平安時代は貴族中心の政治が広がった時代でした。朝廷内の権力争いが激しく、天皇と近しい関係になろうと多くの貴族が奔走しました。
貴族の中でも天皇と近い関係を築き政治的発言力を手にしたのが藤原氏です。藤原氏が始めた摂関政治によって、200年以上もの間藤原氏が政治を支配していたのです。

2024年の大河ドラマ「光る君へ」は、まさに摂関政治の最盛期を描いています。

この記事では摂関政治についてわかりやすく解説しています。きらびやかなイメージもある摂関政治ですが、実際にはどうだったのか。摂関政治が始まるきっかけから最後まで網羅しています。
摂政・関白に就任した主要人物についても紹介しているので、是非最後まで読んでみてください。

摂関政治とは


摂関政治とは、天皇を補佐する役目であった「摂政」および「関白」が行った政治を指します。

摂関政治が最も栄えた時代は平安時代。天皇の外戚(天皇と親戚関係だった貴族)関係にあった藤原氏が摂政、関白を務めました。
藤原氏は時の天皇に自身の娘や姪を妻として入内させて息子を儲けることで、次の天皇の祖父の立場になり強い発言力を持ったのです。

初代摂政の藤原良房が886年に摂関政治をはじめてから、上皇による院政がはじまる1086年までのおよそ220年もの間、藤原氏は日本で最大の権力者でした

摂関政治が始まった背景

奈良時代に律令国家が誕生し、天皇を中心に朝廷によって政治が執り行われるようになりました。

この時強い権力を持った豪族が藤原不比等です。不比等は自身の娘・宮子を文武天皇に嫁がせ、生まれた聖武天皇の外祖父として政治の表舞台に登場しました。

9世紀に入り藤原良房が娘を天皇に入内させ息子を授かると、わずか9歳でその子を天皇に就任させたのです。当然9歳で政治を行うことはできないため、補佐が必要となりました。こうして摂関政治がはじまったのです。

「摂政」と「関白」の違い

摂政と関白は天皇を補佐する役割という点では大きな違いはありません。補佐する天皇が幼年か、成人しているかによって役職名が変わります。

天皇が幼い、もしくは病弱で政治を行えない場合に補佐を行うのが「摂政」です。摂政は飛鳥時代から存在する役職であり、かの聖徳太子も摂政を務めています。

関白は天皇が成人している場合に補佐を行う役職です。摂関政治が行われた時期につくられました。名前の由来は中国の故事である「関(あずか)り白(もう)す」から来ているとされています。

摂関政治をつくったのは藤原氏


藤原氏は飛鳥時代から天皇に仕え、朝廷での権力を強めていきました。
藤原不比等を筆頭に、不比等の息子たちも続々と朝廷で重職に就いています。4人の息子たちが興した藤原四家はそれぞれ栄え、政界で活躍する人材を多く輩出しました。

南家、北家、式家、京家の4つの家がありましたが、平安時代以降特に力をつけていたのは北家です。北家出身の藤原冬嗣は当時の天皇・嵯峨天皇から信頼されており、蔵人頭という天皇の側近の地位に就いていました。
冬嗣も娘を天皇に入内させており、外戚として権威を振るったのです。

そして、正式に摂関政治を開いたのは冬嗣の息子・藤原良房でした。その後の摂政・関白もすべて藤原北家の血縁者です
この項目では特に有名な摂関政治の功労者を紹介します。

藤原良房|摂関政治の基礎を築く

藤原良房は摂関政治を築いた第一人者です。52代天皇だった嵯峨天皇から手腕を気に入られ深い信任を得ており、藤原北家の出身者として強い権力を築き上げました。子孫たちが相次いで摂政・関白の座に就いています。

良房の孫である清和天皇が即位すると後見人として政治を取り仕切りました。

正確には清和天皇の即位後摂政の任は退いているとされており、太政大臣として清和天皇に代わり政治を行っていたと考えられています。
その後応天門の変を機に正式に摂政に就任し、養子だった藤原基経の妹・高子を清和天皇に入内させました。

