初の武家政権が誕生した鎌倉時代は「御恩と奉公」という考え方により、武家政権が誕生したと言っても過言ではありません。

本記事では「御恩と奉公」を中心に、御恩・奉公それぞれの意味から、御恩と奉公が誕生した背景や影響について解説します。

御恩と奉公は、鎌倉時代以前にできたものですが、この考え方がベースとなり、今日に至ります。日本の社会にはなくてはならない考え方と言えるでしょう。

御恩と奉公がどのような影響をもたらしたのか、詳しく解説していきます。

御恩と奉公とは

御恩と奉公とはどういうものかを知るには、まず御恩と奉公とは何かをそれぞれ理解するところから始める必要があります。

本項目では、御恩・奉公それぞれの意味合いや性質について解説します。

御恩

御恩は、将軍が家来・御家人に対して与えるものです。御恩で将軍が与えるものは主に2つあります。新恩給与

  • 本領安堵
  • 新恩給与

本領安堵は、御家人が所有している領地について、将軍が保証する状態を指します。鎌倉時代よりも前には未開の土地を御家人が開拓して領地としていました。そのため、代々その領地を子孫が継いできたという経緯があります。

これらの領地の領有権を認めるので、自分たちのために戦ってほしいという思いが込められているのが本領安堵です。

一方、新恩給与将軍が御家人たちに対して新しい領地を与えていく状態を指します。充文(あてぶみ)という文書を出し、特定の領地を与えることを約束していくのが新恩給与です。

この時に領地を与えられた御家人は別の御家人に譲渡するようなことはできなかったものの、子孫に領地を譲ることは可能であり、代々まで領有することが認められています。

奉公

奉公は、御恩を受け取った御家人が将軍に対して行う奉仕です。本領安堵もしくは新恩給与を約束された御家人は将軍のために尽くし、勝利のために邁進するほかありません。

御恩と奉公は現代的に表現すると「ギブアンドテイク」の関係ですが、将軍は土地を与える代わりに、御家人は戦いで忠誠を誓うことで成立しています。

戦いを重ねていく中でさまざまな領地をもらうようになることで、御家人は将軍にさらなる忠誠を誓うようになります。これこそが御恩と奉公のあるべき姿です。

御恩と奉公の関係ができた背景

なぜ御恩と奉公という関係性が生まれたのか、そこには主に3つの背景があります。

  • 関東では争いが常態化
  • 平家を倒すために関東武士を束ねる必要があった
  • 源頼朝に武士を束ねる素養があった

本項目では、3つの背景について解説します。

関東では争いが常態化

平安時代に入ると、公家や寺社が土地を持つ「荘園」が出始め、個人で土地を持つケースが一般的になりました。そのため、いかに土地を守るかが重要視され、それぞれが武装化することで土地を守ってきました。

特に関東では縄張り争いが激化しており、至るところで争いが起きており、領地の奪い合いが常態化していたのです。そして、強そうな武士団に入り、領地を守ってもらおうとする動きになっていきます。

より強いリーダーのところに武士が集まり、自分の土地を守ってもらう、その代わり、リーダーのために必死に戦うという流れが出来上がっていったのです。

平家を倒すために関東武士を束ねる必要があった

平安時代の末期にもなると、武士の存在感が強くなり始め、次第に平氏と源氏の2大勢力が形成されていきます。

中でも平氏は平清盛が大きな力を握っており、国司と呼ばれる役人を全国に配置でき、領地に住む人々から税はおろか、土地まで巻き上げることができたのです。

地方豪族からすると、せっかくの土地を巻き上げられるのはたまったものではありません。一方で、関東では各地に豪族がいたものの、それぞれの豪族が国司などに頭が上がらない状況でした。

そんな時に登場したのが、のちに初の武家政権を樹立する源頼朝だったのです。

源頼朝に武士を束ねる素養があった

源頼朝は平氏打倒のために父親と一緒に決起するも、平治の乱で負けてしまい、父を失って自らも伊豆に流刑となりました。およそ20年ほど伊豆に幽閉されていた中、伊豆の豪族だった北条時政の娘である北条政子と結婚します。

