中国で「隋」が滅び、次に建った「唐」に日本から派遣されたのが「遣唐使」です。遣唐使は日本の公式な使節であり、2から4隻の船に数百という人が乗船し、中国大陸に向かいました。元々推古天皇の時代に、当時の「隋」へ遣隋使を派遣したことが、遣唐使の歴史の始まりです。
630年から始まった遣唐使は、実に200年以上も続き、数十回行われました。907年には「唐」が滅亡し、遣唐使もそのまま消滅となっています。遣唐使が乗る船には政治家や官僚のほか、留学生も同行していました。遣唐使として有名な人物としては、空海・最長、山上憶良、吉備真備などがいます。
今回はそんな遣唐使について、どのような目的を持っていたのか、さらに遣唐使が日本にもたらした成果について紹介します。
遣唐使は「朝廷の使節」
日本から公式な使節として派遣されていたのが「遣唐使」です。「隋」にかわり「唐」が建ったことで、それまで派遣されていた「遣隋使」から「遣唐使」となりました。大国「唐」の進んだ文化や技術を日本に持ち帰るため、また多くのことを学ぶため、遣唐使は非常に大きな役割を持っていたのです。
第33代天皇であった「推古天皇」の時代に隋へ遣隋使として摂政「聖徳太子」が派遣されます。また奈良時代に書かれたとされる歴史書の日本書紀に遣隋使の記載があり、そこには「小野妹子」が大使として派遣されたことが記載されています。
いろいろな説がありますが、それ以降6回くらい、遣隋使が派遣されたようです。その後、隋が滅びると唐が建ち、遣隋使はいったん中断されてしまいます。そして630年になってようやく、唐への使節派遣が始まったのです。このように遣隋使、遣唐使はいずれも国・朝廷の使節として派遣されていました。
遣唐使の目的①【唐建国により唐を知る必要があった】
聖徳太子が遣隋使として派遣されていた頃は、「隋」の文化や政治などを学び、それを日本に持ち帰っていました。しかし618年になると隋が滅亡し、代わりに「唐」が建国されます。それにより、遣隋使から「遣唐使」へ変わったのです。
第1回の遣唐使は630年でした。この時の派遣メンバーは、最後の遣隋使メンバーであり大和朝廷の外交官として活躍していた「犬上御田鋤(いぬかみのみたすき)」です。同行者には小野妹子と共に遣隋使として隋にわたった、医師の「薬師恵日」がおり、医術の習得に貢献しました。
隋から唐に変わったことで、日本は隋とは違う唐の文化や技術、政治、また医術など様々なことを知る必要があったのです。
遣唐使の目的②【学問と貿易のため】
1回の派遣で船に乗り込んだのは400人から500人といわれています。それだけの大人数で遣唐船に乗り現在の中国大陸を目指したのです。唐では人々と交流し、政府との友好な関係を築きました。その中で日本は唐から、政治・法律・芸術・農業・仏教など、様々なことを学んでいます。
遣唐使と共に派遣された人たちが400人・500人と非常に多い数だったのは、当時の「商人」が同行していたためです。また留学生も多数乗船していました。
聖徳太子の時代の隋との貿易は、隋の公邸に貢物をおくり、隋の皇帝から宝物をもらうという「朝貢貿易」が基本でした。遣唐使は唐の皇帝に対し「絹の原料」などを献上し、唐の皇帝から絹織物を賜ることもあり、たくさんの商人が必要だったのです。遣唐使のこうした交流と貿易により、当時の朝廷は莫大な利益を得ていました。
ただし当時は現代のように安全な船ではなく、また航海技術も未熟だったため、非常に大きな危険を背負っていました。遣唐使として派遣された人の中には、航海の途中で遭難することも多かったといわれています。
遣唐使が与えた日本への影響
医療面へもたらした成果
唐に渡った遣唐使たちはたくさんの知識や技術を日本に持ち帰りました。医療面では患者さんやケガをした人たちに対し、どのような治療を行えばいいのかという技術を学び、また薬の知識も持ち帰っています。
当時の日本は医療技術が低く、また衛生面なども今のようにしっかりしていなかったため、伝染病や感染症などに対し脆弱だったのです。天然痘なども流行しており、疫病の拡大を阻止する手段など、医療面での成果は大きかったといわれています。兵士たちのケガにも唐の知識が大いに役立ちました。
仏教面へもたらした成果
遣唐使が唐に渡ったことで、仏教面でも大きな影響を受けています。天平文化では正倉院の宝物として、たくさんの「仏教経典」が残されています。遣唐使たちは唐から多くの仏教経典を持ち帰っていたのです。
当時の仏教は国を豊かにする「科学」としてとらえられており、こうした仏教の知識が遣唐使によって日本に持ち込まれました。この影響を受けたのが聖武天皇です。唐の文化の影響を強く受けていた聖武天皇は、仏教の力で国を保護しようと考えたといわれています。
政治面へもたらした成果
日本は天皇を軸にした「中央集権国家」を作ろうとしていました。そのため、遣唐使として唐へ渡ったたくさんの留学生や僧侶たちは、国家運営のための「法律」「仏教」といった知識を日本に持ち帰っています。
当時の日本は白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で大敗し、また何もかもが日本より進んでいる唐に危機意識を持っていたこともあり、強力な国家体制を作ろうとしていました。そのため唐の政治から学ぶことは非常に多かったのです。唐から持ち帰った知識の中に「律令制度(法律に基づく統治制度)」があり、のちの日本の律令体制の基本となりました。
