強者と戦っているのがわかります。
残念なのが、織田信長の名前に隠れてしまっている事です。
姉川の戦い」や「長篠の戦い」は織田信長の戦いですが、勝利の決め手になったのは家康軍の奮闘でした。
また、「小牧・長久手の戦い」についても、秀吉相手に勝利しています。
負け戦となりましたが、「三方ヶ原の戦い」では生き残り、なおかつ武田信玄に城攻めを諦めさせています。
家康は戦が強いのですが、信長の功績が目立ったりするなどで華やかさが無いのです。
理由として考えられるのは、信長の信長公記、秀吉の太閤記に比べ、家康の宣伝となるものが無い、つまり宣伝が弱いと考えます。

織田信長や豊臣秀吉、前田利家に比べ、生き方に破天荒さが無い

現在でも、ヤンキー漫画が一定の人気があるように、信長や利家のような傾奇者や秀吉のような派手でお祭り好きな破天荒な人物にあこがれるものです。
この3人は世間や上司に対抗するような反骨精神があります。
例えば、信長は世間の目があるにも関わらず奇抜な格好で町を歩き回ったりして、「うつけ」と呼ばれていましたが平気でした。
秀吉は、「手取川の戦い」で柴田勝家と言い争いになり戦線離脱しています。
利家は、若い頃信長寵愛の拾阿弥というものを斬り殺して、浪人となっています。
しかし、家康は信長に反抗せず耐え抜き、秀吉には和睦以降反抗せずにいます。
幼い時代から一貫して破天荒さが無いのです。
これが、多くの方が家康の生き方にハラハラするような面白みを見いだせず、人気が出ないことに繋がっています。
逆を言えば、感情に流されず思慮深いとも言えます。