戦国時代の名将として知られる上杉謙信とその家系図を探求し、彼の子孫について紹介します。

上杉謙信はその生涯を戦いと政治に捧げ、独身を貫いたため直系の子孫を残すことはありませんでした。

その後の上杉家の歴史や家督争い、「御館の乱」などを通じて、彼の影響力がどのように受け継がれていったかを見ていきます。

この記事を読むことで、上杉謙信の家系図やその子孫に関する詳細な歴史を知ることができ、彼の遺したものが現在に至るまでどのように影響を与え続けているのかを理解しながら感じ取ってみましょう。

上杉謙信の家系図

上杉謙信は戦国時代の名将として知られ、その卓越した軍略と政治手腕で広く尊敬されました。

しかし、上杉謙信の人生には天涯孤独という側面があります。謙信は生涯独身で、実子を持つことはありませんでした。謙信は直系の血縁者を残すことなく1578年に急逝しました。

謙信の死後、彼の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で家督争いが勃発します。これは「御館の乱」として知られ、激しい内紛となりました。

最終的に景勝が勝利し、上杉家を継承しましたが、謙信が血の繋がった子孫を残さなかったことは、この争いの根本原因ともなっています。

謙信の生涯は戦闘と政治に捧げられ、その結果として家族を持つ機会を得ることはありませんでした。

彼の死後も、その名声と影響力は広く認められ続けていますが、個人的な孤独と家族の欠如は、彼の人生の一部として歴史に刻まれています。

上杉謙信の父・長尾為景

上杉謙信の父である長尾為景(ながお ためかげ)は越後国の戦国大名で、越後長尾氏の7代当主として知られています。父は長尾能景、母は信濃高梨氏の娘でした。

長尾為景は若い時から家督を継ぎ、守護代として越後を治めました。また、彼は下克上の典型的な例で、戦国時代に数多くの戦いを繰り広げています。

長尾為景は上杉房能と争い、永正6年には関東管領の上杉顕定と戦い、越後を一時的に失いますが、翌年には越後を奪還します。彼は幕府や諸将と連携しながら勢力を拡大し、加賀や越中などでも戦いました。

晩年は、国内の反乱に苦しみ、1536年には隠居を余儀なくされましたが、これは反対派と結んだ息子晴景が家督を奪ったとも言われています。

長尾為景の死は1542年1月に春日山城内で病死したとされ、享年54歳でした​。

上杉謙信の母・虎御前

上杉謙信の母、虎御前(とらごぜん)は、長尾為景の継室もしくは側室とされる女性で、上杉謙信の生母です。

彼女の父親については諸説あり、『上杉家御年譜』では長尾房景、『謙信公御書集』では長尾景隆とされています。栖吉城主の娘であり、この城で謙信が誕生したとの伝承があります。

虎御前の本名は不明で、彼女の名は謙信の幼名「虎千代」に由来するとされています。

また、夫である為景の死後、彼女は出家して青岩院(せいがんいん)とし、夫の菩提を弔う余生を送りました。

虎御前の没年については、永禄11年説がある一方で、永禄6年に作成された謙信の願文に「幼くして父母を失った」との記述があり、この願文の年代から考えると1563年以前に亡くなった可能性が指摘されています。

上杉謙信の養父・上杉憲政

上杉憲政は、戦国時代の関東管領であり、上杉謙信の養父です。彼は上杉氏の分家である山内上杉家の当主で、関東地方を中心に統治していました。

憲政が家督を継いだ頃、関東では北条氏の勢力が急速に拡大しており、憲政は北条氏と激しく対立します。

彼は扇谷上杉家や古河公方、今川義元と連携し、北条包囲網を形成しましたが、1545年の河越夜戦で大敗を喫しました。この敗北により、憲政の勢力は大きく後退し、最終的には1552年に居城である平井城を失います。

憲政は長尾景虎(後の上杉謙信)に助けを求め、越後国へ逃れ、景虎は憲政を保護し、彼を養父として迎え入れました。

憲政は1561年、鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領職を正式に謙信に譲渡したことにより、上杉謙信は「上杉政虎」と名乗り、上杉家の家督を正式に継承しました。

