日本には神社や寺、仏像など他国にはない独自の文化が多く現存しています。

特に文化が栄えたのは奈良時代、平安時代です。海外との国交が盛んになったことで、唐の文化が流入し日本でも真似た建造物が造られるようになりました。
また、国交により紙が日本にもたらされたことで、それまで木簡に記していた記録が紙に残されるようになりました。

唐をはじめとするさまざまなアジア国から強い影響を受け、日本で独自の発展を遂げた文化が天平文化です。天平文化の発展がその後の国風文化にも大きな影響を与えています。

この記事では天平文化の特徴や当時造られた建築物、文学などを紹介します。

天平文化とは


天平文化とは、奈良時代の720年代~740年代に日本で栄えた文化を指しています。「天平」は当時の元号から取ってつけられました。
平城京で広がった貴族中心の文化であり、華美で壮大さが特徴的です。

当時の日本は貿易が盛んになり、さまざまな国から文化が流入するようになりました。唐をはじめとするアジア諸外国の影響を受け、日本の独自文化が形成されていったのです。

また、それまで取り組まれていなかった歴史書や地方誌の編纂が行われたのもこの時代です。貴族の教養として漢詩文が広く伝わったことで、歴史書だけでなく和歌や漢詩集も作られました

天平文化の特徴

天平文化の最大の特徴は仏教政策の影響を強く受けている点です。

当時の天皇である聖武天皇は、国家を安定させるため仏教を信仰する鎮護国家思想 (ちんごこっかしそう)を持っていました。そのため、国の政策として寺や仏像が多く造られています。

国の後ろ盾を受け、僧侶が活躍し始めたのも天平文化の特徴といえます。聖武天皇の命によって東大寺の創建を指揮した行基や唐の僧侶で唐招提寺を建造した鑑真などが有名です。

天平文化と他時代の文化との違い

奈良時代に栄えた天平文化ですが、天平文化の前に栄えた白鳳文化や平安時代に栄えた国風文化とは特徴が大きく異なっています。

白鳳文化も仏教を中心に栄えた文化ですが、まだ日本の独自性は発揮されておらず、唐から伝来したものをそのまま反映していました。天平文化の期間に日本らしさが形成されたのです。

その後の国風文化は名前の通り日本独自の文化が形成され、建築や仏像の造り方も変化しました。
最も顕著な例は文字。天平文化は唐の影響が強いことから漢文が主流ですが、国風文化では仮名文字が主流になっています。
新たな文化が生まれた背景には遣唐使の廃止や貴族中心の政治が行われるようになったことなどが挙げられます。

天平文化の代表的な建築物

正倉院

正倉院は奈良県にある校倉造(あぜくらつくり)の高床倉庫です。おもに聖武天皇光明皇后のゆかりの美術品や工芸品などの宝物が収められています

正倉院はシルクロードの終着点」と言われており、天皇の宝物だけでなくシルクロード貿易によって諸外国から輸入された貴重な品なども所蔵されています。

正倉院に宝物が収められるようになったのは、光明皇后が夫である聖武天皇の愛用品を東大寺盧舎那仏像に奉納したことがはじまりだったようです。

薬師寺東塔

薬師寺東塔は730年頃に建てられた、薬師寺で唯一創建当時のまま残っている建物です。明治時代の美術学者・フェノロサが「凍える音楽」と絶賛したことでも知られています。

元々は天武天皇が皇后の病気治癒を願い建てましたが、平城京の遷都に伴い現在の場所に移動しました。

各層に裳階(もこし)と呼ばれる小さな屋根がついているため六重塔に見えますが、実際は三重塔です。裳階は庇の役割を担うだけでなく、建物をより華美に見せる効果があるため導入されていました。

