戦国時代の中でも「豊臣秀吉」は、百姓から関白・太閤、そして天下人にまでのし上がった武将です。
また秀吉は逸話が多く残されている武人でもあります。
一夜城に兵糧攻め、中国返し・・・戦国の世で他の誰も考えつかない作戦を成功させました。また秀吉は「人たらし」であったと現代に伝えられています。

そんな秀吉の人生には、要所ごとに「城」が関わってきました。
「城」についても秀吉のユニークな視点と大胆さが反映されているのです。
今回は天下統一を果たした豊臣秀吉の城作りや城攻めを紹介します。

豊臣秀吉とゆかりのある城一覧

墨俣一夜城 信長が美濃国を責める際の前線基地として築かれた。戦国武将蜂須賀小六らと一夜にして完成させたとされる城。
加古川城 信長に命じられた中国地方平定のため、協力者たちと軍議を開いた城。鉄壁の守りができる防衛施設でもあった。
長浜城壁 浅井長政攻めへの功績として信長から浅井の領地を拝領し築城。秀吉が初めて築いた城
姫路城 現在も別名「白鷺城」として知られる。黒田孝高より譲渡された。中国地方攻めの際、拠点となった城。ユネスコ世界文化遺産であり天守は国宝。
大阪城 信長亡き後、権力争いに勝った秀吉が自らの権威を示すために築いた絢爛豪華な城。信長の後継者であった秀頼が大阪夏の陣で徳川の攻めを受け自害した場所。
徳島城 秀吉の命により築かれた城。墨俣一夜城で城の建築に活躍した蜂須賀小六の息子、家政により築城された。
山崎城 本能寺の変を起こした光秀討伐の際に陣取った城。その後、大阪城が完成するまで秀吉はこの城で暮らした。
小田原城 数々の武将が落とせなかったまさしく「難攻不落」の城。秀吉は天下統一の仕上げとして北条氏の小田原城に総攻撃した。
伏見城 秀吉が隠居してから暮らす場所として築城された。ここで秀吉は波乱万丈な人生を終えた。

豊臣秀吉の軍事的才能は城にも活かされていた

豊臣秀吉の秀でた城作り

豊臣秀吉は「戦さで人を斬るのは嫌だ」といっていました。
確かに秀吉の十八番となる責め方も「兵糧攻め」「水攻め」など、「人を斬る」という行動はあまり見られません。

相手が早々に降伏を考えてくれるように・・・そんな秀吉の戦い方をする中で、「城作り」に長けていったのかもしれません。

墨俣一夜城の築城や姫路城の3層の天守閣、絢爛豪華な大阪城など、秀吉ゆかりの城は複数ありますが、こうした秀吉の城作りには城作りのブレーンがいたこともわかっています。

墨俣一夜城を築いた際には「蜂須賀小六」がいましたし、姫路城築城の際には黒田孝高(通称 黒田官兵衛)が関わっていました。

自らも城作りに大胆なアイデアを出すことができ、さらにそれを実行できるブレーンたちがいたことが、秀吉を城作りの名人に育てたのでしょう。

豊臣秀吉は城攻めの名人

城作りの名人であった秀吉は、「城攻め」の名人でもありました。
城を作るのに長けているということは、城の構造を理解しているということです。
どこが強くてどこが弱いのか、秀吉は攻める城とその環境を見極めた城攻めを得意としていました。

秀吉が城攻めの名人である戦いの1つが、「備中高松城攻め」です。

信長から中国地方平定を命ぜられた秀吉は、毛利氏の拠点の1つであった「備中高松城」を「水攻め」にしました。

備中高松城は低湿地帯に築城されており、水がたまりやすく、水はけも悪い城だったのです。
またこの城を水攻めにしたときは「梅雨」でした。
十分な水の量を蓄えた川から備中高松城を囲むように水を引き入れ、188haもの水を蓄えた人工湖が作られたといわれています。

周囲を水で囲まれた備中高松城は孤立し、この城の主「清水宗治」とその重臣たちが自害すれば領民・城兵を助けるという秀吉の取り決めに合意し和解しました。

この戦いのほかにも、武田信玄・上杉謙信でも落とすことができなかった「難攻不落の城 小田原城」も、秀吉によって落とされています。

豊臣秀吉の生涯と城

墨俣一夜城 一夜にして完成させた城

墨俣一夜城は秀吉のエピソードの中で、あまりにも有名な話です。

信長の美濃攻めの際、前線基地としてどうしても必要だった拠点となる城を、非常に短い期間で作りました。

築城に必要な木材などを寸法通りに仕上げてからイカダに積み、川を利用して墨俣の建築予定地まで運んだのです。
夜中に運んだことで、敵である斎藤軍は全く気が付かず大混乱でした。

