藤原純友の乱は、瀬戸内を舞台に藤原純友が起こした反乱であり、朝廷に衝撃を与えた戦いの1つです。

本記事では、藤原純友の乱を中心に、藤原純友の乱の概要や藤原純友の人物像、藤原純友の乱の詳細や結末について解説します。

藤原純友の乱と時を同じくして平将門の乱が起きましたが、舞台は海の上、海賊を率いていたという点で大きな違いがみられます。

大河ドラマでもあまり多く取り上げられることはない藤原純友の乱について、詳しくまとめました。

藤原純友の乱とは

藤原純友の乱は、939年ごろに瀬戸内海を舞台に起きた反乱です。反乱の首謀者は藤原純友で、元々伊予国、現在の愛媛県で国司を務めていた人物でしたが、ある時を境に京の都には戻らず、海賊を率いて瀬戸内海で活動するようになりました。

藤原純友は瀬戸内の海賊を束ね、各所で暴れて周辺海域を牛耳るようになると、誰も手をつけられないような状況になっていきます。

そして、朝廷に不満を持つ人々を束ね、藤原純友の乱が勃発すると、およそ1年ほど朝廷との戦いが繰り広げられました。一時は朝廷の拠点を奪取するも、すぐに反撃され、最後は船を捨てて逃走し、討ち死にとなります。

藤原純友の乱が始まった経緯

元々藤原純友は瀬戸内海にいた海賊を退治する仕事を担っており、海域の治安に大きな功績を残した人物です。しかし、伊予国から藤原純友が暴れているという報せが京に届きます。

当初朝廷は穏便に済まそうと、藤原純友に大幅に譲歩する動きを見せました。当時平将門の乱が起きており、それどころではなかったからです。

藤原純友も一度は朝廷の譲歩に応じましたが、その間に平将門の乱が終わったことで、状況は一変し、海上での戦いに発展していくのでした。

平将門の乱はわずか2か月で鎮圧されたとされており、仮に鎮圧されるまでの期間が長くなっていれば、結果は大きく変わっていたかもしれません。

藤原純友の人物像

ここからは、藤原純友の人物像について解説します。

  • 瀬戸内の海賊たちと交渉して投降させる
  • 紆余曲折を経て自らも海賊として生き始める

上記の内容について、詳しく解説します。

瀬戸内の海賊たちと交渉して投降させる

藤原純友は元々名門の出身でしたが、父親が早くに亡くなってしまったことで、中央での出世が難しくなり、若いうちは何もせずに過ごす日々を過ごしていました。

藤原純友の父親の従姉弟が伊予守だったため、その関係性もあり、瀬戸内で海賊と対峙する仕事に就きます。地元の有力者に任せて何もせずに任期を務める傾向にあった中、藤原純友は自ら陣頭指揮を執りました。

船の動かし方などイロハから学び、自ら船を動かす中で、瀬戸内が京につながる交通の要衝であることを理解するようになります。

そして、海賊を何度か捕まえる中で自信をつけ、最終的には交渉を重ねて投降させるようになり、朝廷もこの動きを絶賛しました。

紆余曲折を経て自らも海賊として生き始める

海賊を鎮圧する側にいた藤原純友でしたが、海賊の中には中央とのトラブルを抱え、不満を抱く勢力が少なくありませんでした。藤原純友も海賊たちの考えに共鳴する部分があり、次第に海賊討伐ではなく、自らが海賊として生きるようになります。

