皆さんは荘園公領制をご存じですか?荘園公領制は鎌倉時代を全盛期に、全国各地で見られた土地支配に関する構造を指します。

今回は、荘園公領制を中心に、そもそも荘園や公領とは何かや、荘園公領制ができた背景、その結末などをわかりやすく解説します。

荘園公領制については、学校の授業で触れられる一方、ほとんどの人がどういうものかを説明できないくらい、その構造は複雑と言えるでしょう。

大河ドラマにおいてはおそらく触れられることのない、荘園公領制に関する情報を解説します。

荘園公領制とは

荘園公領制とはどういうものなのかを知る前に、まずは荘園公領それぞれの意味を知る必要があります。

本項目では、荘園と公領、それぞれどういう性質を持つものなのかについてまとめました。

荘園について

荘園は、寺社などが自分たちで開墾して自らの土地とした場所を指します。奈良時代に墾田永年私財法が成立したことで、自分たちで開墾した土地はすべて自分たちのものになりました。

寺社や貴族のように身分が高ければ高いほど多くの土地を持てるようになり、競い合うように開墾が行われるようになります。これが荘園です。

今まで土地は、班田収授法によって口分田と呼ばれる土地を1人1人に支給していましたが、自分のものにはならないため、口分田を放棄する人が多く、問題視されました。

墾田永年私財法は国の税収確保のための法律であり、その影響で登場したのが荘園です。

公領について

わかりやすく公領を説明すると、政府が管理する土地です。地方の政治を任せられた国司がさまざまな理由をつけ、公領として荘園を取り上げようとします。

当然、荘園を開発した領主は反発しますが、元々土地は国家のものであり、自由に自分のものにしてはならないと国司・国衙が脅しをかけたのです。

せっかく自分たちで開発した土地が、「元々国のものだから」と公領として地方の政治家たちに奪われかねないという事情が根底にあったのです。

荘園公領制ができた背景

荘園や公領とはどういうものなのかという基礎知識を踏まえたところで、次にご紹介するのは荘園公領制が誕生した背景についてです。

  • 公領の一部を勝手に貸し出す貴族などが出始めた
  • 有力農民に管理を任せてまとめて税金徴収に動く
  • 寺社に土地を寄進して税を逃れるケースが増えた

本項目では、上記の点について詳しく解説します。

公領の一部を勝手に貸し出す貴族などが出始めた

荘園が出始める少し前には、口分田が放棄され始め、国の税収に影響が出始めていました。そこで口分田の一部を勝手に貸し出す貴族などが出始めたのです。

税収こそある程度増やせた一方で、本来の律令制とはかけ離れたものだったため、勝手に貸し出すことそのものが問題視されるようになります。

そうした動きを受け、延喜の荘園整理令が発布され、貴族が口分田などを勝手に貸し出すやり方を禁じたのです。

ところが、このやり方では結果を出せず、墾田永年私財法などにつながっていきました。

有力農民に管理を任せてまとめて税金徴収に動く

延喜の荘園整理令以降、国司らは田堵と呼ばれる有力農民に口分田を預けて、管理を任せるようにしました。

口分田を「名」と呼ばれるものにまとめて田堵に貸し出し、「名」ごとにまとめて税金を徴収するようになったのです。

有力農民たちは、立場の弱い人たちに現場の仕事をやらせて、収穫されたものや人手などを国司に収めていくようになりました。

こうして国司は税金を得るシステムを確立していき、全国でこのシステムが本格的に導入されていくことになります。

寺社に土地を寄進して税を逃れるケースが増えた

有力農民たちによって土地の私有化が行われていく中で、国司からの厳しい税金の取り立てが行われており、有力農民たちは強い不満を持つようになります。

そこで有力農民たちは、寺院などに与えられた税金が免除される「不輸」・役人たちの立ち入りを認めない「不入」などの権利に着目します。

土地を寺院や貴族に寄進することで、表面的な持ち主として寺院や貴族に出てきてもらい、裏では有力農民が土地を保有するという、「寄進地系荘園」が増え始めました。

寺院や貴族に対して多少の支払いをするものの、国司に支払うものよりかは少なく、結果として各地で寺院や貴族に土地を寄進するケースが続出したのです。

荘園公領制の結末は?

土地は国家のものだった時代から、さまざまな変遷を経て有力農民が多くの土地を手にするようになりました。しかし、荘園公領制はある時を境に終焉を迎えることになったのです。

荘園公領制がどのように終わりを迎えたのか、その結末を解説します。

鎌倉時代から武士が介入し始める

武士の始まりは、元々自分たちの土地が国司などに奪われないように自衛をし始めたことがきっかけとされており、関東を中心に武士団が誕生していきました。

そして、国司として働いていた貴族などが都に帰らず、地方にとどまり、これら武士たちを束ねて次第に勢力を拡大していきます。

こうして武士たちが力をつけ始め、最終的に武士だけの政権が誕生することになります。それが鎌倉幕府です。

一方で、西側では荘園公領制が続いており、鎌倉幕府が介入をし始めても、朝廷は強い抵抗を図ってシステムを守ろうとしました。

ところが、承久の乱によって朝廷が敗れてしまったことで、鎌倉幕府が介入するようになり、荘園の一部が守護・地頭のものになっていったのです。

この時点で荘園制は崩壊し始めたという指摘もあるなど、今までのシステムは次第に形骸化していくことになります。

応仁の乱をきっかけに制度の崩壊が始まる

鎌倉時代から室町時代にかけて、守護の力が強くなり、守護大名を中心として各地の有力農民との連携がとられるようになります。

室町幕府が指示を出すと、守護大名を通じて全国に広まっていくような形が構築されていきましたが、ある出来事をきっかけにそのシステムは崩れていきます。

それが応仁の乱です。応仁の乱の影響で京都において長く争いが起こり続け、守護同士が諍いを起こし、地方においても反乱が起こり始めたのです。

守護は一気に弱体化していったほか、政府の指示も地方には届かなくなっていき、室町幕府は幕府としての体を保てなくなっていきました。

この間、荘園制は幕府などの後ろ盾がなくなったことで、武士たちが力で奪い取っていき、有力農民などはただただ荘園を奪われてしまいます。

こうして荘園公領制は形骸化しますが、それでもなお一部では続いていました。

太閤検地によって荘園公領制は消滅

最終的に荘園公領制が消滅してしまうのは、太閤検地が行われるようになってからです。

太閤検地の目的はすべての土地を時の豊臣政権のものとし、税金をかけていくためであり、そのために各地で測量が行われていきました。

元々土地は国のものでしたが、それでは土地を放棄する人々が出始めるので、さまざまな形で土地の所有を認め、税収の確保につなげてきた背景がありました。

太閤検地は改めて土地を政権のものとし、一地一作人の原則を明確化しました。

これに伴い、守護や寺社など複雑に絡み合った構造が壊され、荘園というシステム自体がなくなってしまったのです。

そして、農民は刀狩りによって武器を奪われたほか、一地一作人の原則によってその土地で年貢米を作り続けることを強いられるなど、律令制の時代のような状況に逆戻りしたと言えます。