防人は古代の律令体制で、大陸から攻めてくるかもしれない国々に備えるための制度でした。主に東国や九州から徴用された人々は、無給で納税義務が続いていた中、国防に従事しています。しかも帰途に亡くなるケースも少なくありませんでした。

防人の事情について知ると、古代に国防に従事していた人々やその家族がどのような思いで過ごしていたのかにも触れられます。防人について彼らの過酷な状況や、つらい思いの込められた防人の歌とともに見ていきましょう。

防人とは?簡単にわかりやすく解説


古代の日本には「防人(さきもり)」と呼ばれる制度がありました。現在でもよく国防関係で耳にする「防人」は、本来どのような制度だったのでしょうか。

実は防人の歴史は意外と長く、飛鳥時代から平安時代まで数百年にわたって続いていました。防人について理解すれば、現在も言葉として使われるこの用語に親しみを持てます。まずは防人の制度の内容を、歴史的な流れとともに見ていきましょう。

古代に外国から日本を守るために始まった制度

まず防人とは、古代に外国から日本の国土を守るために導入された制度です。具体的には人々を徴用して、唐や新羅(しらぎ)など大陸各国に近い九州北部や対馬・壱岐(いき)に防衛のために配置していました。

防人はもともと中国で考案された軍事制度です。日本の場合は、667年に朝鮮半島の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れたのを機に、彼らの侵攻に備えるために防人が導入されています。

なお防人は一般の農民から徴用されていました。基本的な任期が3年とされているため、主要な働き手を取られる家族にも大きな影響が出ます。

時代に応じて東国や九州から徴集

防人は時代によって徴集された地域も異なっていました。制度が導入された飛鳥時代後期から奈良時代中期にかけては、主に遠江より東の国々の農民を徴用。東国の人々は屈強であるため、九州北部での防人の任に耐えられると朝廷が判断したとされ、徴集された防人は2,000人の規模にのぼりました。

ただし奈良時代中期の757年を過ぎると、東国ではなく九州の農民が防人として徴用されるようになります。8世紀末から平安時代に突入しても防人の制度は存続し、新羅出身の海賊に対処しました。

武士の台頭で消滅

平安時代も後半に入ると、全国各地で武士が台頭します。特に親政に熱心だった天皇や上皇は軍制改革の一環で北面の武士や追捕(ついぶ)使を採用する一方、武士たちに比べて質の面で劣る防人は縮小する方針を掲げました。かつては2,000人もいた防人も時代を追うごとに少しずつ減らされていきます。

自ら弓や馬の訓練を行っていたこともあって質に優れた武士団が台頭する中で、防人の活躍の舞台は次第に失われていきました。1000年代を迎える頃には防人は消滅した上に、1019年に朝鮮半島から刀伊が侵攻してきた際も藤原隆家が地元の武士を率いて撃退したほどです。

現在では自衛官や警察官などを指す意味も

武士の台頭とともに防人は消滅し、「防人」の用語もその後は長く使われませんでした。しかし現代の日本では警察や消防、自衛隊など治安や国防を担う公的組織が整ってきていることから、「現代の防人」と呼ばれています。

特に自衛隊については、近年中国などによる軍事的な脅威が増す中、九州や南西諸島で有事に備えることが求められている状況です。その様子がかつて九州北部で防備に当たっていた防人をほうふつとさせるため、「現代の防人」は自衛隊を指して使われることがよくあります。

「防人」という言葉は生まれた時代は古いものの、現代でも自衛隊などを表すものとして使われている意味では、決して古い言葉ではありません。

防人の実態はつらい?生存率も低かった!


「防人」という言葉は歴史の教科書などでよく耳にするものの、彼らの実態がどのようなものだったのかはよくわからないかと思います。実は防人の実態は、現代のブラック企業を超えるほど過酷なものでした。

防人の置かれていた状況を知ると、より防人について理解する上で役に立ちます。知られざる防人の過酷な実態について解説していきましょう。

3年任期だが延長される場合もあり

まず防人の任期は基本的に3年とされていました。3年という任期は、当時先に導入されていた中国の制度に倣ったものです。

ただし制度上は3年任期とされていても、実際に赴任した後に大宰府(だざいふ)など上の意向によって延期されることも少なくありませんでした。徴集された農民の側も3年で帰れることへの期待を裏切られる上、故郷に残された家族も予定通りに戻ってこないことに絶望させられるような実態だったと言えます。

無給である上に納税義務も続くブラック事情

また防人は待遇の面でも過酷でした。まず国の命令で九州北部に派遣されるものの、報酬は一切発生しないのが実態でした。しかも律令体制下で農民に課せられていた租調庸をはじめとする税金についても、防人の任期中も容赦なく発生しています。

加えて任地に赴く際の移動の経費も国から一切支払われませんでした。おまけに任地で消費する食糧や武器も自分で用意する必要がありました。給料や経費などが全くもらえないのに、国の命令1つで任務に就かなければいけないのが防人の置かれた状況です。

帰途で餓死するケースも多かった

防人に従事した人々は無事に3年以上の任期を終えると、それぞれの故郷に帰ることができました。しかし帰る途中で行き倒れて亡くなる人も少なくありませんでした。

防人自体が無給で従事するものであったため、任務から解放されて帰途に就く際も給金や食糧はもらえません。自力で故郷を目指さなければならなかったため、途中で力尽きてしまうこともよくありました。

実のところ、防人は生存率が低かったと言われるのが、帰途で野垂れ死にする人が多かったことにあります。

防人の残した「防人の歌」とは?

防人に従事した人々やその家族は、自身の思いを和歌に残したことでも有名です。彼らの残した歌は「防人の歌」と呼ばれ、故郷に残してきた家族や恋人への思いや、防人として遠くに行ってしまった愛する人への気持ちが込められています。

防人の歌は、防人やその家族などがどのような思いを抱いて暮らしていたのかを知る上で重要な手掛かりです。

防人や留守に残った家族が残した歌

防人の歌は、防人に従事した人々や彼らの家族が自身の思いを込めた短歌を指します。内容は防人やその家族たちがお互いへの愛や心配する気持ちなどを詠んだもののほか、故郷に帰りたい思いや国への不満を込めたものも少なくありません。

なお防人の歌は奈良時代に詠まれたものが多い分、東国の言葉が多く使われているのも大きな特徴です。当時の東国に住んでいた人々が使っていた言葉や生活を知る上でも重要な資料とされています。

『万葉集』にも100首以上が収められている

防人の歌は、奈良時代に編纂された『万葉集』にも100首以上が収められていることでも有名です。『万葉集』が奈良時代後半に編纂されたことや、収められている和歌が奈良時代前半を含む時代のものであることから、当時の防人の思いに触れる上で重要な存在と言えます。

なお『万葉集』を編纂したとされる大伴家持(おおとものやかもち)は、難波(現在の大阪)にいた頃に防人と交流したことで、防人の歌を集めるようになりました。