憲政はその後も謙信の支援を受けながら隠居生活を送りましたが、1579年に御館の乱の際、景虎を支持したために殺害されました。

上杉謙信の兄弟・姉妹

戦国時代の名将、上杉謙信には兄弟姉妹がいます。彼らは謙信の人生や戦略に大きな影響を与え、上杉家の歴史に深く関わっていました。

この章では、そんな謙信の兄弟姉妹の中から、特に注目すべき3人を紹介します。

長男・長尾晴景

長尾晴景(ながお はるかげ)は、越後国の戦国大名であり、越後長尾氏の8代当主です。晴景は長尾為景の長男として生まれ、幼少期には上杉定実の義子となりました。

その後、定実の娘と結婚し「定景」と名乗り、さらに足利義晴から偏諱を受けて「晴景」と改名しています。父・為景の隠居後、1536年に家督を継ぎました​​。

晴景は穏健な政策を取り、領内との融和を図りましたが、伊達氏との対立や揚北衆の暴走へ直面します。

黒田秀忠らの反乱などの内乱が続く中で、軍事行動には向いていなかった晴景は、弟である景虎に鎮圧を任せることが多くなりました。

景虎が反乱を鎮圧することで名声を高めると、一部の家臣からは家督を譲るよう求められるようになり、最終的に1548年に家督を景虎に譲り隠居し、1553年に死去しています。

次男・長尾景康

長尾景康(ながお かげやす)は、長尾為景の次男で、長尾晴景の弟です。彼は上杉定実の家臣として仕え、黒田秀忠の謀反に遭い、春日山で殺害されました。

景康は上杉謙信の養子となった長尾景勝の父であり、家督争いに巻き込まれた悲劇的な人物です。景康の死後、彼の息子・景勝は謙信の後継者となり、後に上杉家の家督を継ぐことになりました。

景康の生涯は、家族内の権力闘争と謀反による混乱の中で終わったのです。

長女・仙桃院

仙桃院(せんとういん)は、長尾為景の娘で、上杉謙信の姉です。彼女は上田長尾家の長尾政景に嫁ぎ、2男2女をもうけました。

長男の義景は早世しましたが、次男の景勝は謙信の養子となり、その跡を継いでいます。仙桃院は謙信の死後、家督争いに巻き込まれ、余生を景勝のもとで過ごしました。

また、彼女は1609年に82歳で亡くなり、米沢市の林泉寺に葬られました。

仙桃院は一族の権力闘争の中で重要な役割を果たし、その生涯は上杉家の歴史に深く刻まれています。

上杉謙信の有名な養子

上杉謙信は、戦国時代の名将として知られ、越後国を治めました。彼は優れた軍事指導者であり、その生涯で数々の戦いに勝利しています。

そんな上杉謙信は子供が居なかった為、養子を迎えて家督を継がせることにしました。

養子として選ばれた上杉景勝と上杉景虎の2人は、謙信の後継者争いを繰り広げ、上杉家の運命を大きく左右しました。

上杉景勝

上杉景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、豊臣政権下の五大老の1人です。

1555年、越後国坂戸城(現在の新潟県南魚沼市)で上田長尾家の長尾政景の次男として生まれました。母は上杉謙信の異母姉・仙洞院です。

幼名は卯松、後に顕景と名乗り、さらに上杉謙信の養子となって上杉景勝と改名しました。

謙信が後継者を定めずに死去したため、景勝ともう一人の養子である上杉景虎の間で家督を巡る「御館の乱」が勃発します。

この内紛で、景勝は武田氏の助力を得て最終的に勝利し、上杉家の当主となりました。

豊臣秀吉に仕え、会津120万石を領する大名として五大老の一員に選ばれています。また、関ヶ原の戦いでは石田三成ら西軍に属し、敗北後は米沢30万石に減封されました。

しかし、上杉家の存続は許され、景勝は米沢藩の初代藩主となったのです。彼は1623年に亡くなり、その後も上杉家の基盤を築いたことで知られています​。

上杉景虎

上杉景虎(うえすぎ かげとら)は、戦国時代の武将であり、上杉謙信の養子の1人です。

彼は北条氏の出身で、北条氏康の七男として生まれました。本名は北条三郎であり、後に上杉謙信の養子となって上杉景虎と改名しています。

景虎は謙信の意向で上杉家に迎え入れられましたが、謙信の死後、もう一人の養子である上杉景勝との間で家督を巡る「御館の乱」が勃発しました。

この内紛で景虎は、後北条氏や一部の上杉家臣団の支援を受けましたが、景勝側に対する劣勢が続きました。最終的に、景勝が武田氏の援助を得て形勢が逆転し、景虎は追い詰められてしまいます。

1579年、景虎は降伏を余儀なくされ、自害しました。

彼の死によって御館の乱は終結し、上杉家の家督は景勝に渡りました。上杉景虎は家督争いの中で悲劇的な最期を迎えた武将として記憶されています。