唐王朝の「科挙」と遣唐使
唐は王朝として長きにわたり繁栄しており、その繁栄期を「盛唐」といいます。唐はその進んだ技術や文化、また保有している財宝などを他国に分け与え、それにより従わせていたのです。こうした外交政策を行うことで、隋の時代で多発していた同国の中の争いが減り、唐が軸となる「東アジア国際情勢」の中で、唐は「秩序」となったのです。
唐にはこうした秩序の中で「官史登用」という仕組みが作られていました。これは強い国を作るためのシステム「科挙」と呼ばれる試験で、家柄・身分など関係なく、能力を持っている人を「役人」として登用するという試験です。しかしこの合格率は非常に低く、たった1%から2%でした。
この狭き門「科挙」に合格した日本人がいます。それが唐で皇帝玄宗に気に入られた「阿倍仲麻呂」です。科挙は唐人以外の外国人にも官僚への道を開いていたため、日本人の阿倍仲麻呂も試験を受けこれに合格しました。しかし仲麻呂はあまりにも有能すぎて玄宗皇帝にいたく気に入られ、日本に帰国することができませんでした。
遣唐使の廃止
遣唐使はなぜ廃止されたのか
日本の発展に大きく貢献した遣唐使ですが、20回目の遣唐使派遣が計画されていた894年に廃止となりました。20回目の遣唐使には「菅原道真」が指名されていましたが、道真本人が危険すぎる遣唐使の派遣廃止を求めたのです。
道真は第59代天皇「宇多天皇(うだてんのう)」に目をかけられており、天皇の側近「蔵人所(くろうどどころ)」の長官でした。また律令制度の中で令に規定されていない「令外官(りょうげのかん)」でもあり、道真は朝廷から重用されていたのです。
道真は廃止提言の理由を以下のように述べています。
- 圧倒的な成功率の低さ
630年から894年の間「12回」の内「7回」遭難(所説あり) - 道真の時代は唐から日本に使節がきており日本から危険を押していく必要はない
また道真の時代の唐は内乱が続き弱体化していました。そこに遭難の危険をおかしてまで行く必要はないと考えたのです。この時は一時的な廃止とされていましたが、結局907年に唐が滅亡し、中国政権も大混乱となったため、その後、遣唐使が派遣されることはありませんでした。
遣唐使の廃止と節刀の取りやめ
遣唐使が廃止された際、同時に「節刀(せっとう)」も廃止されました。節刀は出征する将軍や遣唐使に天皇より下賜された「太刀」のことです。天皇の権力の一端を委託するという証でもあった太刀は、賜ったものからすればとても重要なものでした。
太刀は「標の太刀」や「標剣」と呼ばれ、これを持つものは「時節大使」と呼ばれており、遣唐使もその使節大使です。遣唐使の使節が決まると、天皇の「大内裏」の「朝堂院(大切な政務・儀式を行う場所)」において出発の儀式が行われました。儀式の後、重要な人物だけが正殿「紫宸殿(ししんでん)」で太刀を授与されます。
こうした儀式も太刀の下賜も、遣唐使の廃止と共になくなりました。ただ遣唐使には節刀の下賜はなくなりましたが、将軍や武将に対しては行われていました。例えば平将門の乱で、将門の討伐を命じられ、それを見事果たした平貞盛は、第61代天皇「朱雀天皇」から「小烏丸」をもらっています。
遣唐使とかかわりが深い人物
最澄と空海
最澄と空海は804年に遣唐使として唐に渡りました。最澄は唐の険しい山の中にある寺院で修行に励んだそうです。帰国後は滋賀県の「比叡山延暦寺」を開山し、密教等の禅の教義の統合を行い「天台宗」を開いています。
空海は唐の長安にて、恵果(えか、けいかともいわれる)へ師事し、厳しい修行を積みました。日本に帰国する際には密教のほか経典を持ち帰り、航海技術なども日本に伝えました。和歌山県に「金剛峯寺」を建立し、真言宗を開いています。
菅原道真
唐で内乱が続き国力が衰えてくると、遣唐使の派遣は少なくなりました。そして遣唐使の派遣を廃止しようと提言したのが菅原道真でした。894年の第20回遣唐使として選ばれていた道真は、国力が衰えた唐に対し「危険を冒して渡航するところではない」とし、これが朝廷に受け入れられ、遣唐使は廃止となったのです。
菅原道真は政治家であり学者としても文人としても名高い人でした。しかし藤原時平に仕組まれ太宰府へ左遷されその地で亡くなっています。死後は怨霊となり日本三大怨霊としても有名です。
鑑真
鑑真(がんじん)は唐の遣唐使の1人で、奈良時代に渡来しています。先に遣唐使として唐に入った日本人僧侶から、正しい仏教を広めるために日本に渡ってほしいといわれ承諾しましたが、唐政府の渡航許可が得られませんでした。しかし鑑真はあきらめず無許可で日本に行こうとします。計画が未然にばれてしまったり、船が遭難したり、挙句の果てには失明してしまいますが、それでも鑑真はあきらめませんでした。
6回目のチャレンジでやっと日本に来ることができ、759年、奈良に「唐招提寺」を建立します。ここで鑑真は僧侶が守らなくてはならない戒律を広め、たくさんの僧侶を育てました。鑑真は故郷である唐に戻らず、自ら建立した唐招提寺で76年の生涯を終えました。