豊臣家に最後まで仕えた英雄として今も人気が残る武将「真田幸村」ですが、彼が残した言葉には魅力的な言葉が数多くあります。
武田家の家臣として戦国時代を戦った父のもとに生まれ、武田家滅亡後の激動の時代を豊臣秀吉に仕えて知略のある武将として生き抜きました。
そんな激動の時代の中で、幸村は多くの名言を残しています。
現代のビジネスにも通じるような言葉や、短い言葉、かっこいい言葉から幸村が最期に残した言葉まで、ひとつずつ詳しく内容をみていきましょう。
真田幸村名言集 | 短い言葉編
恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか
こちらの言葉は、「受けた恩を忘れて、自分ばかりいい思いをしているような奴を本当に人間と呼べるのか」という意味です。
関ヶ原の戦いを前に、父昌幸とともに兄信之と決別した犬伏の別れの際に言った一言とされており、おそらく恩を感じているのは豊臣秀吉、恩義を忘れて私欲を貪るのは徳川家康ではないでしょうか。
幸村は、豊臣秀吉から受けた恩を忘れることなく、最後まで豊臣家に従事して戦うことを決めます。
攻撃こそ最大の防御
こちらはその言葉の通り、「攻撃をしている間は攻撃を受けない」という意味です。
孫子も同様の言葉を残していますが、幸村もこのような言葉を残しています。
次の言葉からも幸村の強さはよく伝わってきますが、この言葉からも幸村は攻め気の強い武将だったのではないかということがうかがえます。
関東勢百万も候へ、男は一人もなく候
こちらの言葉ですが、簡単に言うと「関東にはたくさんの兵がいるが弱すぎて相手にならない」という意味です。
大坂夏の陣の際に、伊達政宗の軍を一蹴して追い払ったときに言い放った一言とされています。
このあと、伊達軍は追撃することや真田家との戦いを避けたようです。
短い言葉ですが、幸村の強さを象徴するような言葉でとてもかっこいいですね。
日本の半分をもらっても寝返るつもりはない
こちらの言葉ですが、「どれだけ日本の領土をもらおうとも、徳川家康側に寝返るつもりはない」という意味が込められています。
大坂冬の陣のあと、幸村の戦いぶりを見た徳川家康は、信濃一国を幸村に与えることを条件に徳川軍に寝返るよう要請しましたが、幸村はこの誘いを拒否しました。
豊臣家が負けることはきっと分かっていたのでしょうが、それでも最後まで寝返ることをしなかった幸村に男気を感じます。
真田幸村名言集 | かっこいい言葉編
夢をつかんだ奴より、夢を追っている奴のほうが、時に力を発揮する
こちらの言葉ですが、現代の私たちが聞いてもかっこいいと感じる名言ですね。
夢をつかんだり目的を達成したりすると、それまでの努力や気を張っていたものが少し緩んでしまうこともあります。
その点、夢を追っている最中の人は努力を続けているため、時に大きな力を発揮し、いざという時に強いということを語った言葉です。
夢をつかんでそこで終わりではなく、努力を続けることの大切さを思い出させてくれます。
十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか
こちらの言葉ですが、先ほどご紹介した「日本の半分をもらっても寝返るつもりはない」という言葉につながります。
大坂冬の陣のあと、信濃一国を条件に寝返ることを要請する前に、徳川家康は十万石の報酬を提示したようですが、こちらを幸村が拒否したため、報酬をより多く提示しました。
それでも幸村はこの誘いを拒否し、この言葉を残しています。
見返りの量の問題ではなく、どれだけ報酬をもらっても豊臣家を裏切るつもりはないということが強く伝わります。
人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ勇士の本意なるべし
こちらの言葉ですが、「命をかけるべき場面が来たら、潔く戦って討死することこそが武士の本意である」という意味です。
この言葉は、前述した犬伏の別れの際に、兄信之が豊臣軍が負けても父昌幸と弟幸村は死罪を免れるようにしたいという旨を伝えた際に放ったとされています。
豊臣家のために命をかけるのが自分の本意であり、それで死んでも構わないという強い覚悟を持って戦いに挑める幸村は、とてもかっこいいと感じました。
