征夷大将軍という存在は歴史を知らない人でも一度は聞いたことがある役職です。しかし、征夷大将軍とはどういう仕事なのか、説明できる人は少ないかもしれません。

本記事では征夷大将軍とは何かを中心に、元々の意味から歴代の征夷大将軍についてまで解説していきます。

征夷大将軍は「将軍」と名がついているので、かなり偉い存在であるという認識を持つ人がほとんどですが、当初は世間のイメージで語られるようなものではありませんでした。

本記事を読むことで、征夷大将軍とはどういう仕事なのかがわかりますので、ぜひ最後までご覧ください。

征夷大将軍とは

征夷大将軍とはどのような役職の人物なのか、気になる方もいるはずです。実は蝦夷と大きな関係がある役職であり、世間のイメージとは異なる部分が見られます。

本項目では征夷大将軍とは何かを中心に解説していきます。

元々は蝦夷征討を任された将軍

征夷大将軍は朝廷における役職の1つであり、元々は東北にいる「蝦夷(えみし)」を討つために集められた軍隊の指揮官の役職です。

大和朝廷の時代において、蝦夷は東北地方を指す言葉でした。大和朝廷の影響力が及びにくかった東国、特に蝦夷周辺に対して朝廷は強い警戒心を抱いていました。蝦夷の征伐を任された将軍として、太平洋方面から軍を進める征夷将軍、日本海方面から鎮狄将軍がおり、当初は大将軍は存在していません。

794年になり、初めて征夷大将軍として、「大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)」が任命され、蝦夷進軍のたびに征夷大将軍として指揮しました。しかし、しばらくして蝦夷を制圧したことで、征夷大将軍としての役回りは終わりを迎え、しばらくの間、征夷大将軍は登場しませんでした。

幕府トップとしての意味合いは源頼朝から

世間のイメージとしての征夷大将軍は、武家政権のトップというイメージですが、そのイメージで征夷大将軍の職に就いたのは源頼朝からでした。当時はまだ東国の敵を倒す役職として征夷大将軍が存在しましたが、源頼朝は「武士のトップ」という権威を求め、征夷大将軍という役職を求めたと言われています。

源頼朝以降は、武士のトップとして征夷大将軍に就き、源家で引き継がれていきますが、途中から藤原氏が就くと、後続が将軍となり、宮将軍として担がれるようになりました。

再び武士が征夷大将軍となるのは足利尊氏からで、その後は徳川家が引き継ぐことになり、徳川慶喜まで続いていきます。

歴代の征夷大将軍12人

ここからは征夷大将軍の中でも有名な征夷大将軍を12人にまとめましたので、ご紹介します。

将軍名 役職名 功績
坂上田村麻呂 征夷大将軍 蝦夷の中心にいたアテルイを降伏に追い込む
源頼朝 鎌倉幕府
初代将軍
初の武士政権を樹立し、時代を築く
足利尊氏 室町幕府
初代将軍
鎌倉幕府を倒幕させてしばらくして、武士政権を復活させる
足利義満 室町幕府
第3代将軍
南北朝を統一させたほか、金閣を建立する
足利義政 室町幕府
第8代将軍
銀閣を建立するも応仁の乱を引き起こす
足利義昭 室町幕府
第15代将軍
織田信長に引導を渡され、室町幕府の最後の将軍となる
徳川家康 江戸幕府
初代将軍
戦国時代を終わらせ、武士政権を確立させる
徳川秀忠 江戸幕府
第2代将軍
武家諸法度を制定し、家康と家光のつなぎ役を勤め上げる
徳川家光 江戸幕府
第3代将軍
参勤交代を制定し、江戸幕府を盤石の状態にする
徳川綱吉 江戸幕府
第5代将軍
悪法も多かったが、社会福祉に力を入れる
徳川吉宗 江戸幕府
第8代将軍
享保の改革を行ったほか、学問の発展に大きく寄与する
徳川慶喜 江戸幕府
第15代将軍
大政奉還を決断し、武士政権を自らの手で終わらせる

