約400年続いた平安時代では、幾度と政権争いが起こりました。平安時代は貴族が強い発言力を持った時代であり、当時の権力者といえば藤原氏を思い浮かべる人も多いと思います。

藤原氏は天皇と親戚関係になることで力をつけていきましたが、藤原氏と親戚関係にない天皇が擁立されたことで、徐々に力を失っていきました。

藤原氏に代わり平安時代の末期に力を持ったのは「上皇」と呼ばれる人たちでした。貴族に支配されていた状況を打破し、上皇が政治を主導した政治を「院政」と呼びます。

この記事では院政について解説します。平安時代から始まった院政はいつごろまで続き、どのように行われていたのか。院政を行った主な人物や各時代の変化について紹介します。

「院政」とは


院政とは、天皇が在位中に次期天皇へ譲位し、「上皇」もしくは「法皇」として政治の実権を握っていた政治形態を指します。平安時代に白河上皇が始めたことで院政時代は最盛期を迎え、その後江戸時代まで形は残り続けました。
院政が始まったことで、かつて藤原氏が権威を振るっていた摂関政治は終わりを告げ、天皇家が主体となった政治が行われたのです。当時実権を握っていた上皇は「治天の君」とも呼ばれていました。

院政の名前の由来は、上皇が住む場所を「」、「院庁(いんのちょう)」と呼んでいたため、「院」で行われる「政」治から取ったとされています。実際に院政という言葉が使われるようになったのは江戸時代以降のことです。

院政のメリット

院政を行うメリットは天皇家に権力を集中させることができる点、そして朝廷から離れることで身動きが自由に取れる点です

天皇になるとさまざまな儀式、行事に参加する必要があります。その儀式や行事には朝廷が必ず参加しており、身動きが取りづらい状況でした。当時の天皇は自由な発言はできず、朝廷の意見を尊重するほかなかったようです。

しかし上皇になれば、儀式に参加することもなく、朝廷とも距離を置くことができます。縛られることなく自由な政治を執り行うことができたのです。

院政と摂関政治の違い

院政と摂関政治は同じ平安時代に行われていた政治ですが、内容はまったく異なっています。

摂関政治を取り仕切っていたのは摂政・関白と呼ばれる人々です。摂政・関白には当時権力を持っていた貴族・藤原氏が就いていました。藤原氏は天皇に自身の娘を嫁がせ、次代の天皇を生ませることで「外戚」という立場になり、天皇の後見として実権を握りました。

摂政・関白が強い権力を持っていたため、天皇は自分の意思で政治を行うことができませんでした。この状況を打破するために生まれたのが院政です。
院政時代最大権力を持っていたのは「上皇」です。院政になり摂政・関白はいなくなったと勘違いをしている人もいますが、摂政・関白は形だけの状態で残っていました

院政を行なった主な人物


この項目では院政の全盛期に活躍した上皇を解説します。
院政が始まるきっかけを作ったのは、白河上皇の父・後三条天皇です。後三条天皇は外戚関係を持たない天皇として即位し、藤原氏の権力を抑えつけました。後三条天皇が亡くなると、白河天皇によって院政の礎が築かれていきます。

最初に院政を始めたのは「白河上皇」

白河上皇は第72代天皇を務め上げた人物です。父である後三条上皇の死後、当時8歳だった息子の善仁親王(たるひとしんのう)に譲位し、上皇として実権を握りました。

息子の堀河天皇が即位した後すぐの段階では白河上皇はそこまで大きな実権は握っておらず、藤原氏と協調関係を築きながら政治を行っていました。
転機になったのは、息子の堀河天皇と時の関白・藤原師通(ふじわらのもろみち)の死。藤原師通は急死だったため後継がおらず、若く経験も浅い摂政が選ばれたため摂政・関白の権力は一気に没落しました。

白河上皇は朝廷の人事権を掌握し、父・後三条天皇に同調していた中小貴族を自身の周りにつけました。また、院庁を警固する北面の武士も設立しています。

白河上皇は堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の三代に渡り院政を展開しました。

後白河上皇

白河上皇の死後、鳥羽上皇、崇徳上皇に続き新たな上皇として専制政治を展開したのが後白河上皇です。
後白河上皇は崇徳上皇と皇位継承問題で争い(保元の乱)、見事勝利をおさめ上皇の地位を獲得しました。

後白河上皇は保元の乱で功績を挙げた平清盛源義朝を重用し、新たな政権づくりに努めました。保元の乱を機に武士が強い権力を持つようになり、後の武家政権成立にも影響を与えたのです。

