この記事では、奈良時代の重要施設である正倉院について解説します。

正倉院は天皇の宝物を保管する場所として知られ、その歴史や建築技術、そして保管されている貴重な宝物について詳しく探っていきます。

この記事を読むことで、正倉院の建築技術や歴史的背景を理解し、保管されている宝物の価値と重要性を再認識できるでしょう。

正倉院とは何か、そしてそこに秘められた歴史や宝物の魅力に触れ、その奥深さを感じ取ってみてください。

正倉院とは?

正倉院(しょうそういん)は、日本の奈良県に位置し、8世紀に創建された古代の倉庫です。主に奈良時代の聖武天皇の遺品や宝物を収蔵する目的で建設されました。

756年には既に存在しており、当時から多くの貴重な物品が保管されています。また、この倉庫は東大寺に属し、その宝物群は現在「正倉院宝物」として知られ、世界的に高い評価を受けているのです。

正倉院には、絹織物、漆器、金属工芸品、楽器など多岐にわたる文化財が保管されています。

その中には、古代ペルシャや中国からの交易品も含まれており、シルクロードを経由して日本に伝わった品々も見られます。

これらの品々は、日本の古代文化や国際交流の歴史を知る上で非常に貴重な資料です。また、正倉院はその長い歴史の中で多くの戦争や自然災害を乗り越えてきました。

特に、戦乱の時代や近代の戦争でもその宝物を守り抜き、現在まで大切に保管されてきたことは驚くべきことです。

このように、正倉院は日本の文化財保護の歴史とその実践の象徴であり、その存在は日本のみならず、世界の文化遺産保護に対する重要な一例となっています。

正倉院の建築技術|2つの工法

◆校倉造

正倉院の建築は、独特の工法によって築かれています。まずその1つが「校倉造(あぜくらづくり)」です。

この工法は、台輪の上に校木(あぜぎ)と呼ばれる木材を井桁状に組み、それを積み重ねて外壁を構成します。校木の断面は五角形や六角形の変形で、外壁は波板状になります。

校木は湿度や気温の変化に応じて伸縮し、内部の湿度を一定に保つ役割を果たしており、この特徴によって、宝物が長期間保存されやすい環境が整えられています。

◆寄棟造り

もう一つの工法は、「寄棟造り」です。これは屋根の形状を示し、四方向に傾斜する屋根を持つ構造です。

正倉院では瓦葺き(かわらぶき)の屋根を採用し、耐久性と防火性を高めています。これにより、雨水が効率よく流れ落ち、建物内部への水の侵入を防いでいるのです。

また、瓦葺きの屋根は重さがあり、建物全体の安定性を保つ効果もあります​。

宝物を守る高床式

正倉院の建物は、宝物を保護するための高度な設計が施されています。その中でも重要なのが「高床式」です。

床が地面から2.7メートルほど持ち上げられた構造で、湿気や害虫の侵入を防ぎます。高床式にすることで、風通しが良くなり、湿度が一定に保たれるため、宝物の保存に適しているのです​。

また、高床式の設計は、建物全体の耐久性をも高めています。

地面から離れているため、地震や洪水などの自然災害にも強く、約1300年間にわたり建物とその中の宝物を守り続けてきました。

また、建物の下部に空間を設けることで、点検や修理が容易に行える構造になっているため、高床式は正倉院の宝物を長期間にわたり保護するための重要な要素なのです。

1300年の歴史を誇る正倉院

正倉院は奈良時代に建てられ、約1300年もの歴史を持つ貴重な文化財です。

756年に光明皇太后が夫である聖武天皇の遺品を東大寺の大仏に奉献したのが始まりで、多くの宝物が収蔵されています。

これらの宝物は、奈良時代の文化や技術を知る上で重要な資料となっています​。

正倉院には、絵画、書跡、金工、漆工、木工、刀剣、陶器、ガラス器、楽器など、多岐にわたる文化財が収められているのですが、特に注目されるのは、その保存状態の良さです。

校倉造や高床式といった高度な建築技術により、温湿度が一定に保たれ、宝物が劣化しにくい環境が整っています。約1300年前の文化財が驚くほど良好な状態で残されており、世界的にも珍しい例とされています​。

