天下統一を果たした武将として名高い「豊臣秀吉」は、「子宝に恵まれなかった」武将としても有名です。数少ない実子たちは病死・自害・処刑と、血族は残されていないといわれています。しかし本当に豊臣の血は絶えたのでしょうか。

豊臣秀吉の子孫|実子

豊臣秀吉はなかなか子宝に恵まれず、成人した実子は秀頼のみといわれています。しかしその秀頼は大坂夏の陣で自害し、秀頼の実子「国松」も徳川によって捕縛・処刑されました。
秀吉の実子が本当に秀頼のみであれば、国松が処刑された時点で秀吉の直系はいなくなったと考えられます。

しかし俗説などを調べると、もしかしたら?秀吉の血は絶えていないのかもしれないと考えさせられる話も出てくるのです。

まずは秀吉の実子についてその生涯を紹介します。

長男 豊臣秀勝

豊臣秀勝は秀吉が近江国「長浜城」城主だった当時に誕生したと伝えられています。幼名は「石松丸」です。

母は「南殿」ではないか?とされていますが、事実かどうかわかりません。

秀吉は実子に恵まれなかったこともあり、多数の養子を持ちました。養子のうち、織田信長の四男「於次丸(おつぎまる)」と秀吉の姉「日秀尼(にっしゅうに)」の次男であった「小吉(こきち)」も「秀勝」という名を与えています。

3人の秀勝がいてわかりにくいため、実子の秀勝は「石松丸秀勝」と呼ばれることも多いです。

秀勝は3歳か4歳くらいで早世したと考えられており、滋賀県長浜市のいくつかの寺に秀頼の供養塔が今でも残されています。

次男 豊臣鶴松

豊臣鶴松は1589年に秀吉と側室「淀殿(ちゃちゃ)」の子として誕生しました。秀吉と淀殿の長子です。

この時秀吉は53歳と高齢であり、鶴松の誕生を大変喜んだと伝えられています。民間信仰の「捨て子はよく育つ」に倣い、幼名は「棄(すて)」でした。

鶴松が4か月の頃には自分の跡継ぎにするために大阪城へ迎え、後陽成天皇からは祝いの太刀も贈られています。

しかし鶴松は1591年に病を発症し、症状は一進一退を繰り返しました。秀吉は全国の自社仏閣に病気平癒の祈祷を命じ、多くの名医を集め治療に当たりましたが、数え3つで命を落としたのです。

秀吉の嘆き悲しみは「自らの髻(頭上で束ねた髪の毛)を切った」ほどです。この時、秀吉に倣い徳川家康や毛利輝元ら諸大名も剃髪、その髪の毛の束は塚となるほどでした。

三男 豊臣秀頼

秀吉と淀殿の第2子「秀頼」は、1593年大阪城で誕生しました。秀吉が57歳の時の子です。

鶴松は捨て子はよく育つという言い伝えに倣い「棄」という幼名を付けましたが、今回は無事に成長するようにと「1度捨てて拾い上げる」という形を取りました。幼名は「拾丸(ひろいまる)」です。

鶴松を亡くした秀吉は養子の「豊臣秀次」を跡継ぎとしていました。しかし秀頼がこの世に誕生し、どうしても自分の実子を跡継ぎにさせたかった秀吉は秀次の地位をはく奪します。
結局秀次を自害させ、秀吉の跡継ぎは秀頼となったのです。

1598年に秀吉が死去し、秀頼は幼くして政権を継承します。秀頼には徳川家康を筆頭とする「五大老」と石田三成らの五奉行が補佐につきました。しかし秀吉亡き後に家臣の不和をぬぐうことはできず、1600年には関ケ原の戦いが始まります。

この戦いに勝利した「徳川家康」によって秀頼は65万石の1大名に転落し、「1615年」母親である淀殿と共に自害に至りました。

秀頼には国松という息子がいましたが、家康により捕らえられ処刑されています。また娘の天秀尼は仏門に入ることを条件として助命されていますが、37歳で死去したようです。

また事実かどうか定かではありませんが、「求厭(ぐえん)」という僧が死に際に秀頼の子だと告白しました。ただこの求厭も1688年に亡くなっていますので、本当に秀頼の子だったとしてもここで「秀吉直系」の血は絶えたと考えられます。

