豊臣家に忠誠を誓ったヒーローとして現代も人気がある真田幸村(真田信繁)ですが、その生涯はどのようなものだったのでしょうか。

戦国武将ゲームなどでも人気キャラとしてよく使用される真田幸村ですが、忍者集団である真田十勇士を率いて長く豊臣家に忠誠を誓った人物として歴史に名を刻んでいます。

関ヶ原の戦いで豊臣軍が徳川家康に敗北したあとも、最後まで豊臣家に仕えて大坂冬の陣・夏の陣を豊臣軍の中心人物として戦い抜きました。

年表や真田幸村が残した名言などから、その歴史を紐解いていきたいと思います。

年表|真田幸村に関わる出来事

西暦 年齢 出来事
1570年
(元亀元年)
0 真田昌幸の次男として信濃にて誕生
1582年
(天正10年)
13 織田信長に攻められた武田家が滅亡
1583年
(天正11年)
14 徳川家康の命で上田城築城
1585年
(天正13年)
15 上杉家に人質として送られ徳川家と戦う
上杉家を出て豊臣秀吉に仕えるため大坂へ
1590年
(天正18年)
20 小田原征伐にて初陣
1600年
(慶長5年)
30 関ヶ原の戦いで西軍に加勢するも敗戦
1614年
(慶長19年)
44 大坂冬の陣で五人衆に選ばれ軍事会議に参加
真田丸築城
1616年
(慶長21年)
46 大坂夏の陣に挑むも敗戦豊臣家は滅亡し幸村も死去

歴史|真田幸村の生涯

はっきりしない生まれから謎に包まれた前半生

真田幸村は、長野県にて武田家の家臣であった真田昌幸の次男として誕生しました。

父昌幸がなぜ武田家に仕えるようになったのかを始め、真田家の歴史は不確かな部分が多く、幸村の生まれた年も1567年(永禄10年)説と1570年(元亀元年)説があるなど、前半生は謎に包まれている部分がほとんどです。

豊臣秀吉に仕えて戦を繰り返す

織田信長が台頭してきたあと、武田信玄が亡くなってからは上杉家に人質として送られることになった幸村ですが、父が豊臣秀吉に接近して大名として扱われるようになったあとは上杉家を出て大坂に向かい、豊臣秀吉に仕えるようになります。

その後は、軍事や才覚が認められて豊臣軍の中心人物として戦を繰り返します

大坂夏の陣での敗北と真田幸村の最期

大坂冬の陣・夏の陣では、劣勢でありながらも真田丸を築城して、豊臣軍の中心人物として最後まで徳川家と戦いを続けました

幸村の活躍を見た家康から、信濃一国を条件として寝返るように誘われていた幸村ですが、これを拒否して最後まで豊臣家に忠誠を誓い、軍事力は圧倒的な差で負けていたものの反撃を続けます。

幸村を含む真田隊は、家康本陣まで突入して追い詰めましたが最期はその首を取ることができずに徳川軍の前に倒れてしまいました

家系図|真田幸村の一族

相関図|真田幸村と関わりが深い人物

豊臣秀吉

真田幸村と関りが深い人物といえば、やはり一番に名前が上がるのが豊臣秀吉です。

上杉家に人質となったあと豊臣秀吉のもとに仕えることになりますが、幸村の知略の高さは秀吉の目に留まり、軍事会議などにも呼ばれるようになります。

豊臣軍の中心人物として、豊臣秀吉の死後も秀頼に仕えるなど、最後まで豊臣家に忠誠を誓いました。

武田信玄

時期は不明ですが、父昌幸は武田家の家臣として戦いの中心として置かれており、武田信玄やその弟信繁を尊敬していたとされています。

幸村の本名である信繁も、武田信繁から取ったといわれるなど、武田信玄を始め武田家との結びつきは強かったことが分かっています。

真田十勇士

真田十勇士は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍したといわれている武将で、真田幸村に仕えていた10人の家臣から構成されていたとされています。

伝承上の架空人物で、正確な構成は分かっていませんが、10人の忍者集団としていまなお人気があり広く語り継がれています。

合戦|真田幸村にまつわる戦い

西暦 戦い 概要
1590年
(天正18年)
忍城・松井田城攻め 初陣を飾り沼田領が真田家に返還
1600年
(慶長5年)
関ヶ原の戦い 西軍に加勢するも敗北
1614年
(慶長19年)
大坂冬の陣 真田丸を築城し徳川軍を迎え撃つ
1615年
(慶長20年)
大坂夏の陣 本陣まで攻め入るも徳川家康に敗北

家紋|真田家で使用された家紋は3種類

真田家には3種類の家紋が使用されていますが、上記画像左の六文銭紋は一番よく知られている真田家の家紋で、戦国武将が使用していた家紋の中でも広く知られている紋様となります。

この家紋を利用していた理由としては諸説ありますが、六文銭=仏教でいう六道銭で、三途の川の渡し賃であるという意味から、決死の覚悟で戦うという気持ちを込めて家紋にしたという説があります。

六文銭紋がもっともよく知られる真田家の家紋ですが、それ以外にも雁金紋・洲浜紋も使用されていたとされています。

名言|後世に残る真田幸村の言葉

真田幸村が残した名言には、以下のようなものがあります。

  • 人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ勇士の本意なるべし
  • いざとなれば損得を度外視できるその性根、世の中に、それを持つ人間ほど怖い相手はない
  • 恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか
  • 関東勢百万も候へ、男は一人もなく候
  • 部下ほど難しい存在はない
  • 日本の半分をもらっても寝返るつもりはない

彼が残した名言からも、いかに豊臣家に忠誠を誓っていたのかがよくわかる気がします。

性格|真田幸村の人物像が見えるエピソード

人気戦国武将の真田幸村ですが、その性格は気さくで軍事にも長けた優れた人物であったと語り継がれています。

周囲の人物に偉そうにするタイプではなく、幸村の周りではいつも笑い声が絶えなかったと書かれている文献などもあり、その人の良さがうかがえます。

豊臣家に忠誠を誓いヒーローとして今も人気がある

前述した名言からも伝わってくるように、真田幸村は負け戦であっても最後まで豊臣家に忠誠を誓って戦国時代を戦い抜いたヒーローとして人気があります。

豊臣家の人質となってからは、高い知略が評価されて戦いの中心人物として活躍しましたが、関ヶ原の戦いで流刑になったあとも勉学を続け、流刑地を多くの武将が訪れたといいます。

拠点|真田幸村ゆかりの城

最後に、真田幸村にゆかりのある城をご紹介します。甲斐の国を本拠地としていた真田家に生まれた幸村は、どのような城を拠点にしていたのでしょうか。

城名 場所 使用用途
上田城 長野県上田市 父が築城した難攻不落と呼ばれた城
大坂城 大阪府大阪市 大坂の陣の舞台となった城
真田丸 大阪府大阪市 豊臣軍劣勢を覆すために築城した出城