征夷大将軍の中で有名な人物

上記の表でも紹介した12人の征夷大将軍の中でも、特に有名な人物を3人ご紹介します。

  • 坂上田村麻呂
  • 徳川家康
  • 徳川慶喜

上記3人の人物が征夷大将軍としてどのような功績を残したかについて詳しく解説します。

坂上田村麻呂

坂上田村麻呂は征夷大将軍として蝦夷に進軍し、蝦夷の討伐に寄与した将軍です。初代征夷大将軍だった大伴弟麻呂のサポート役として蝦夷討伐に参加し、実績を積み重ね、自らも征夷大将軍となりました。

当時身長は175センチと、栄養状態などを考えれば当時ではかなりの大柄だったとされ、怒りの表情を見せた時は鬼ですら恐れたと言われるほどでした。

坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命されると、蝦夷の中心にいたアテルイと対峙します。既に朝廷軍が勝勢で、アテルイは降伏をしますが、坂上田村麻呂はアテルイの命を助けるよう朝廷に頼み込んだのです。

結果的に朝廷が認めなかったため、アテルイを処刑したものの、坂上田村麻呂の姿勢に蝦夷側は納得して抵抗をやめ、蝦夷征伐に成功しました。

蝦夷の残党を排除するため再び征夷大将軍となり、無事に仕事を終えると、その後も重要な役職を担い続け、征夷大将軍や大納言の役職を手にすることになります。

徳川家康

徳川家康は1600年に関ヶ原の戦いで勝利したあともしばらくは征夷大将軍に就かず、足場を固めていき、支持基盤を構築していきました。

関ヶ原の戦いでは石田三成も徳川家康もそれぞれ、豊臣秀吉の後継者だった「豊臣秀頼」のために戦ったと主張していました。そのため、家康も豊臣秀頼を立てる必要があったため、すぐに征夷大将軍にはならなかったのです。

徳川家康は豊臣秀頼ではなく自らが最高権力者であることを示すために征夷大将軍に名乗りを上げ、認められました。

それでも征夷大将軍就任当初、家康は秀頼に対する配慮を見せています。段々と秀頼への支持が消えつつある中で、足場固めを行っていった家康が江戸幕府を盤石なものへとしていったのです。

徳川慶喜

徳川慶喜は江戸幕府第15代将軍となり、征夷大将軍に任命されましたが、京都を中心に活動しており、江戸城に入ることは最後までなかったとされています。

徳川慶喜が将軍になった時点で既に政治の主導権は朝廷にあったとされ、朝廷の本拠地である京都が政治の舞台となっていました。朝廷との調整を余儀なくされていたため、徳川慶喜は京都に滞在せざるをえなかったという背景があります。

征夷大将軍になったものの、慶喜はトップダウンの政治というよりも、老中に仕事を割り振るなど、政治改革を行っており、朝廷との関係は良好なものとなっていました。

しかし、のちの明治天皇が即位すると流れは変わってしまい、結果として大政奉還を選択し、自らの手で征夷大将軍としての歴史にピリオドを打ったのです。

征夷大将軍にならない・なれなかった将軍は?

武士のトップである征夷大将軍になれた人物がいる一方、征夷大将軍になれなかった将軍、もしくはならない選択を選んだ武士もいます。

例えば、源義経は源氏政権樹立に貢献した功労者であり、本来であれば征夷大将軍担ってもおかしくない人物でしたが、結果として兄の頼朝の不興を買い、征夷大将軍になれず、非業の死を遂げてしまいます。

また、織田信長は自らが征夷大将軍になる選択肢もあった中、あえてその選択をせず、結果的に本能寺の変によって命を奪われることになるなど、その選択が大きな影響を及ぼしたケースもありました。

そして、豊臣秀吉は天皇から征夷大将軍に任じられる打診を受けながらも辞退しました。様々な説がある中で、征夷大将軍ではなく関白になる形で政治的な存在感を誇示しようとします。

このように征夷大将軍になれなかった将軍の中にも様々なドラマがあります。