豊臣秀吉の子孫|養子

秀吉は長いこと実子に恵まれなかったこともあり、養子をとっています。秀吉が武将として憧れていたであろう「織田信長」の四男「秀勝」や、実姉「とも」の子「秀次」、さらには「徳川家康」の子「結城秀康」も秀吉の養子です。

複数の養子の中から今回は、「秀勝」「秀次」「秀康」について紹介します。

養子 秀勝(信長の四男)

豊臣秀勝は、織田信長の四男でした。石松丸(羽柴秀勝)を亡くした秀吉は主君であった信長に養子縁組を申し出て、於次丸(おつぎまる)を貰い受けました。
石松丸を亡くした悲しみももちろんあったと思いますが、信長が血族を常に優遇してきた様子を見ていた秀吉が、自分の地位を擁護する保険として貰い受けたのではないか?といわれています。

また一方では子供に恵まれなかった正室の「ねね」が懇意にしてくれていた信長に懇願したのでは?という説もあります。

信長の命によって中国地方征伐に出征し、秀勝は備前児島の常山城攻めに初陣、その後すぐに高松城攻めにも参加しました。
本能寺の変の際、秀吉が見せた「中国大返し」の際にも同行していたといわれています。

小牧・長久手の戦いに参加した辺りから体調が悪かったらしく、途中大垣城に留め置かれています。
1584年かねてより婚約していた毛利輝元との養女と結婚し、婚礼の儀は大阪城で行われたようです。

体があまり強くなかった秀勝は1585年正三位・権中納言にまで上り詰めましたが、12月10日丹羽亀山城にて病死しています。

この時秀勝は「18歳」という若さでした。

養子 秀次

秀次は秀吉が織田に奉公していた頃、秀吉の実姉「とも」と「三好吉房」の長男として産まれています。
秀次は幼い頃から「秀吉によって運命を変えられた人物」といっても過言ではありません。

4歳の頃、信長の近江国侵攻に合わせ浅井氏との交渉によって宮部の人質となり、浅井が滅亡すると次は河内国高屋城の三好の人質となりました。

1583年頃には三好家で家臣を束ねる地位となっていましたが、秀吉が信長の後継となり天下統一を果たそうと道を歩み始めると、秀次も羽柴信吉と名を改め天下人の甥という存在になりました。

小牧・長久手の戦いでは有力家臣を失い秀吉に叱咤されるも、紀州征伐・四国征伐において活躍し、羽柴信吉から「羽柴秀次」と改名、1586年には豊臣姓を授かっています。

一時期は2代目関白となり将来を有望視されていた秀次でしたが、淀殿との間に産まれた秀吉の実子、後の秀頼の誕生により最終的には「切腹」に追いやられてしまいました。

養子 結城秀康

結城秀康は徳川家康の次男として浜松城で誕生しました。
母は正室の築山殿の世話係「於万の方(おまんのかた)」であり、双子として産まれたため「畜生腹(当時双子は忌み嫌われた)」といわれました。双子のもう1人は誕生してすぐ亡くなっています。

こうしたことが要因で秀康は、家康の重臣「本田重次」の知人「中村屋」(現在の静岡県浜松市)で育てられました。
父である家康と初めて会ったのは3歳になってからです。

これも嫡男である松平信康が弟を不憫に思い、家康が岡崎城を訪れた際に会ってやってくれと懇願し実現したと伝えられています。

小牧・長久手の戦いでは家康が秀吉に勝利したのですが、織田信雄が勝手に秀吉と和睦を締結してしまい家康も和睦に同意しました。その際、豊臣家の家臣となり秀康は豊臣家に人質として差し出されます。豊臣の養子として迎えられたのは秀康の元服前でした。

その後は下総国の「結城家」に養子に出され、秀吉に鶴松が誕生したことで結城家の跡継ぎとなっています。松平秀康と名乗るようになったのは関ケ原の合戦後です。

元々梅毒を患っていた秀康は1606年伏見城の居留守を命じられましたが病状が悪化し、1607年になると越前に帰国し34歳という若さで亡くなりました。

豊臣秀吉の実子「秀頼」と養子「秀次」の運命

豊臣秀吉は子宝に恵まれなかったため、姉の子や大名の子など多数の養子をもらっています。特に実の姉「とも」の子どもであった「秀次」は、最終的に「秀吉」によって命を落とすことになりました。