斬新なアイデアによって作り上げられたこの城は、稲葉山城を攻める軍事拠点となり、信長は美濃を手中にできたのです。
本当に一夜でできたわけではなく、一夜にして完成したかのような手際の良さから、墨俣一夜城と呼ばれるようになりました。

加古川城 鉄壁の防衛施設

秀吉は信長から中国地方平定を命じられ、中国攻めに協力してくれる武将を集め会議を開きました。
その中国攻めの会議が行われたのが「加古川城」です。

加古川城の城壁の中には矢・鉄砲を発射できる場所があり、周囲を高所から見回す「物見櫓」に、城全体を囲む堀が存在していました。
加古川城は高い防御機能を持った「防衛施設」だったのです。

現在、称名寺というお寺がある加古川城跡には、今も城を囲んでいた堀の跡(水路)が見られます。

長浜城壁 秀吉が初めて築城

長浜城は、1573年の浅井氏滅亡の際、当時まだ藤吉郎だった秀吉に信長が戦功として与えた領土に作った城です。
この時「羽柴秀吉」と改名し、初めて「城持大名」となりました。

今浜城は(現代の長浜)、交通の要衝であると考えた秀吉が作った城ですが、どのような城だったのかよくわかっていません。
しかし竹生島の材木を運び、領民を集めたなどの記録が、古文書に残されています。

この浅井長政との戦では、秀吉が信長の妹である「お市の方」と3人の娘を救出したことでも知られています。
3人の娘のうち長女の茶々は、のちに秀吉の側室となった「淀殿」です。

姫路城 秀吉を天下取りに導いた黒田官兵衛生誕の城

ユネスコ世界文化遺産であり国宝として指定されている「姫路城」別名白鷺城にも、秀吉が関わっています。

中国地方平定を命じられた秀吉が、戦の拠点としたのが姫路城です。
姫路城といえば、秀吉の城作りに欠かせないブレーンであり、名軍師といわれた人物「黒田孝高(通称黒田官兵衛)」が産まれた城でもあります。

元々黒田家の居城だった姫路城は、黒田孝高により秀吉に譲渡されました。
秀吉は黒田孝高の意見を聞き、3層の天守閣を造るなどの大改築を行い、非常に美しく堅固な城となったのです。

日本の城は多くが戦火により焼失していますが、姫路城は築城後、大きな戦に巻き込まれることもなく、「不戦の城」として今に至っています。

大阪城 豊臣家滅亡の城

秀吉といえば大阪城、大阪城といえば秀吉といわれるほど、豊臣秀吉の代表的な城こそ「大阪城」でしょう。

信長亡き後、その地位を誇示するかのごとく築城されました。

豊臣秀吉の永華が象徴された城であり、悲しいことに「豊臣家滅亡の城」でもあるのです。

秀吉の跡を継いだ秀頼は大阪冬の陣で籠城し、徳川家の攻めを凌ぎ講和に持ち込みましたが、その条件として大阪城の巨大な堀の埋め立てを承諾しました。

もちろんこれは徳川家康の目論見通りです。

大阪夏の陣でも籠城を決め込んだ秀頼ですが、城の周囲には堀がありません。
徳川に火を放たれ大阪城は炎上、秀頼は炎上する城の中で自害したのです。

大阪城といえば秀吉!と連想するのですが、現在の大阪城は「大阪夏の陣」の後、徳川家康が築城し直した城です。
城の敷地内には、秀吉を祀った豊国神社が建立されており、境内には秀吉の銅像を見ることができます。

徳島城 四国平定後の秀吉が拠点とした戦国末期の城

秀吉が四国を平定したのち、政権の拠点として築城したのが当時の阿波国に築城されていた徳島城です。
秀吉が城作りの際、頼りにしてきた重臣「蜂須賀小六の息子家政」が「阿波藩 藩主」となりました。
戦国時代の中でも末期の城でしたが、残念ながら明治維新で取り壊されてしまい、現在は徳島城跡として国の指定史跡となっています。

元々は渭山城(いのやまじょう)という城があり、1385年に細川頼之が築城したと伝えられています。
その後は城主が変わっており、秀吉の四国征伐の際には長宗我部元親の家臣が入城していたようです。