地元の海賊たちとタッグを組み始めた藤原純友は、次第に勢力を拡大させていき、瀬戸内を中心に暴れ始めました。

藤原純友は現在の宇和島の近くにある「日振島」を拠点にしていたとされ、全ての環境が整っていた日振島から瀬戸内の海へ出動していったとされています。

藤原純友は海賊を鎮圧するポジションを解任され、本来は京に戻らなければならない中で、日振島を中心に海賊としての日々を過ごしていきました。

藤原純友の乱の詳細

藤原純友の乱は、以下のプロセスによって勃発したと言えます。

  • 海賊の棟梁として周辺海域を牛耳る
  • 朝廷は慰留するも藤原純友は拒否して国府を焼き払う
  • 平将門の乱が終わって朝廷の態勢が整い始める

本項目では、上記のプロセスについてまとめました。

海賊の頭領として周辺海域を牛耳る

藤原純友は京から海賊を捕まえる任務を解かれますが、その後は海賊の頭領として周辺海域を牛耳るようになります。

そして、藤原純友は兵力を地道に強化させていき、各地で暴れ、特に玄界灘は藤原純友が支配するような状況となり、京にとっては次第に許容しがたい状況となっていくのです。

そもそも藤原純友が日振島をベースに海賊の頭領となったのは諸説あるとされ、扱いが軽かった、地元に土着した海賊たちへの情など色々な説が出ています。

朝廷は慰留するも藤原純友は拒否して国府を焼き払う

さすがに藤原純友の動きが目に余ると感じた京・朝廷は、紀淑人を派遣して対応にあたりました。当初は武力鎮圧ではなく、恩賞を与えるなどの手に出ました。

藤原純友もこの対応に前向きで、最初は紀淑人の提案に乗り、自ら京に出向いて朝廷の取り調べを受けています。ところが、再び伊予に戻った藤原純友は再度海賊の頭領として暴れ出したのです。

再び藤原純友が悪さを働きだしたと備前の官僚だった藤原子高が告発しようと京に立った時を狙い、藤原子高を襲撃し、藤原子高の妻や子にも危害を加えました

しかし、当時朝廷は平将門の乱で精一杯だったこともあり、冠位を交渉の材料にしようとします。これを藤原純友が拒絶し、複数の国府を焼き払ってしまったのです。

平将門の乱が終わって朝廷の態勢が整い始める

土佐でも大暴れし、海の上では敵なし状態だった藤原純友ですが、このタイミングで平将門の乱が終息し、京が藤原純友の乱への対応に集中できるようになりました。

藤原純友が各地で大暴れをしても、朝廷が動けなかったのは平将門の乱の方が脅威であり、平将門の乱に対応を集中せざるを得なかった背景があります。

そんな平将門の乱はすぐに平定されてしまい、朝廷は藤原純友の乱に集中できるようになったのです。この時、藤原純友にも平将門の乱の平定が伝わり、本拠地の日振島に引き返したという話もあります。

平将門の乱を平定した軍が京に帰ってくると、すぐに藤原純友への追討令が出され、今度は藤原純友を挑発するような動きを見せたのでした。

藤原純友の乱の結末は?

藤原純友の乱はこうして朝廷との全面対決のフェーズに突入していきます。

どのような形で藤原純友の乱が結末を迎えたのかを詳しく解説します。

味方に裏切られ最後は首を落とされる

追討令が出たあとも、藤原純友は自前の軍を束ね、各地を襲撃していきます。大宰府では藤原純友の軍と朝廷軍が対決していますが、敗れてしまいました。

その時点で戦力差が大きく、船団の数はケタ違いで、普通に戦うのは厳しいと言われたほどでした。そんな時、藤原純友にとって大きな誤算が生じます。それが家臣だった藤原恒利の裏切りでした。

藤原恒利は事細かに藤原純友の軍の動きを朝廷軍に伝えており、さすがの藤原純友もこの動きには対応しきれず、惨敗を喫してしまいました。それでも藤原純友は簡単に引き下がらず、大宰府を襲撃して戦果を挙げました。

ただ朝廷軍も最後のチャンスとばかりに戦力を結集させ、海と陸の二方向から攻撃を行い、藤原純友の船をどんどん沈めていきました。藤原純友は小さな舟に乗って日振島に戻ったものの、最後には捕まってしまい、首を落とされてしまったのです。

死後も瀬戸内では藤原純友が英雄に

壮絶な死を遂げた藤原純友ですが、当時から地元の英雄となっていた藤原純友の死を地元の人は誰も信じず、遠くに逃げ延びていると信じられてきました。

中央からやってきた官僚による政治に辟易していた部分もあっただけでなく、藤原純友が最後まで抵抗してみせた姿勢に対し、地元の人々はより藤原純友を英雄として認めていきます。

一方で、大宰府から小さな舟で逃げていった藤原純友の動きは不明瞭な部分が多いとされ、首を落とされたのか、病死だったのか、本当に南方へ消えていったのかは定かではないとされています。

ただ間違いないのは、備前があった岡山、伊予があった愛媛では藤原純友を祀る神社が存在していることです。藤原純友が瀬戸内の英雄として伝説の存在になっていたことを示す場所と言えます。