正倉院を建てた人物

正倉院を建てた主な人物は、聖武天皇とその妻である光明皇后です。聖武天皇は、奈良時代の天皇であり、仏教を深く信仰し、東大寺大仏を建立したことで知られています。

聖武天皇は、仏教の深い信仰から多くの宗教施設を建立していますが、その一環として、正倉院も建設されました。

そして聖武天皇の没後、光明皇后が聖武天皇の遺愛品や東大寺に関する宝物を正倉院に奉納したことが、正倉院の宝物の始まりです。

正倉院は、元々は東大寺の倉庫として機能しており、聖武天皇や光明皇后が収集した宝物が多数保管されていました。

また、光明皇后は、藤原不比等の娘で、天皇以外の女性として初めて皇后となった人物です。彼女は、慈善活動にも熱心で、多くの孤児や病人を救うための施設を設立しました。

正倉院に奉納された宝物の中には、彼女の個人的な持ち物も含まれており、その文化的価値は非常に高いものです​。

正倉院に関する人物一覧

人物名 関連エピソード
聖武天皇(しょうむてんのう) ・正倉院を創建した中心人物
・自身の遺愛品や東大寺に関する宝物を納めるために正倉院を建設した
光明皇后(こうみょうこうごう) ・聖武天皇の后であり、正倉院に多くの遺品を奉納した
・彼女の施行による「紫檀の五絃琵琶」などが有名
町田久成(まちだひさなり) ・明治時代に正倉院を再評価し、宝物の保存と調査に尽力した文部官僚
・1872年の壬申検査で正倉院の宝物を調査しました
蜷川式胤(にながわのりたね) ・町田久成とともに正倉院の宝物を調査した文部省の官僚
・壬申検査での宝物調査に参加し、多くの資料を後世に残した
横山松三郎(まつやままつさぶろう) ・明治時代に正倉院の宝物を写真に収めた写真家
・壬申検査での活動の一環として、多くの宝物の写真を撮影
行基(ぎょうき) ・奈良時代の僧で、東大寺大仏の建立に尽力した
・彼の活動は聖武天皇の仏教保護政策と密接に関連しており、正倉院の宝物にも影響を与えた
橘諸兄(たちばなもろえ) ・奈良時代の政治家であり、聖武天皇の側近として彼の治世を支えた
・彼の政治的支援により、東大寺と正倉院の整備が進められた
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ) ・奈良時代の貴族で、聖武天皇や光明皇后と共に、正倉院の宝物の管理や維持に関わった
・彼の統治期間中に多くの文化財が正倉院に収蔵された
西川明彦(にしかわあきひこ) ・現代の正倉院事務所長
・1300年の歴史を誇る正倉院の宝物の保存と展示に尽力している

正倉院に保管されていた有名な宝物

宝物名 詳細
螺鈿紫檀五絃琵琶
(らでんしたんのごげんびわ)
・奈良時代、聖武天皇が唐から献上された五弦琵琶
・全長108.1㎝、最大幅30.9㎝
・紫檀に螺鈿の技法が施され、表面には小花や撥面に玳瑁、裏面には宝相華文や含綬鳥、飛雲の装飾がある
・五弦琵琶は演奏が難しく廃れたため、世界に現存する唯一のものである
赤漆文欟木御厨子
(せきしつぶんかんぼくのおんずし)
・7世紀に百済の義慈王から日本の内大臣中臣鎌足へ贈られ、天武天皇から孝謙天皇まで6代の天皇に伝領された厨子
・高さ100㎝、幅83.7㎝、奥行40.6㎝
・赤漆が施され、欟木の美しい木目模様が特徴
・明治時代に大破したが、1892年に復元された
大仏開眼供養会の伎楽面
(だいぶつかいげんくようえのぎがくめん)
・東大寺の大仏開眼供養会に使用された伎楽面
・詳細な情報は少ないが、当時の仏教儀式で使用された面であり、文化的・歴史的価値が高い
黄金瑠璃鈿背十二稜鏡
(おうごんるりでんぱいじゅうにりょうきょう)
・7〜8世紀に伝来した銀製の宝飾鏡
・直径18.5㎝
・鏡の裏面には宝相華文を彷彿させる花のデザインが七宝で施されており、18枚の花弁には黄金板が埋められている
・正倉院の宝物の中で唯一の七宝製品
鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ) ・奈良時代の752年に制作された屏風
・高さ135.9㎝、各幅56.2㎝
・全6扇に唐朝風の女性が描かれ、制作当初は山鳥の羽毛が貼られていたが、現在はほとんど剥落している
・「古代の美人画」や「樹下美人図」とも呼ばれ、756年の「東大寺献物帳」に記載されている

年表|正倉院に関する出来事

正倉院は奈良時代から現代に至るまで、数多くの修理や改修が行われてきました。

その歴史的背景には、盗難や自然災害による被害、保管物の維持管理の必要性などが関与しています。

年代 出来事
756年 光明皇太后が聖武天皇の遺愛品を大仏に奉納し、正倉院に保管される
971年 火事で講堂や僧房が焼ける
1031年 台風と見られる強風で勅封蔵、南倉に被害
1039年 僧らが勅封蔵を焼き、宝物を盗む
1057年 南倉と北倉の修理が行われる
1095年 勅封蔵、南倉の複数の倉が焼ける
1100年 冬季に正倉の修理が行われる
1130年 勅封蔵の湿損を点検
1180年 平重衡の南都焼きで東大寺焼失。南側の倉跡地が防火帯になる
1189年 勅封蔵の激しい湿損を点検するための調査を実施
1193年 北倉・中倉の修理が行われる
1230年 僧2人が鍵を壊して宝物を盗み、鏡を砕いて金属部分を売ろうとするが高値で売れず捕まる
1243年 勅封蔵の修理を実施
1254年 落雷で倉が焼けるが東大寺関係者が宝物を運び出し、事なきを得る
1567年 松永久秀の兵火で東大寺大仏殿などが消失
1603年 徳川家康の命により、正倉の修理が行われる
1610年 台風被害の片付けをした僧3人が北倉の古器を盗む
1663年 幕府により正倉の修理が命じられる
1830年 正倉の屋根が破損
1835年 正倉の本体工事と屋根葺替修理が行われる
1913年 正倉の全面的な解体修理が行われる
2011年 正倉の屋根葺替修理及び小屋組の補強が行われる