関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣で歴史に名を残した英雄「真田幸村」ですが、そのルーツはどのようなものだったのでしょうか

幸村の前半生は謎に包まれている部分が多く、今も有名なエピソードとして残るのはほとんどが豊臣家に仕えた最後の数年間のことです。

幸村のルーツを探るべく、真田家の家系図や起源・その歴史について詳しく紐解いていきたいと思います

幸村と関わりが深かった父昌幸や、正室竹林院について、幸村の兄弟姉妹や直系子孫についてもご紹介していますよ。

幸村を語るうえでは欠かせない兄信之との関係性や別れのエピソードについてもご紹介していますので、ぜひ最後までお読みください。

真田幸村の家系図

真田家ですが、幸村の祖父にあたる初代真田幸隆がその始まりです。

幸村は、祖父幸隆の三男として誕生した父昌幸と母山手殿の間に次男として生まれました

昌幸の長男である兄信之(信幸)と四男昌親とは、関ヶ原の戦いの際に真田家の生き残りを賭けて敵となり戦うことになります。

また、姉には小山田家に嫁いだ村松殿がおり、関ヶ原の戦いに敗れたあと幽閉されていた九度山にて、正室竹林院との間に長男幸昌(大助)と次男守信(大八)が生まれています。

真田幸村のルーツ

英雄として語り継がれて今尚人気がある武将「真田幸村」ですが、そのルーツはどのようなものだったのでしょうか。

実は、幸村の前半生は謎に包まれている部分が多く、生まれた年もはっきりしていません

ここでは、真田家の起源や歴史について、家族の中でも幸村と最も関わりが深かった父真田昌幸と、幸村を支えた正室竹林院について詳しく解説していきます。

真田家の起源や歴史

真田家の起源は、長野県東部である東信濃から始まり、その後は沼田や松代に分かれながら戦国時代を駆け抜けました

そもそもは海野家が祖で、1541年(天文10年)に海野家が武田家・村上家・諏訪家の連合軍と戦ったときに味方したのが真田家初代幸隆とされています。

この戦いで海野家が敗戦したため、幸隆は上州に逃げてその後武田信玄へと仕えて長くを武田家と共にします。

その後は、後継者を失いながらも昌幸が当主となり、幸村やその息子とともに関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣を戦います。

このとき真田家の生き残りを賭けて父や弟と対立した信之が昌幸の築いた領土を継ぎ、沼田は4代・松代は10代まで続いて真田家は歴史に名を残す一族となりました

武田信玄とつながりが深かった父真田昌幸

幸村の父真田昌幸は、1547年(天文16年)に真田幸隆の三男として誕生しました。

昌幸が誕生したときには、真田家は甲斐国の武田家に仕えている状態だったため、真田家が裏切ることがないように昌幸は武田信玄の人質として預かられていました

人質となってからは、武田家で英才教育を受けて武田信玄の側近となり、15歳のときに川中島の戦いで武田信玄の警護の役割で初陣を飾ります。

信玄の死後も武田家に仕えていた昌幸でしたが、父幸隆が亡くなったあと後継者も続々と討死してしまい空白となった真田家を引き継ぐことになります

その後は真田家の生き残りのために織田家・上杉家・北条家・徳川家へと従事しますが、最後は徳川家と対立し幸村とともに戦って敗戦してしまったものの、真田家時代の滅亡は防ぐことができました。

真田幸村を支えた妻竹林院

真田幸村の正室は、豊臣秀吉の家臣であった大谷吉継の娘「竹林院」で、幸村との結婚は豊臣秀吉による政略結婚でした。

関ヶ原の戦いでは、幸村を含む西軍は負けてしまい、父大谷吉継は戦場で自害してしまいます。竹林院は、この戦いのあと幸村や側室たちと共に九度山に幽閉されることになります。

九度山では、領土を取り上げられて貧しい暮らしとなった幸村や子供たちを献身的に支えながら、自身との間にも幸昌を含む4人の子供を授かります

大坂冬の陣の際に夫と息子を戦場に送り出したあと、自身は娘を連れて京都へと逃れて1649年(慶安2年)に亡くなるまでは晩年を京都で過ごしています。

今は、京都の龍安寺境内にある大珠院にて、支え続けた夫幸村と息子幸昌と共に眠っているようです。

真田幸村の兄弟姉妹と直系子孫

真田幸村の兄弟姉妹と直系子孫にはどのような人物がいるのでしょうか。

真田家といえば、幸村の父昌幸や兄信之が有名ですが、この2人以外にも多くの親族が歴史に名を残しています。

真田幸村の兄弟姉妹

父昌幸から生まれたこどもは10人おり、幸村には異母兄弟を含む9人の兄弟姉妹がいます。

  • 長女:村松殿(1565年-1630年)
  • 長男:真田信之(1566年-1658年)
  • 清陽院(不明)
  • 清寿院(不明)
  • 五女:趙州院(不明-1666年)
  • 三男:真田信勝(不明-1609年頃)
  • 四男:真田昌親(不明-1632年)
  • 清光院(不明)
  • 名称不明女(不明)

村松殿は、父昌幸・母山手殿の長女として家族から敬愛されていたようで、幸村が大坂冬の陣のあとに彼女に送った手紙も残されています。

真田信勝・昌親は、幸村とは異母兄弟との説があり、関ヶ原の戦いでは兄信之とともに徳川軍について戦ったため、幸村とは対立しています。

関ケ原の戦いで父・弟と対立する真田信之

真田昌幸の長男であり幸村の兄である信之は、武田家が滅亡したあとの第一次上田合戦の頃は、父と共闘して真田家の勝利に貢献しています。

その後、真田家を敵に回したくない徳川家康が、家臣の娘である小松姫を信之に嫁がせましたが、真田家自体はそのときには豊臣秀吉に臣従していました。

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いが勃発しますが、信之と父昌幸・弟幸村は徳川軍か石田軍のどちらにつくのかを犬伏で話し合います

信之の正室は徳川家、幸村の正室は石田家にゆかりがあるということで、信之は徳川家康に、昌幸と幸村は石田三成について敵対して戦うことになりました。

関ヶ原の戦いは徳川軍が勝利しますが、信之が家康に父と弟の命を救うよう嘆願したため、2人は死罪を免れて流罪となり、真田家は敵対しながらも生き残ることができました

真田幸村の子供たち

真田幸村には、正室である竹林院との間に幸昌を代表とする5人の子供、5人の側室や名称不詳の女との間に9人の子供の計14名の子供たちがいます。

正室との間に生まれた幸昌は、子孫を残す前に亡くなっているため、真田家の直系はここで途絶えていますが、次男の守信が片倉家で元服したあと仙台真田家として今も語り継がれています。