政治手腕も極めて優秀であり、晩年は『貞観格式』と呼ばれる法令の発布や、公的な歴史書『続日本紀』を完成させました。

藤原基経|関白という役職を確立

藤原基経は叔父・良房の跡を継ぎ摂政・関白に就任しています。良房が亡くなった後、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の四代にわたって朝廷の実権を握りました。
光孝天皇、宇多天皇の際には日本で初の「関白」に就いています。

基経本人は摂政・関白に就くことに対し消極的でしたが、清和天皇、陽成天皇の強い要望によりその地位を与えられています。

陽成天皇は素行が悪かったため基経から退位を迫られ、光孝天皇が跡を継ぎました。しかしこの時点で光孝天皇は55歳だったため、その後の後継者の決定も基経が行うことに。光孝天皇も基経による補佐を願ったため、この時事実上の関白になっています。

藤原時平|反・摂関政治派を一掃

藤原時平は摂関家最大のライバルであった「菅原道真」を左遷し、摂関政治が繫栄するため尽力した人物です。父・基経とともに宇多天皇に仕えていました。
次代の醍醐天皇の際は摂政・関白の役職こそ与えられてはいなかったものの、摂政と殆ど同等の権力を持つ「内覧」の地位に就いていました。

同じく内覧の地位に就いていたのが、敵対していた菅原道真です。
菅原道真が娘婿・斉世親王を皇太弟に立てようとしているという噂を聞きつけた時平は、醍醐天皇に菅原道真が宇多上皇を惑わしている、自分の娘婿に皇位を継承させようとしていると讒言し菅原道真を左遷させました。(昌泰の変

この事件により藤原氏の敵となる重臣は消え、摂関政治は最盛期を迎えます。

藤原道長|摂関政治の最盛期

当時藤原氏内では次の摂政・関白の座を狙った権力争いが起こっていました。この争いに勝利したのが藤原道長道長によって、摂関政治は最盛期を迎えました。

御堂関白の通称でも知られ、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という歌を詠んだことでも有名です。

道長の最大のすごさは、4人いる娘を4代にも渡り天皇に入内させたことです。この功績により、藤原氏内部でも圧倒的な権力を誇示しました。
天皇の外祖父としての権力を確立した道長は、後一条天皇の代に摂政に就任するもわずか1年で藤原頼通に譲っています。外祖父としての力が強大だったため、摂政の地位に固執する必要がなかったのです。

藤原頼通|皇子が生まれず、摂関政治は衰退

父・道長から後一条天皇の摂政を譲り受けた藤原頼通は、その後も後朱雀天皇、後冷泉天皇に関白として仕えました。

50年近く関白の地位に就いていましたが、天皇に入内させた娘たちは皇位を継ぐ男児を授かることができず、外戚としての力を徐々に失ってしまいます。

藤原氏の地位が揺らぎ始めたことで朝廷内外でも争いが生じるようになり、不安定な情勢が続きました。

最終的に頼通は外祖父になることできず、藤原氏を外戚に持たない後三条天皇が即位したことをきっかけに摂関家は力を失いました。

摂関政治の終焉


200年以上続いていた摂関政治でしたが、摂関家を外戚に持たない後三条天皇が即位したことで徐々に息を潜めることになりました。
摂関家によって長年天皇は力を持たなかったため、後三条天皇はここぞとばかりに積極的な改革を展開します。

後三条天皇の崩御後、白河天皇が後三条天皇の遺志を継ぎ親政を行いました。白河天皇の時代にも藤原師実と藤原師通が摂政・関白に就いていましたが、二人は白河天皇と協調関係を取っていたため白河天皇の親政を阻むことはありませんでした。

白河天皇が上皇となり院政が始まったことで藤原氏の強大な権力は薄れ、摂関政治は幕を閉じました。