今はこれで戦は終わり也 あとは快く戦うべし 狙うは徳川家康の首ただひとつのみ
こちらは、大坂夏の陣で幸村が豊臣家の敗北をすでに悟った場面で出た言葉といわれています。
「戦いに負けることは分かっている、でも徳川家康の首だけは取るために本陣に突撃しよう」という旨の言葉です。
大坂夏の陣で戦いに負けることは分かっていても、徳川家康の首だけは諦めたくないと、玉砕覚悟で3度も本陣に突撃していきます。
家康の首を取ることは最後までかないませんでしたが、決戦中に家康が2度も自決を覚悟するほど幸村は徳川軍を追い詰めたといわれています。
真田幸村名言集 | 仕事にも通じる言葉編
部下ほど難しい存在はない
こちらの言葉ですが、その言葉の通り「部下の扱いは難しい」という意味です。
どれだけ自分を忠実に慕ってくれている部下であっても、ぞんざいに扱われたり不当な扱いを受けたりすれば恨まれてしまいます。
そうなってしまえば、いざというときに部下が自分の言うことを聞いてくれなかったり、自分が間違っている方向に進んだ時に意見してくれなくなったりするようになります。
人の上に立っても偉そうにせず、部下こそ大切にすることが大事だということが、この言葉から学べます。
いざとなれば損得を度外視できるその性根、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はない
こちらの言葉ですが、「いざというときに自分の損得を考えずに動ける人ほど手強い相手はいない」という意味です。
人は何か条件を出されたときに、誰しも自分の損得を少しは考えて行動してしまうものです。
そんな中であっても、自分の損得を考えずに行動することができる人ほど強い相手はいないということを教えてくれる言葉です。
損得勘定だけではなく、やりがいや挑戦した過程に意味を見出せる人間でありたいですね。
人は、自分を篤く思ってくれている人と生死をともにしたいもの
こちらの言葉ですが、「自分をよく思い慕ってくれている人と生死をともにしたい」という意味です。
九度山を出て大阪城に突撃するときに、幸村が自分の部下にかけた言葉とされています。
部下たちは、負け戦だと分かっていても誰も幸村を止めることなく黙って戦いについてきてくれたようですが、そんな部下と生死をともにしたいと幸村は感じたのでしょう。
仕事も同じで、自分を信じてついてきてくれる人間がいれば、辛い場面であっても最後まで頑張れるような気がしますし、そのような部下を育てたいですね。
真田幸村名言集 | 最期の言葉編
定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざることに候 我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候
こちらの言葉は、大坂夏の陣の前に義兄である小山田茂誠にあてた手紙の一節ですが、こちらが幸村の最期の言葉として現代に語り継がれています。
「このような不安定な世の中だから明日何があるかは分からない、自分たちはもうこの世にはいないものだと思ってください」という旨の言葉です。
戦国時代、いつ命がなくなるかも分からない場面だからこそ出た言葉ではないでしょうか。
何事もすえこと心に不叶き候共 御見捨無之やうに頼入候
こちらの言葉は、大坂夏の陣の前に書かれた幸村の遺言で、長女すえの夫である石合十蔵にあてた手紙に記されていた言葉です。
「自分とは考え方が合わないことがあったとしても、どうか娘を見捨てないであげてください」という意味の言葉です。
生きるか死ぬかの状態で戦い続けている中であっても、自分の娘のことを思いやり手紙を出すことができるということからも、幸村の魅力が分かるような気がします。
真田幸村の言葉はビジネスに使えるものや魅力的なものが多い
4つのカテゴリーに分けて真田幸村の残した名言をご紹介してきましたが、心に響くものはありましたか?
激動の戦国時代に残した名言ですが、現代のビジネスにも通じる言葉や、今を生きる私たちが見聞きしてもかっこいいと感じる魅力的な言葉がたくさんあります。
幸村の残した言葉から、いかに豊臣家に忠誠を誓っていたのかが分かるものもあり、数百年経った今も英雄として彼が人気武将である理由が分かるような気がします。