東大寺法華堂

東大寺法華堂は国宝指定もされている東大寺最古の建造物です。「三月堂」の名前でも親しまれており、不空羂索観音像を祀っています。

古くは「羂索堂」の名前で親しまれていましたが、旧暦の三月に法要を行うことから徐々に「三月堂」の名前で呼ばれるようになりました。

東大寺に伝わる伝承によれば、聖武天皇の第一皇子であり早世だった基親王の御霊を祀るため創建されたようです。

天平文化の代表的な仏像


仏像はさまざまな技法を用いて造られます。天平文化では漆をメインに使い作り上げる乾漆造、泥や粘土を芯材に盛り付け形成を行う塑像を中心に作られました。
どちらの手法も奈良時代では主流でしたが、平安時代以降徐々に作品数が少なくなっているようです。

興福寺「八部衆立像」

興福寺国宝館に収められている八部衆立像乾漆造によって作られています。元々は734年に造られた西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていました

八部衆とは、インドで古くから信じられている八つの神が仏教を保護するため集められた姿です。仏教に関係のない神々が集められているため、その姿形はそれぞれ特徴を持っています。

造形自体は似ていますが表情は豊か。実物を見て表情の違いを楽しむのもおすすめです。

東大寺法華堂不空羂索観音像

天平文化に建立された東大寺法華堂にある不空羂索観音像も、天平文化を代表する仏像のひとつです。
こちらの仏像も乾漆造によってつくられました。

像の大きさは約3.6メートルとかなり大きく、全面が金箔によって仕上げられています。非常に華美で天平文化を象徴する姿だといえます。

不空羂索観音像が造られた経緯として、藤原広嗣の乱の平定を祈願するためにできたとする説や、東大寺盧舎那仏像の建立が無事に行われるよう邪気を払うために造られたとする説があります。

唐招提寺鑑真像

唐招提寺は759年頃唐から招かれた僧侶鑑真が建てた寺であり、そこに安置されているのが鑑真像です。この像は鑑真の弟子である忍基によって造られました。
日本に現存する最古の肖像彫刻としても知られています。

鑑真の生きた姿を忠実に表現しているとされており、耳毛まで精巧に表現しているそうです。鑑真は座って亡くなったと言い伝えられており、この像は亡くなった際の姿をそのまま残したという説が有力です。

天平文化の代表的な文学作品

万葉集

万葉集は日本に現存している最古の和歌集です。当時は漢文が主体だったため、すべての和歌が漢字で形成されています。
天皇、貴族といった高貴な身分の人から大道芸人や防人といった民衆の歌まで収められており、作者不明な和歌も含めると2000首以上が掲載。

有名な歌人としては山上憶良、大伴家持などが挙げられます。編纂者については詳しいことはわかっていません。

現在の日本の元号「令和」も、万葉集の和歌の一節から取られました。

古事記

古事記は日本の神話をまとめた日本最古の歴史書です。口伝で伝えられていた神話を稗田阿礼という人物が暗誦し、太安万侶が記録、編纂を行いました。そのため内容には物語性があり、当時は貴族の読み物として親しまれていました。

古事記の作成を最初に命じたのは天武天皇です。天武天皇は当時バラバラに伝えられていた日本の成り立ちや神話に関する話を順序だててまとめ、正しい日本の歴史を後世に伝えたいと考えました。

日本書紀

日本書紀は古事記と同様、日本に現存する最も古い歴史書の一つです。天皇の命令によって作られた正式な書物であり、成立はおそらく720年頃だったと考えられています神の代から持統天皇の時代までの歴史がまとめられました。
撰者は天武天皇の息子である舎人親王(とねりしんのう)など数名だったとされています。

古事記との違いは書かれた目的です。
古事記は天皇の歴史を記すことを目的として書かれていますが、日本書紀は日本国全体の成り立ちの歴史をまとめています。

風土記

風土記は地方別の風土や歴史、文化などを記した歴史書です。元明天皇が各地域の国庁に命を出し編纂を行いました。

奈良時代は律令国家として成り立ったばかりの時期であり、今後支配を強めるためには各国の事情を知っておく必要がありました。

風土記には国郡郷の名とその由来、名産物、土地が丈夫かどうか、地域にまつわる伝承などがまとめられています。