与えられましたに真田幸村は、劣勢の中でも最後まで豊臣家に忠誠を誓い、徳川家康を本陣まで追い詰める活躍を見せるなどして歴史に名を残した戦国武将のひとりです。
武田家や織田家に認められた知略を活かして戦国時代を戦い抜いた幸村でしたが、今回は幸村の子孫について詳しく解説していきたいと思います。
正室竹林院との間に誕生した息子たちを始めとする直系子孫について、父昌幸から生まれた自身の兄弟の子供たちである傍系子孫についてそれぞれご紹介していきましょう。
また、正室だけではなく側室や伝承上語り継がれている子供も含めた計14人の幸村の子供たちについてや、幸村の子孫に芸能人や著名人はいるのかについても見ていきたいと思います。
真田幸村の子孫 | 直系
まずは、幸村の直系子孫である子供たちをご紹介します。
幸村には、正室竹林院との間に4人の子供・側室や伝承上の名称不明の子供が合わせて14人います。
その中から、竹林院との間に誕生した幸昌(大助)と守信(大八)について、側室隆清院との間に誕生した三男幸信について詳しく解説していきます。
真田幸昌(大助)
真田幸昌は、1601年に幸村が幽閉されていた九度山にて、正室竹林院との間に長男として誕生しました。
生まれた年は1600~1603年の間と諸説あり、名前は幸村の父昌幸を逆にして付けられました。通称は真田大助です。
大坂冬の陣の際には、幸村とともに大阪城に入城して真田丸でともに戦い、攻めてくる徳川軍を一蹴したとされています。
大坂冬の陣で幸村とともに出陣したのが初陣となりましたが、幸村の命で豊臣秀頼を守るために父と分かれて大阪城に戻り、そこで亡くなったとも逃げて生き延びたとも言われています。
真田守信(大八)
真田守信は、1612年に幸村が幽閉されていた九度山にて、正室竹林院との間に次男として誕生しました。通称は真田大八です。
大坂冬の陣の際には、父や兄姉とともに大阪城に入城していますが、わずか4歳のため戦いに参加することもできず、翌年の大坂夏の陣で父や兄を亡くしてしまいます。
その後は、伊達政宗の家臣であった片倉重長に保護されて白石城にて育てられ、そのまま片倉家の家臣となりました。
真田姓を名乗っていることで幕府から幸村の子として追及されたため、守信は幼少期に亡くなったこととして、真田家家紋である六銭紋の使用を控えて名前も片倉姓に改めます。
守信の子孫が8代目で姓を真田に戻したため、仙台真田家として現在も真田家は続いています。
真田幸信
真田幸信は、大坂夏の陣で幸村が戦死した2か月後に隆清院との間に三男として京都で誕生しました。
出生したときにはすでに父が亡くなっていたため、母方の祖父の旧姓である三好姓を名乗っています。
その後は、姉である顕性院とともに出羽亀田藩主であった岩城宣隆に引き取られ、元服後は三好左馬之介幸信と名乗り扶持380石を与えられました。
真田幸村の子孫 | 傍系
次は、真田幸村の傍系子孫についてご紹介します。
傍系子孫とは、幸村から見て父や息子のように縦のつながりではなく、兄や弟など横のつながりの中から生まれた子供など、共通の祖先を通じてつながる関係のことを指します。
ここでは、父 昌幸から誕生した幸村の兄 信之と弟 信勝・昌親やその子孫について詳しく解説していきたいと思います。
真田昌幸の長男 真田信之
真田信之は、幸村の兄で、関ヶ原の戦いのときには真田家の存続のために敵味方に分かれて戦った相手となります。
信之には計6人の子供たちがおり、正室稲姫との間には4人の子供がいます。
長男信吉は信之が生きている間に亡くなったため、次男である信政が父の跡を継ぎますが、その後はあまり後継が育たず養子をとって真田家を存続させたとされています。
幸村の兄である信之は90代まで生きて長命と言われていますが、その子供たちは父より早く亡くなってしまったり、うまく後継が育たなかったりと苦労していたのではという話です。
真田昌幸の三男 真田信勝
真田信勝は、幸村の異母弟で生みの母は不明とされています。
幸村とは年が離れた兄弟であったようですが、兄信之の引き立てがあり徳川家に仕えていたのではという説があります。
正室は徳川家の家臣であった牧野康成の娘であったが、離縁した可能性が高いとの話です。
信勝自身の生まれや没年すら不明ということもあり、子供が何人いたのかどのように子孫が続いていたのかはよく分かっておらず謎に包まれている部分が大きいようです。
真田昌幸の四男 真田昌親
真田昌親は、幸村の異母弟で生みの母は不明とされています。
関ヶ原の戦いの際には兄信之とともに徳川軍について戦ったとされていますが、こちらも生涯についてはよく分かっておらず、後継者がいなかったため子孫も途絶えています。
三男である真田信親は、親族である松代藩から内分分知され旗本となって2,000石を知行したことが知られています。
真田幸村の子供 全14名一覧表
続柄 | 名前 | 生没年 |
---|---|---|
長男 | 真田幸昌(大助) | 1601年辺り- |
次男 | 片倉守信(大八) | 1612年-1670年 |
三男 | 三好幸信(佐次郎) | 1615年-1667年 |
不明 | 真田之親 | 1618年-不明 |
不明 | 真江田瓢左衛門 | 不明 |
長女 | 阿菊(すへ) | 不明-1642年 |
次女 | 於一 | 不明 |
三女 | 阿梅 | 1604年-1682年 |
四女 | あぐり | 不明 |
五女 | 顕性院(なほ) | 1604年-1635年 |
六女 | 阿昌蒲 | 不明 |
七女 | おかね | 不明 |
八女 | 農家の娘の子 | 不明 |
九女 | 農家の娘の子 | 不明 |
真田幸村の子孫に芸能人・著名人はいるのか
大坂夏の陣にて徳川家康に敗戦して命を落とした幸村ですが、その後も分かれて戦った兄や弟が領土を継いで真田家は続いています。
長く続いた真田家の中で、現在も芸能人や著名人として活躍する真田幸村の子孫はいるのでしょうか?
本当の子孫かどうかは不明瞭な点もありますが、調べているうちに3人の名前が挙がりました。
- 真田徹さん(歴史研究家)
- 真田祐貴さん(元プロ野球選手)
- 有奈めぐみ(元女優)
歴史研究家の真田徹さんに関しては、真田幸村から見て14代目の子孫にあたり、現在は真田関連のイベントや講演会などを実施して過ごされているようです。
真田家に保管してある文書などを読んでしっかり研究してから発言されているため、エピソードの歴史的根拠やリアリティがあるように感じます。
自身が幼少期から幸村が先祖にいることはご存知だったようですが、定年退職後に時間ができたことでさらに祖先に興味がわいて研究科として活動するようになったそうです。