しかし秀吉によって落城、秀吉は蜂須賀小六にこの阿波国を与えたのですが、高齢であり小六自身が「秀吉の側近として仕えていたい」と希望があったため、息子に託されました。

小田原城 秀吉だけが落とした難攻不落の城

小田原城は「難攻不落の城」と呼ばれ、当時の名だたる武将が落とそうとしました。
しかし誰も落とすことができず、戦国最大の居城といわれた城です。

秀吉はこの難攻不落の小田原城を、天下統一の総仕上げの場として選び、北条氏に総攻撃をしかけ落としたのです。

秀吉の十八番「籠城戦」により3か月で「ほぼ無傷」による開城でした。

小田原城征伐は「小田原評定」という言葉を残しました。
この意味は、「誰も責任を持った決断をせず、いつまでも結論が出ない会議・話し合いのたとえ」です。

籠城する中で北条は和議にするのか、抗戦を継続するのか議論したのですが、結局結論が出なかったため、こうした「たとえ」が残りました。

伏見城 秀吉が生涯を終えた城

秀吉が隠居生活をおくるために築城した城が伏見城です。
百姓から天下人までのし上がった秀吉は、この城でその波乱万丈の生涯を終えました。

伏見城は3度にわたり築城されています。
最初に築城されたのが指月山伏見城です。
秀吉は築城開始から2年経過した1594年に入城し、完成したのは入城から2年後の1596年でした。

指月伏見城は、経常伏見地震によって倒壊し、そこから北東に1㎞程の場所「木幡山」に新しい伏見城が築城され、1597年に完成しています。
秀吉はその1年後、1598年にこの城内で没しました。

秀吉亡き後、秀頼は秀吉の遺言に沿い伏見城から大阪城に移り、伏見城には五大老の1人「徳川家康」が入城します。

しかし関ケ原の戦いの際、家康の家臣らが留守を守る中、石田三成に攻め込まれ「伏見城の戦い」において城の半分が焼けてしまいました。

この際、伏見城に立てこもった鳥居元忠ら家康の家臣らは、石田に命を取られるのならと壮絶な最後を迎えます。
自らに刃を向けた際に飛び散った血痕が床板に残り、これらの床板は供養を兼ねて「京都市 養源院」などいくつかの寺の「天井板」となっています。

この血痕の飛び散った板は現在でも「血天井」として残されているのです。

その後の伏見城は家康により再建され、廃城となった城は「伏見桃山城」となりました。

今も続く「地下に眠る大阪城」掘り起こしプロジェクト

大阪城といえば「豊臣秀吉」ですが実は秀吉の大阪城は、徳川家康が築城した「徳川大阪城」の下、地下にあります。
1615年、大阪夏の陣により豊臣が滅んだ後、家康によって豊臣の大阪城の上に徳川家康の城が築城されたのです。

賤ヶ岳合戦により柴田勝家を倒した秀吉は大阪を手中に収め、本願寺跡地に大阪城を築きました。
本丸や二の丸は現在の大阪城とほぼ同じくらいの大きさですが、大城郭は2㎞四方にも及ぶ惣構(そうがまえ・・・城、城下町一帯を含めた外周を堀・石垣・土塁で囲んだ日本の城郭構造)だったといいます。

豊臣大阪城は徳川幕府による再築工事で地下深くに埋められてしまったのですが、昭和34年、大阪市・大阪市教育委員会・大阪読売新聞社による「大阪城総合学術調査団」により調査が行われました。

その際、上町台地のボーリング調査において、地下9.3m辺りから石垣と思われる花崗岩が見つかったのです。

さらに調査を進めると、地下7.3m付近で石垣が見つかり、その石垣の表面には「火災」の痕がありました。
見つかった石垣の石は現在の大阪城の石垣よりも「小ぶりな天然石」を「野面積」していたもので、豊臣の大阪城ではないかと予測されていたのです。

その後、東京で発見された大阪城本丸図により発見された石は豊臣の大阪城本丸「中ノ段帯曲輪」の石垣と判明、1984年には金蔵東側水道工事調査でも石垣が見つかりました。

現在も「徳川大阪城」の下に秀吉が築城した「初代大阪城」が眠っていることが判明し、大阪市では初代大阪城の石垣を掘り起こそうと「豊臣石垣公開プロジェクト」に賛同を求めています。

今も地下に眠っている豊臣石垣をいつか見ることができるかもしれないロマンあるプロジェクトです。

豊臣石垣公開プロジェクト

※江戸時代以前は「大坂」と記すべきですが、今回は全て「大阪」としています。