秀頼も秀吉亡き後、家康に天下を奪われ大阪城にてその生涯を閉じるのですが、秀頼も秀次も秀吉の子となったことで運命に翻弄されることになるのです。

豊臣秀吉の実子「秀頼」と養子「秀次」の運命をたどってみましょう。

秀吉の実子「鶴松」の誕生と死亡

足軽から城持ちへ、そしてとうとう天下人まで上り詰めた秀吉ですが、子宝には恵まれない武将でした。
正室の「ねね」はとうとう秀吉の子を宿すことはできず、多数の側室も秀吉の子を宿したのは南殿(母であることははっきりしていない)と淀殿のみです。

秀吉の嫡男として生まれた秀勝(石松丸)は3歳か4歳で死亡しました。
そして淀殿との間に1589年に生まれた「鶴松」に対しては、異常なほどの愛情を示したといわれています。

しかしこの鶴松も1591年に病を発症し、秀吉の必死な病気平癒祈願もむなしく3歳でこの世を去りました。

秀吉は鶴松の死を嘆き悲しみ、政治に対する意欲も失い関白職を「秀次」に譲ったのです。

鶴松が生まれる前に起きた異常な「落書き」事件

鶴松が誕生する前、鶴松がおなかの中にいるときにある事件が起きています。
京都の聚楽第(秀吉の当時の邸宅)の門に「淀殿の子は秀吉の子ではない。たくさんの側室がいてこれまで子供に恵まれなかったのに急に子ができるのか怪しい」という落書きが見つかります。

秀吉はこれに激怒し、門番をしていた17名の武士の鼻と耳をそぎ磔に処しました。落書きをした犯人が大阪天満の本願寺に逃げたことがわかると自ら大坂に乗り込み犯人の引き渡しを命じ、門主の「顕如」は関係者であった尾藤道休を処刑して秀吉に首を引き渡したのです。

しかしこれでも怒りが収まらない秀吉は、犯人をかばったとして数人の僧侶も殺害、さらには道休の家があった町を焼き払い、近隣住民を六条河原で60人以上処刑しました。最終的に113名がこの「落書き」事件によって命を落としたのです。

この秀吉の常軌を逸した怒りは、秀吉自身が淀殿のおなかの中の子が自分の子なのかどうか不安だったからではないかといわれています。

姉の子「秀次」を養子に向かえる

秀次は実の姉「とも」の子でしたが秀吉の養子となりました。ただ秀次も数多くの養子の中の1人であり、秀吉にとって何か特別な思い入れがあったということもなかったようです。

しかし秀吉は鶴松が亡くなったことで、この先実子は望めぬだろうと秀次を内大臣に任命、さらに関白職も譲ります。
このとき秀次は24歳でした。
秀吉は自分の邸宅であった「聚楽第」も譲り、秀次はここで政務をとっていたのです。

秀次への愛情がわかる「五カ条の教訓状」

秀次は24歳という若さで関白職となり、秀次は豊臣の家督となりました。秀吉は秀次に「五か条の教訓状」を与えます。

この教訓状を読むと秀吉がいかに秀次を気にかけていたか、その愛情を強く感じます。

意訳するとだいたい以下のような内容です。

  • 国が静謐(静かで安から)になっても軍事に油断せず武器・兵糧を整えておけ
  • 出陣するときには兵糧を出し長陣を覚悟しろ
  • 法律を定め背くものは依怙贔屓(えこひいき)せず紛糾し親族や兄弟を問わず成敗しろ
  • 朝廷を敬い奉公を尽くせ 奉行は能力により選び人材を大切にしろ
  • 武将が戦いで亡くなった場合は跡目を立ててやれ ただし跡継ぎが10歳以下であれば名代を出させ、子がなければ兄弟に家督を継がせろ
  • 茶の湯・鷹狩り・女遊びに熱中するな 私の真似をしてはいけない
  • 茶の湯は慰みになるから茶会で人を呼ぶのは構わない
  • 鷹狩は飛鷹や鶉鷹を使う程度ならよい。
  • 召し使う女は屋敷の中におけ 5人でも10人でもいい ただし外でみだりに女狂いするな

秀吉57歳「実子秀頼」の誕生

秀次が関白を継ぎ、秀吉も少しずつ元気になり朝鮮出兵の指揮を執る中で、秀吉は思いもよらない朗報を正妻の「ねね」から手紙により知らされます。
秀吉57歳にしてまた淀殿に子ができたのです。

ねねに対しては「私の子は鶴松だけでもう遠くに行った。今度生まれてくる子は淀殿の子だ。」といっていますが、これは正室への遠慮だったのでしょう。
8月に生まれた赤子は男児であり、その子がのちの「秀頼」です。