上皇就任後も院内での争いは絶えず、1159年に平治の乱へと発展してしまいます。この事件を機に平清盛は太政大臣へと大出世し、後白河上皇と共に実権を握りました。

後白河上皇は出家し法皇になった後も院政を続けました。天皇5代に渡り院政を敷いた後白河法皇は、鎌倉幕府の基盤が出来上がりつつあった1192年に亡くなっています。

後鳥羽上皇

第82代天皇であった後鳥羽天皇は、1198年に土御門天皇に譲位をしたことで院政が始まりました。
すでに鎌倉には幕府が立ち上がっていましたが、当時の朝廷と幕府の関係は対等後鳥羽上皇は幕府とは良い関係を築いていました。

しかし、寵愛していた重臣平賀朝雅が北条氏によって討たれた牧氏事件を機に北条氏との関係に亀裂が生じます。後鳥羽上皇はこの時西面の武士という独自の武力を編成しました。幕府との衝突に備えていたという説もあります。

その後も幕府との関係は回復することはなく、後鳥羽上皇は1221年に承久の乱を起こしました。北条氏と対立している西国の御家人たちの戦力を期待しての挙兵でしたが、幕府側の圧倒的な戦力に後鳥羽上皇側は敗れ、隠岐に配流されてしまいます。

後嵯峨上皇

第88代天皇である後嵯峨天皇の院政が始まったのは1246年のことです。この時には朝廷は幕府の統制下にあり、後嵯峨上皇の院政は幕府の判断の元行われていました。後嵯峨上皇は幕府に対し対立することなく、北条氏と協調して朝廷を取り仕切っていたことがわかっています。

御嵯峨天皇は息子の後深草天皇に譲位していますが、その後寵愛していた後深草天皇の弟・亀山天皇に天皇を譲るよう進言しています。これを機に後深草天皇と亀山天皇には確執が生まれ、後の持明院統・大覚寺統の対立、南朝・北朝の対立へと発展していきました。

室町時代以降の院政

後醍醐天皇の親政により一時院政が中断

幕府による支配体制に不満を持った後醍醐天皇は、鎌倉幕府に対立している勢力を束ね討幕を決行し、見事鎌倉幕府を滅亡させました。
鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇がおこなった政治を建武の新政と呼びます。
建武の新政では後醍醐天皇が治天の君として政治を主導したため、上皇は置かれませんでした。

急進的な改革を進めようとする建武の新政は官民から支持を得られず、わずか数年でその治世を閉じます。朝廷が北朝、南朝に分裂した数年後、北朝では院政が復活しました。

財政難から院政が困難になる

北朝では院政が続けられましたが、後小松上皇が崩御したことで院政は事実上途絶えてしまいました。院政が途絶えた原因は財政難によるものです。

当時院が所有していた荘園は武家によって横領されてしまい、財源が枯渇してしまいました。また、後小松上皇の死後応仁の乱が発生し全国的に戦乱が発生。所領は完全になくなってしまったのです。

江戸時代「光格上皇」の院政が最後

江戸時代にも院政は行われていましたが、その内容は従来の院政とは異なっていました。

江戸幕府は朝廷への介入が激しく、鎌倉幕府以上の統制が敷かれていたと考えられています。上皇の所領は幕府から与えられており、管理も幕府によって行われていました。
院政による支配が及ぶのは公家のみという制限もあり、形式だけの院政だったといえます。

細々と続けられていた院政でしたが、光格上皇の崩御により、院政は完全に打ち切られました。

現代での院政

明治時代以降「譲位」は禁止される

1899年、皇室典範が制定されたことで天皇は終身制であると定められ、「譲位」が禁止されるようになります。
江戸時代までは天皇の継承に関する決まりは設けられておらず、天皇の権威は退位しても衰えることはありませんでした。

しかし厳密に規定ができたことにより、天皇の権威は皇位に就いている間のみという現代と近い価値観が国民に形成されます

その後1947年、戦後に制定された皇室典範では次期継承者の指名を天皇が行うことはできなくなりました。

2019年に202年ぶりの「上皇」誕生

上皇は歴史上の存在、というイメージが強いですが、実は現代にも「上皇」は存在しています平成時代に天皇を務めた明仁天皇です。

明治時代以降「譲位」は禁止され、天皇が代わる際は「崩御」、つまり天皇が亡くなられた場合のみ皇位継承が行われていました。明仁天皇の退位の意向を受けた内閣は2017年に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」を制定し、この典範に則り譲位が進められました。

もちろん上皇も天皇と同じく「象徴の存在」であるため、政治的実権はありません。