服部半蔵については、2代目の服部半蔵正成が最も有名です。彼は徳川家康に仕え、伊賀忍者としてその名を広めました。一般に「服部半蔵」と呼ばれるのは代々の当主が名乗っていたもので、忍者としての活動は初代の保長(正種)に限られています。

この記事では、服部半蔵の死因に焦点を当て、その詳細を解説します。

服部半蔵の死因

服部半蔵正成は1597年、55歳で麹町の自宅で亡くなりました。死因については「病死」と伝わっていますが、どの病気で亡くなったかは詳しく記録されていません。さらに、彼が不慮の事故や殺害などによる横死であったという説もありますが、これも確かな証拠はありません。正成は、麹町清水谷の西念寺に葬られています。。

いずれにしても正成は1597年に亡くなり、江戸麹町清水谷にある西念寺に葬られました。

服部半蔵の最期

服部半蔵の死因は病死と伝えられています。
史料の中に戦死したという記録がなく、当時の書物や文献の記録、また西念寺に墓碑が残るなど、病死でおおむね間違いないようです。
徳川家康の元で活躍したのち、亡くなるまでの間にどのようなことがあったのか調べてみました。

肥前名護屋に出陣したのちに隠居生活を送る

2代目の服部半蔵「正成」は、文禄の役に参加するため、備前名護屋へ鉄砲奉行として出陣します。
文禄の役とは、1592年から1598年にかけて行われた豊臣秀頼による明征服の為の侵略戦争です。
これを最後に、服部半蔵正成は隠居しました。

隠居後は赤阪ご門内に屋敷をもらい静かに暮らしていたようです。

家康から命じられた寺院を建立する前に死去

赤阪ご門内に暮らしていた服部半蔵正成へ、家康は非業の死を遂げた「松平信康」を弔う菩提を建立するよう命じます。
元々「安養院」という庵を、立派な庵に改築するように命じた家康は、半蔵に300両を渡しました。

半蔵は改築に着手しましたが、その建立を見ることなく、1597年の1月2日に亡くなったと伝えられています。
半蔵の死後に完成した庵は「西念寺」とされ、このお寺に半蔵も葬られました。

忍者集団の部下とトラブルを起こして亡くなった説

2代目服部半蔵の「正成」は病気によって亡くなり、亡骸は江戸麹町にある西念寺に葬られたとされています。
しかし病気は何だったのかなどについては明確ではありません。

一説には伊賀忍者の一団を率いていた半蔵に、過去の因縁から部下とのトラブルが起き、そのトラブルによって亡くなったという説もあります。

2代目服部半蔵のほか、別の半蔵らの死因もはっきりしていません。
他の半蔵の話と混ざっている可能性もあります。

服部半蔵の最期につながるエピソード

服部半蔵正成の最後につながるエピソードをいくつか紹介します。
いずれも、戦国の世の中で当主のために命を懸けて働いたエピソードばかりです。
服部半蔵正成が死を迎えるまでに起きた、印象的なエピソードを紹介します。

徳川家康の家臣となり伊賀忍者の頭領に任命される

服部半蔵正成は元々、松平家の譜代家臣であり、徳川家康の馬廻(家康の乗っている馬の世話をする人)に、御先手(先陣・先鋒役)・鉄砲奉行などを務めました。
それから後に家康から「伊賀忍者」の頭領・伊賀同心を命じられています。

足軽として甲冑をつけて戦場に一番乗りし、一番槍として活躍した半蔵は槍の使い手「鬼半蔵」として名をあげました。」
伊賀忍者の頭領でしたがあくまでも徳川家一部門の指揮官であり、伊賀国忍者の頭領ではありません。

敗戦したものの三方ヶ原の戦いでは名槍を与えられる活躍

徳川家康軍として戦った「三方ヶ原の戦い」において半蔵は、「大須賀康高」の部隊の一員として戦いました。
この時も半蔵は一番槍として活躍します。

三方ヶ原の戦いで家康は、本多忠真や田中義綱、成瀬藤高といった家臣を亡くし、家康が関係した戦の中で最大のピンチに陥ったといわれた戦いです。
その激しい戦いの中、一番槍として「名槍」を与えられるほどの活躍でした。