この時から平氏打倒に向けた準備を重ねており、1180年に平氏打倒の詔が出たことをきっかけに、伊豆から挙兵し平氏打倒に打って出ました。

石橋山の戦いでは負けてしまいますが、安房へ逃げた時にその土地の豪族の協力を得ていきます。源頼朝はこの時に本領安堵や新恩給与を約束し、戦ってもらうことを頼んでいき、御恩と奉公の関係性が作られたのです。

平氏打倒に向けて立ち上がったという源頼朝のバックボーンを始め、豪族たちを束ねるだけのリーダーシップが源頼朝にあり、平氏打倒につながったと言えます。

御恩と奉公がもたらした影響

御恩と奉公によって良くも悪くもさまざまな影響がもたらされました。以下が代表的な影響です。

  • 源頼朝は御恩と奉公で政権奪取に成功
  • 元寇をきっかけに御恩と奉公が崩壊
  • 江戸時代では御恩と奉公の関係がより強制的に

本項目では、御恩と奉公の代表的な影響について解説します。

源頼朝は御恩と奉公で政権奪取に成功

石橋山の戦いではわずかな兵で戦いを挑み、あっさりと敗れた源頼朝ですが、安房から段々と味方を増やし、鎌倉に入る頃には数万の兵を率いていたと言われています。

鎌倉に拠点を構えた源頼朝は組織を形成すると、平氏の息がかかった役人たちを捕まえたほか、敵の領地をすべて取り上げ、新恩給与の原資として活用していきました。

早々に御恩を実行したことで、約束は確かなものであることを豪族たちは確信し、源頼朝のために働くことを誓います。平氏は精神的支柱だった平清盛を病気で失ったことで、段々と混乱が見え始めたことも源頼朝には追い風となりました。

そして、西側に勢力を拡大していき、平氏を追い詰めていき、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、政権奪取に成功したのです。

元寇をきっかけに御恩と奉公が崩壊

御恩と奉公によって政権奪取に成功し、源氏から北条氏に主導権が移っても御恩と奉公が鎌倉幕府の維持につながっていました。皮肉なことに鎌倉幕府の崩壊を生んだのも御恩と奉公が要因だったのです。

13世紀、フビライ・ハンは日本と国交を結ぼうとしますが、日本が元からの国書を無視するなど、対応を間違えたことで日本に向けて大量の船と兵を率いて日本に攻めたのです。

その規模や戦い方など元は日本を凌駕していました。例えば、当時の日本の武士は1人ずつ名を名乗って一騎打ちを行うのが一般的な戦い方でしたが、元は容赦なく攻撃し、集団で戦いを仕掛けます。

他にもさまざまな飛び道具を元が持っており、日本は苦戦を余儀なくされます。

日本側にとってラッキーだったのは、絶妙なタイミングで嵐が襲来したことで、元が軍を引き上げていった点です。その結果、日本は元の猛攻を防ぐことに成功します。

しかし、御家人たちは必死に奉公をしたのに、元からほとんど奪えなかったために新たな御恩を与えられないという問題が発生しました。御家人は話が違うと怒り、鎌倉幕府に対する不満が一気に高まったのです。

元寇は2回あり、2回とも奇跡的に日本が勝利しましたが、得たものはほとんどなく、御恩と奉公のシステムに限界が訪れ、鎌倉幕府崩壊のカウントダウンが始まりました。

江戸時代では御恩と奉公の関係がより強制的に

実は当初の御恩と奉公は比較的緩やかで、鎌倉幕府誕生以前は戦いごとに関係を結ぶような状態だったと言われています。

この御恩と奉公を強制的なものにしたのが江戸幕府です。その象徴と言えるのが参勤交代でした。御恩は相変わらず本領安堵ですが、奉公にあたるのが参勤交代です。

鎌倉時代の御恩と奉公は、自分たちの領地を守るために強いリーダーの下につく意味合いが強かったですが、江戸時代の場合は半ば強制的で、拒否すればすぐに領地は取り上げられてしまいます。

鎌倉から江戸にかけて、御恩と奉公の関係性はより強権的なものになったと言えるでしょう。