班田収授法は、645年の大化の改新以降に成立した土地改革制度です。

この制度は飛鳥時代の645年に、中大兄皇子を中心に行われた大規模な政治改革のひとつとして取り入れられました。

それまで、天皇や豪族たちが土地と人民の支配や所有を私的に行っていた私地私民制度から、すべての土地と人民は天皇が所有し支配する公地公民制度へと政治体制が変わったのです。

なお「班田収授法」の読み方は「はんでんしゅうじゅのほう」や「はんでんしゅうじゅほう」のどちらも使用されますが、文部科学省が発行する中学生の教材には「はんでんしゅうじゅのほう」とふりがながされています。

この記事では、班田収授法がいつの時期に成立したのかやその制度、目的についてわかりやすく解説します。

班田収授法はいつ成立した?

班田収授法が成立した時期については諸説ありますが、本格的な成立は701年に制定された大宝律令のときと言われています。

大宝律令とは、日本の状況に合った法律と政治の仕組みを作るために、唐(中国)の方式を基準にまとめられたもので、中央集権国家の確立を目指して制定された法令です。

班田収授法が初めて発足したのは、646年の正月に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)でした

この詔は、645年に始まった大化の改新の一環として、新しい施政方針を示すために天皇が発布したものです。

日本書紀には「戸籍・計帳(納税のために作成された帳簿)・班田収授法を制定すること」という実施内容が記されています。

一方で、班田収授法は飛鳥時代後期の689年に、日本で初めて体系的に制定された浄御原令(きよみはらりょう)の施行に伴って発足されたという説も有力です。

その理由として、班田収授法が実施される前は、公地公民制度が長期間続いていたことが考えられています。

班田収授法とはどんな制度?

班田収授法は、中国の均田制をもとにした土地制度です。

国の人民と土地は、すべて天皇が支配する公地公民制度を原則にし、6年に一度の戸籍作成と国民に土地を与え、税金を納付させました。

以下では、制度の詳細について解説します。

戸籍と計帳の作成

班田収授法では、6年ごとに戸籍を作成することが定められていました

しかし、日本で初めて全国的な戸籍が作成されたのは670年の庚午年籍(こうごのねんじゃく)で、690年には庚寅年籍(こういんのねんじゃく)が作成されました。

そのため、大化の改新当時には戸籍作成は行われておらず、何らかの戸口調査が行われたと考えられています。

このことから「班田収授法の本格的な成立は大宝律令のとき」に結びつくことになるのです。

計帳は納税のために毎年作成された帳簿で、人口や性別、年齢、さらには個々の身体的特徴まで記載されていたと言われています。

口分田の班給

国は国民に、戸籍に基づいて6歳以上の男女に「口分田(くぶんでん)」を班給(分け与える)します。土地を与えられるのは一代限りで、本人が死亡した場合は国に返すことが定められました。

与えられる面積は、男性が2段(約2,400平方メートル)、女性はその3分の2(約1,600平方メートル)です。

ただし、政府所有の奴隷は一般人と同じ広さの口分田を班給され、私有奴隷は地域の広さに応じて、一般人の3分の1(約800平方メートル)の口分田が班給されました。

納税の義務

班給を受けた者は、収穫物の中から「田租(たそ)」と呼ばれる納税の義務がありました。面積に基づいて収穫物の3%を税として納付し、残りは自分の食料とすることができたのです。

その後、大宝律令の施行に伴い、国民に納税以外の労役を負担させる「租庸調(そようちょう)」という税制度が取り入れられました。この律令制において、田租は租庸調の中で租になります。

庸は本来、21歳以上の男性が上京し、労役を課せられることになっていましたが、以下の2つを選択できました。

  • 21歳から60歳までの男性は1年間に10日間、61歳以上の男性はその半分の5日間働くこと
  • 上京生活を支えるために米や布で税を納めること

 

調は17歳以上の男性に課せられた納税です。基本的には繊維製品を納める決まりでしたが、その代わりに地方の特産品や貨幣で納めることも認められていました。

班田収授法の目的

班田収授法は、律令国家の確立を目指した制度の一つで、天皇による全国の土地と人民の支配、そして中央集権的な国づくりを目的としていました。

その始まりが、中国の唐を手本にした、律令に基づく政治体制構築のための大化の改新です。

その一環として発布された改新の詔により発足した当時の班田収授法は、国民に公平に土地を与え、税の徴収を安定させることを目的としていました

これにより、国民の最低限の生活を保証し、生産力を維持しながら国の財政基盤を強化することが可能になったのです。

701年の大宝律令が制定されると、班田収授法が本格的に成立し、日本最初の戸籍が作成されます。そして、口分田の班給と租庸調の税制度による地方行政組織を特徴とした、律令国家が確立されました。

班田収授法の終わり

日本では大宝律令の制定とともに、本格的な戸籍制度が導入されます。

国民は本貫地(ほんがんち:戸籍と計帳に記載された自分の土地)に拘束され、庸や調などの仕事を課され、勝手に本貫地から離れることは禁止されていました。

そこでの労働は、度重なる天皇のための住まいである宮都の建設など、大工事に多くの人手が必要とされました。また、口分田にする田地の不足も起こります。

さらに、国民に稲や財物を貸しつけて利息を取る出挙(すいこ)も行われ、貧窮した人々の中には戸籍を偽る者も増加しました。

その結果、奈良時代の末期には、禁止されていた本貫地から離れて逃亡する人が増加し、土地は荒れて税収が不安定になります

最終的に、平安時代初期には班田収授法が行われなくなり、この制度は終わりを迎えました

班田収授法から墾田永年私財法へ

班田収授法から墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)へ移行する間に、三世一身法(さんぜいっしんのほう)という制度が導入されました。

班田収授法では、土地の所有は本人一代のみでしたが、三世一身法では溝や池などの水利施設を作って新規開墾した場合、三世代(本人、子、孫)まで土地の所有が認められたのです。

しかし、土地の返還を遅らせるだけで、完全に自分の所有にならなかったため、開墾の促進効果は限られていました。そこで、国は状況を改善するために墾田永年私財法を制定したのです。

以下で、この制度の詳細をご紹介します。

墾田永年私財法制定の背景

班田収授法が行われなくなる少し前、国は墾田永年私財法を制定しました。

この制度では、開墾した土地を永久に私有財産とすることが可能になりました。国は、墾田永年私財法によって税制を立て直し、社会の復興を目指したのです。

制定された背景には、律令制と班田収授法の開始後、人口増加により班給できる口分田が不足し始めたことや、人々の逃亡が相次いだことがありました。

そのため、土地の新規開墾を促進するための政策を始めたのが、墾田永年私財法だったのです。

班田収授法と墾田永年私財法の違い

班田収授法と墾田永年私財法の違いは、以下のような制限が設けられたことです。

  • 新規開墾地に適用され、既存の開墾地は引き続き班田収授法に従うこと。
  • 私有できる面積は、地位に応じて10から500町(10町:約99,170平方メートル)までとし、国司の許可を得ること。
  • 国司の許可を得たあとは、3年以内に開墾を完了させること(または3年以内に着手すべきとする説もあり)。
  • 百姓の生活を妨げないこと。

 

納税に関しては、収穫物から納めることに変更はありませんでした。

私有財産の土地となったことで、班田収授法の後期に本貫地から離れて逃亡した人々を豪族や寺社が雇い、開墾を進めます。

その結果、荘園領主がうまれ、荘園制度が成立し、班田収授法の崩壊を招いたのです。

こうして、約200年続いた班田収授法から墾田永年私財法へと移行し、土地制度に大きな変革がもたらされました