長い歴史の中で、土地制度は大きく変化しています。
現代では空いている土地があったからという理由で無断で所有することはもちろん違反です。しかし、奈良時代は土地も法も整備されておらず、かなりルーズな管理体制でした。
さまざまな土地政策を行う中で生まれたのが墾田永年私財法です。墾田永年私財法は、従来の三世一身法とは異なり、自分の土地を永久に所有しても良いという法です。墾田永年私財法の誕生はその後の日本の歴史に大きな影響を与えました。
この記事では、墾田永年私財法とはどんな法令なのか解説します。出された理由やその後の歴史にどのような影響を与えたのかまでわかりやすくまとめているので、ぜひ最後まで見てみてください。
墾田永年私財法とは
墾田永年私財法とは、自ら開拓した土地の所有を永久的に認めた法律です。この法律ができたことで農民の所有する土地は実質的に増加し、収入源であった農作物が多く取れるようになりました。
墾田永年私財法は新たに開墾された土地にのみ適用され、すでに国によって管理されていた土地は対象外でした。また、所有できる土地面積は位階によって決められています。
農民が開墾したい土地がある際は、国に申請を行い許可を得る必要があります。許可が出れば3年以内に開墾をせねばならず、3年以上開墾されなかった土地はほかの人から申請があった場合譲らなければなりませんでした。
これらの条件が定められていたのは、国が開墾地を把握し、正しく税を徴収するためです。従来は国が拓いた土地を農民たちに与え徴税を行っていました。また、開墾地は最終的に国の所有地となるため、開墾された土地を把握する必要性があったのです。
墾田永年私財法が出された理由
墾田永年私財法が出された理由は主に2つあります。
①農民の士気を上げるため
墾田永年私財法が出るまで、自ら開墾した土地であっても期限が来ると国に返却しないといけないというルールがありました。土地の所有期限が決まっているため農民の士気は上がらず、返却が近づくと農民が逃げ出してしまい土地が荒廃してしまう事例が増えてしまいます。このままだと税収も少なくなってしまうため、永年所有を認めることで農民のモチベ―ションを上げようとしました。
②税収確保のため
当時の税とは現代とは違い、米や農作物といった現物を収めていました。そのため、上記で挙げたように農民が逃げて土地が廃れてしまうと納税が滞ってしまいます。農民の士気を高めて税収を確実にすることはもちろん、農民たち自らに開墾させ土地を広げることで、徴税する量も増やそうと画策しました。
「墾田」とは
そもそも墾田永年私財法の「墾田」とは何でしょうか。
「墾田」とは、新たに開墾された土地を指しています。朝廷が公民に命じて新たに開墾させた「公墾田」と、有力豪族や貴族、寺社が自ら開墾した「私墾田」の2種類があります。
墾田永年私財法で該当しているのは、ほとんどが「私墾田」です。墾田永年私財法の元、私墾田は大きく発展し、のちに「荘園」と呼ばれる私領へと変化していきます。
三世一身法との違い
三世一身法との大きな違いは、土地の所有期間です。墾田永年私財法では名前の通り「永年」の所有が認められていますが、三世一身法では土地の開墾者から三世代(本人、開墾者の子、孫)まで土地の所有が認められていました。
また、三世一身法では所有できる開墾地の面積に制限はありません。墾田永年私財法では位階によって所有できる面積に制限があります。
奈良時代の土地制度とは
701年に大宝律令が制定され、日本の法令の基本が定められました。土地については「すべての土地は国の所有である」(=公地公民)と決められており、土地は国から農民に与えられるものという認識でした。
大宝律令とともに制定されたのが班田収授法。奈良時代の土地制度の基礎となる法令です。班田収授では6年に1度土地を受給する資格のある人や死亡者の土地の回収などを行いました。
しかし、時代を経る中で一時大幅な人口増が起こり、受給する土地が足りなくなってしまいます。また、6年で土地を回収されてしまうことから農民の意欲は高まらず、農地の荒廃が起こりました。
さらに、当時の納税の負担の大きさも農民の意欲を奪っていました。当時の税は米や農作物といった現物を、与えられた土地に応じ都に収めなければいけませんでした。
現代のような輸送手段はないため、農民は農作物を背負いわざわざ都まで出向かなくてはならなかったのです。これだけでいかに納税が大変だったか分かります。
ここで生まれたのが新たに土地を開墾し所有する「墾田」です。国では開墾が追い付かないので、農民に任せてしまおうと考えました。
開墾地であろうと土地に対する根本の認識は「すべての土地は国の所有」です。当然永久に保有させることは考えず、期限を設けて国が墾田も回収していました。
墾田永年私財法を出した聖武天皇とは
墾田永年私財法は743年頃、日本の第45代天皇である聖武天皇によって発布されました。
聖武天皇は墾田永年私財法の発布を行ったほか、熱心な仏教政策を行ったことでも知られています。
741年の国分寺建立の詔、743年の東大寺盧舎那仏像造立の詔などが有名です。
また、聖武天皇は幾度と京を移す遷都を繰り返しました。恭仁京(くにきょう)、難波京(なにわきょう)、紫香楽京(しがらきのみや)と転々としますが国内の混乱は治まることはなく、臣下からの反発も大きかったため最終的に平城京に戻っています。
一説によれば、聖武天皇が遷都を繰り返していたのは重臣であった長屋王の「呪い」を恐れていたためだとされています。
長屋王は聖武天皇が就任した初期に政権を担当していましたが、藤原四兄弟との政権争いに敗れ自死に追い込まれました。
しかし長屋王の死後、わずか数か月で藤原四兄弟は天然痘によって亡くなってしまいます。その後も流行病に加え地震や火災といった災害が頻発し、聖武天皇の不安を煽りました。長屋王の祟りを恐れた聖武天皇は仏教への帰依を強めたのです。
その結果今も日本を代表する歴史物「奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)」や、多くの寺が全国に造られました。もし聖武天皇が仏教を強く推し進めていなければ、奈良の大仏は存在していなかったかもしれません。
墾田永年私財法発布後の影響
「荘園」が生まれる
墾田永年私財法が発布され、朝廷の目論見通り積極的な開墾が進められるようになりました。特に地方の豪族や寺社は積極的に開墾を進め、所有地を増やしていきます。その結果朝廷の税収は増えました。短期的に見ればこの政策は成功だったと言えます。
しかし、開墾を進め所有地を増やせたのは当時権力を持っていた人たちのみで、農民の暮らしは変わりませんでした。権力者は土地をどんどん囲い込んだため、貧富の格差は激しくなっていきます。
地方豪族、寺社などが所有した私領には事務所が置かれ、「荘」と呼ばれました。耕す農地を「園」と名付けられています。これが後の「荘園」の語源になりました。
これらの私領を耕し、作物を作ったのは、かつて国から与えられた農地から逃げた農民たちでした。
公地公民制の崩壊
開墾地を永久に私有できるようになったことで、大宝律令ができた際に打ち出された「すべての土地は国の所有である」という公地公民制は形骸化してしまいました。
公地公民制が崩壊したことで、政治におけるパワーバランスも崩れていきました。地方の豪族をはじめ、私領を増やした権力者たちは力をつけていきます。平安時代に入ると政治は貴族によって行われるようになり、貴族たちは自身の所有する荘園に税がかからないよう新たな法律を立てました。
称徳天皇の時代に一時的に廃止
墾田永年私財法の発布後、開墾地の永年所有を行おうと豪族や寺社による開墾が一気に増えました。
称徳天皇の後見人であった道鏡は、百姓への影響なども考慮し、農民や寺社の小規模な開墾以外は禁止する旨を発布しています。