本能寺の変のあと大坂から脱出した伊賀越え

「伊賀越え」とは畿内(天皇が暮らす都の周辺地域)から東国に行く際、伊賀国を経由することです。
伊賀越えをした歴史的な事件といえば、徳川家康の「本能寺の変後の逃亡」でしょう。

1582年に起きた「本能寺の変」では、明智光秀の謀反により織田信長が自刃に追い込まれました。
この時、織田信長と同盟を結んでいた家康は堺に滞在しており、本能寺の変の話を聞いて取り乱します。

家康は明智郡の支配下「京都」に登り、松平家(徳川前の家康の姓)ゆかりの知恩院に駆け込み「追腹」すると主張しました。
これを聞いた本田忠勝らは家康に「生きて岡崎まで買えり光秀を討つのが信長様に対する最大の供養」と必死に説得し、家康の本領であった三河国への帰国を考えたのです。

徳川家康の伊賀越え

  1. 34名というわずかな手勢で河内国を出発
  2. 家康より遅れて出発した穴山信君(あなやまのぶただ)が一揆勢により落命
  3. 1日で近江国甲賀の館に到着(長谷川秀一と旧知の仲)
  4. 翌日6月4日に甲賀の館当主「多羅尾光俊(たらおみつとし)」により「御斎峠(おとぎとうげ)」から伊賀国へ抜ける
  5. 半蔵らの働きにおり地元土豪らが味方に付く
  6. 伊賀国を抜けた「加太峠」で一揆勢の襲撃を受けるが土豪により救われる
    その後も何度か襲われるが武力また金銭を渡し難を逃れる
  7. 伊勢国に到着
  8. 伊勢商人「角屋七郎次郎(かどやしちろうじろう)の協力で伊勢国「七里の渡し」(船)に乗り尾張熱田へ
  9. 陸路で三河国大浜を経由し「岡崎城」へ到着

堺から家康を脱出させるために、半蔵は伊賀・甲賀の土豪と交渉し家康を脱出させました。
伊勢から岡崎まで船で移動した家康は九死に一生を得たのです。

この時の半蔵の功績をたたえ、半蔵は組頭となり、伊賀衆200人が同心として迎え入れられています。

服部半蔵の死後に起こった出来事

息子正就の粗暴行為により服部家は改易

服部半蔵正成は1597年にこの世を去り、服部半蔵の名は正成の嫡男であった「正就(まさなり)」が継ぐことになりました。
服部半蔵正就は正成が保有していた8000石のうち、5000石を継いでいます。

しかし正就は父正成が存命のときから、配下の伊賀同心との折り合いが悪く確執がありました。
後に同心の一部の者たちが正就への不満を募らせ、同心たちの昇格の要望を描いた目安を投じてしまいます。
また正就の粗暴行為にあきれた同心たちはストライキを起こしたのです。

同心たちが昇格の要望を書いた目安を投じた際には目をつぶっていた幕府も、ストライキには黙っていることはできず調査を始め、服部家は「改易」となってしまいます。
※改易・・・身分を平民に落として家禄・屋敷を没収すること。(切腹よりも軽く蟄居よりも重い罰)

これにより服部家は分家を残すのみとなりました。

分家は明治維新まで続いて桑名藩を支える

正就は妻の父親である松平定勝の屋敷で蟄居生活となりましたが、1615年に大坂夏の陣が勃発すると手柄を立てようと松平忠輝軍に入り戦いました。
しかしこの大坂夏の陣で命を落としたといわれています。
(戦いの場から戦死を装い逃げ、農民として暮らし一生を終えたという話もあります)

服部半蔵正就の代で改易となった服部家ですが、分家は明治維新まで続きました
服部家は代々「桑名藩家老」という立場で藩主を支え続け、江戸時代まで服部半蔵を襲名していたといわれています。

服部家当主は代々服部半蔵を名乗っていた

初代服部半蔵から幕末の世を生き抜いた服部半蔵まで、服部家の当主は代々「服部半蔵」を名乗りました。

初代の保長から、服部半蔵という名を知らしめた2代目の正成、徳川家康に使えながらも改易となった3代正就、徳川秀忠に仕えたがこちらも改易となった正重など、服部家の当主全てが代々服部半蔵を名乗っていたのです。

現代のゲームや物語の中では、「忍者・服部半蔵」が有名ですが、実は槍の名手であり、立派な武士でした。
服部半蔵の子孫は現代にもつながっています。