秀吉は淀殿に「乳をたくさん飲ませなさい あなたも母乳が出るように飯をたくさん食べなさい」「秀頼はたくさん乳を飲んでいるか」と手紙を寄せています。

この目に入れてもいい最愛の息子「秀頼」の誕生によって、秀次の運命は大きく変わってしまうのです。

秀次 謀反の疑いと切腹

秀吉はすでに家督を秀次に譲っています。しかし秀頼の誕生によって秀吉はどうしても秀頼に家督を継がせたい、跡継ぎにしたいと考えるようになってしまいました。
関白であった秀次に対し、以下のようなことを言い出します。

  • 日本を5つに分けてそのうちの1つを秀頼に与えてほしい
  • 秀頼を秀次の娘と結婚させて婿養子にしてほしい

これでは秀次が不安になるのも仕方ありません。
いつかは自分の権力を奪われるだろうと思うのも当たり前でしょう。
実際、この秀次の不安は的中します。

石田三成(秀吉の奉行)が聚楽第を訪れ、秀次に対し「謀反計画」があるのではないかと問いただしてきたのです。

秀次にはもちろんそんな計画などありませんので誓紙(誓いの文句を書いた紙のこと)をもって無実を主張しましたが、結局高野山に登れといわれてしまいました。(当時高野山に登るということは罪を犯してもすべて許されるという慣行があった)

仕方なく高野山に登った秀次ですが、秀吉による使いであった福島正則らによって切腹を命じられ自刃したのです。

「豊臣秀吉」の子孫は現代に残っているのか?

秀吉はたくさんの妻(正室・側室)が存在したにも関わらず、実子は3人です。石松丸秀勝、鶴松、そして秀頼ですが、いずれも死亡しています。

石松丸秀勝は幼い頃に死没、鶴松も3歳で病により病没、秀頼は大坂夏の陣において徳川家康に追い込まれ23歳で自刃しています。

秀吉の直系の子孫は全てこの世を去ったということです。

秀吉の子「秀頼」には実子がいた

ただ秀頼には国松と奈阿姫という子供がいました。
国松は側室との間に生まれた男児で、大阪夏の陣の際に傅役(もりやく 主君の跡継ぎを育てる役割)であった田中六郎左衛門と乳母と共に大阪城を脱出したのですが、徳川方に捕らえられ六条河原で斬首されています。

奈阿姫は国松の年子の妹で、千姫(秀頼の正室)から助命嘆願を受け「仏門に入る」ことを条件として処刑は免れました。(奈阿姫は千姫の養女とされていた)

奈阿姫は鎌倉の縁切り寺「東慶寺」に8歳という幼さで出家し「天秀尼」となりましたが、1645年に37歳で亡くなっています。
天秀尼は8歳で仏門に入っていますので、この天秀尼の死亡によって秀吉の血は途絶えました。

ただ江戸時代初期に浄土宗の僧である「求厭(ぐえん)」が亡くなる際、「自分は国松の弟で大坂夏の陣で衛士により江戸に匿われ処刑を逃れた」と語っています。仮にこの求厭が本当に国松の弟、つまり秀頼の子だったとしても求厭は1688年に亡くなっていますので秀頼の直系は絶えています。

「豊臣姓」は残っているのか

秀吉の直系は絶えているとして、豊臣姓はどうなのでしょうか。

  • 秀吉の正室ねねの兄「木下家定」
    杉原姓から木下・羽柴、豊臣姓を下賜
    家定の子「利房」も「延俊」も藩を開き豊臣姓を許された
    廃藩置県まで存続
  • 秀吉の姉「とも」の実子「豊臣秀勝」
    (石松丸ではなく「とも」の次男「小吉」のこと)
    浅井長政の娘お江との間に「定子」が産まれているが九条忠栄に嫁いでいるため豊臣姓ではない

豊臣秀吉の直系の血脈は途絶えてしまいましたが、血脈という点では秀吉亡き後も秀吉の親族として子孫が残っているということがわかります。

ただしこうした歴史はあくまでも「歴史」で、もしかしたら秀吉の血を継ぐ隠された子どもがいたかもしれないし、斬首された国松が誰かに逃がされて落ち延びていたかもと考えてしまいます。当時のことを知っている生き証人はいないのですから、真実は誰にもわかりません。