和同開珎は日本初の貨幣であり、日本で貨幣経済が導入されるきっかけとなった貨幣でもあります。

本記事では和同開珎とは何かを中心に、和同開珎の当時の価値やなぜ作られたのか、和同開珎の読み方などを解説していきます。

2024年になり、新紙幣が誕生したことで世間一般では大きな盛り上がりを見せましたが、和同開珎が登場した当時の日本でも同じような盛り上がりがあったのか、気になる方も多いはずです。

和同開珎がどのような影響を与えていったのかについて、詳しく解説していきます。

和同開珎とは?

和同開珎は、今から1,300年以上前、708年に誕生した貨幣で、元号が「和銅」だったことから和同開珎という名がつけられました。

和銅解放の大きさは直径がおよそ2.5センチ前後、10円玉を少し大きくしたような大きさで、真ん中に7ミリ程度の正方形の穴が開いているのが特徴です。

ルーツは唐で流通していた「開元通宝」という貨幣で、日本でもこれをマネて和同開珎が作られています。

和同開珎の当時の価値は?

和同開珎の当時の価値は、1枚1文として扱われており、1文でお米が2キロほど購入できたと言われています。

現在の日本でお米を2キロ買う場合、だいたい1,000~2,000円程度とされており、1枚の和同開珎で1,000~2,000円の価値があると推定できます。

一方、当時平城京が作られていた際に労働者に対して1日1枚の和同開珎が報酬として支払われていたと言われています。

このことから、今の価値にすると1枚10,000円程度の価値があったと見る向きもあるのです。

お米の価値は昔と今で大きく違うと考えると、1枚10,000円に近い価値があったと見るべきでしょう。

和同開珎の今の価値は?

和同開珎は日本初の貨幣とあって、ネットオークションを中心に高値で取引されている状況です。

1枚あたり250,000円で取引されている話もあり、以前と比べても和同開珎が持つ価値は高まっています。

そのため、和同開珎のニセモノも横行しており、ネットオークションで高値で購入してニセモノをつかまされるケースが出てきています。

刻印次第では100万円を大きく超えるとも言われており、和同開珎が持つ価値はニセモノをたくさん作りたくなるくらいにあると言えるでしょう。

和同開珎はなぜ作られたのか

そもそもなぜ日本で和同開珎が作られたのか、気になる方も多いのではないでしょうか。

実は和同開珎がなくても特に日本の経済は停滞していたわけではなかったからです。

本項目では、和同開珎が作られた理由について詳しく解説をしていきます。

日本に純度の高い銅が見つかった

当時朝廷では唐を模倣する形で国を作っていく動きが進められており、いずれ貨幣の導入を行っていきたいと考えていました。

そんな中、秩父地方で「和銅」が発掘され、朝廷に献上されています。

和銅は別名「ニギアカガネ」と呼ばれ、精錬を必要としない純度の高い銅であり、貨幣にはうってつけの材料でした。

この和銅の献上に朝廷は大盛り上がりし、当時の元号が「慶雲」だった中、なんと「和銅」に変えるほどでした。

裏を返せば、和銅が献上されていなければ、和同開珎の誕生は遅れていたかもしれません。

唐の文化を取り入れたかった

当時の唐は国際都市として栄えており、当時としては異例ともいえる人口100万人を突破し、世界有数の都市になっていました。

この時採用されていた律令制や租調庸が唐を発展させたとして、日本でも導入されています。

そして、唐を支えていたのが開元通宝だったのです。

開元通宝の単位として「銭」が誕生し、今でも単位として用いられています。

こうした唐の文化を採り入れたかった朝廷は貨幣を作り、日本でも貨幣経済を採り入れたいと考えたのです。

和同開珎の読みは「カイチン」?「カイホウ」?

和同開珎の読み方は2種類あるといわれ、「ワドウカイチン」と呼ぶケースもあれば、「ワドウカイホウ」と呼ぶケースもあります。

カイチンかカイホウか、果たしてどちらで呼ぶべきなのか、本項目ではそれぞれの説の根拠についてまとめました。

カイチン説の根拠

和同開珎を「ワドウカイチン」と呼ぶ根拠として、「珎」の呼び方が当時「チン」と呼ばれていたため、「ワドウカイチン」であるという主張があります。

「珎」には珍しいという意味があり、異体字として多くの人になじみがある「珍」が存在します。

カイチンかカイホウかを分けるのは、「珎」の取り扱いの違いであり、カイチンは「珎」の異体字である「珍」からつけられたという説です。

カイホウ説の根拠

和同開珎のルーツとなった開元通寳の「寳(ホウ)」の文字から一部を切り取る形で略字として「珎」が使用され、「和同開珎(ワドウカイホウ)」と名付けられたというのがカイホウ説です。

難しいを略す動きは他の文字でも行われており、例えば、和銅の銅も略されて、「和同」となっています。

この時の略し方を考えると、「寳」のうかんむりと貝の部分が省略されて、「珎」となります。

ルーツが「寳(ホウ)」なので、「珎」もホウと呼ぶため、「ワドウカイホウ」という呼び方になるというロジックです。

定説はカイチン説

カイホウか、それとも、カイチンか、結論から言いますと、定説はカイチン説で、カイチンの呼び方が有力です。

要因として珍を珎とするケースが多くみられること、「寳」は「宝」に変化していることが挙げられます。

このため、教科書でも和同開珎は「ワドウカイホウ」と呼ばれる傾向にあり、教科書では統一された呼び名となっています。

ただ、現状でもワドウカイホウ・ワドウカイチンいずれの呼び方も記載する形で紹介されるケースがほとんどです。

和同開珎の終焉までの流れ

和同開珎が出た当時、日本ではまだ竪穴式住居が一般的で、物々交換が当たり前のように行われていました。

しかし、和同開珎が労働者に配られた平城京やその周辺エリアでは和同開珎が貨幣として機能し、買い物などで使われています。

また朝廷が和同開珎を猛プッシュしたことで、和同開珎にブランドがつき、イニシアティブを握りたい官僚などが和同開珎を持っていたのです。

一方、和同開珎は和銅の価値を遥かに上回る貨幣価値を持っていたため、和銅ではない素材を活用して和同開珎を私的に鋳造する動きが出てきました。

政府はこれを禁止しようとしますが、なかなか鋳造をストップさせることはできません。

また地方では物々交換がメインだったため、和同開珎を導入してもなかなか和同開珎の導入はなされませんでした。

こうした動きから朝廷は和同開珎を諦め、万年通宝を作り、新たな貨幣を作り出しました。

和同開珎は段々と万年通宝に移行し、完全に消えたのは9世紀あたりと言われています。

和同開珎より先にあった通貨?富本銭について

1999年、飛鳥京跡の遺跡から「富本銭」が発見され、和同開珎より先に誕生した通貨として大きな話題を呼びました。

富本銭自体は戦後に入ってからさまざまな遺跡で発見されていましたが、1999年の発見でその可能性がかなり強まったと言われています。

一方、確かに貨幣として作られたものの、和同開珎よりも先に貨幣として流通していたと断言するのはできないとも言われています。

和同開珎よりも先に流通していたという証拠がないためで、現状では宗教目的に作られたものではないかという説まで出るほどです。

他の考え方として、富本銭は、別の形で財産を蓄積していた人々が富本銭の流通を阻止するために難癖をつけて失敗させたなど、色々な説が出てきています。

和同開珎は富本銭の失敗のリベンジとして作られ、結果として「日本初の貨幣」として浸透した説もあります。