源実朝は鎌倉幕府3代将軍として若くして将軍職に就きました。その生涯とはどのようなものだったのか気になる方も多いのではないでしょうか。
本記事では源実朝を中心に、その生涯や源実朝の年表、合戦、家系図などをわかりやすく解説していきます。
若くして将軍職になった一方、実際は北条家にあやつられ、その状況に嫌気が差していたという一面が見られます。どこか感情移入をしたくなるような部分が垣間見えるのも源実朝の特徴と言えます。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した源実朝の全貌をまとめました。
源実朝の生涯
源実朝は1192年に生まれ、1219年、満26歳で亡くなるなど、若くして征夷大将軍になり、亡くなったのも早かった人物です。以下にまとめたのが、源実朝の生涯に関するトピックです。
- 北条家の全面バックアップで育つ
- 12歳で征夷大将軍に
- 政治に嫌気が差して趣味に逃げる
- 兄の遺児に暗殺される
本項目では、上記のトピックについて解説します。
北条家の全面バックアップで育つ
源頼朝の次男として生まれた源実朝は、母・北条政子、乳母であり政子の妹にあたる阿波局などに育てられてきました。
また祖父の北条時政など、北条家の人々から手厚く育てられており、北条家の全面バックアップの中で育ちます。
しかし、幼い時に父が亡くなり、わずか数年で兄の源頼家が将軍職から追放されると、北条政子は頼家が亡くなったと朝廷にウソをつき、源実朝が家督を受け継ぐ許可を求め、認められました。
当時の源実朝は、野心を抱く間もなくいきなり征夷大将軍となり、戸惑いが隠し切れない状態でした。
12歳で征夷大将軍に
わずか12歳で征夷大将軍となった源実朝ですが、あまりにも若かったため、祖父の北条時政が政務を取り仕切り、将軍を補佐する「執権」として幕府の中枢に入り込みました。
源実朝自身も自ら政治決断をすることもありましたが、その際には母の北条政子に相談するなど、源実朝が独自に政治を取り仕切ることは少なかった状況です。
その後、北条家が鎌倉幕府の中枢にどんどん入り込んでいくと、さまざまな内乱が起こり始めます。
いくつもの事件が起こり、祖父・時政の失脚など源実朝が征夷大将軍だった当時、色々なことが巻き起こりました。
政治に嫌気が差して趣味に逃げる
ドロドロとした政治の争いが目の前で繰り広げられていたこともあり、源実朝は政治に対して嫌気が差すようになり、正室の「坊門信子」が天皇の従姉妹だったこともあり、朝廷の文化に触れていきます。
歌人である藤原定家との交流、和歌集の作成などさまざまなことに取り組むほか、朝廷に頼み込んで官位を高め、少しでも存在感を出そうとします。
それでも政治との距離はますます開いていき、大きな船を作って中国に渡る計画を立てるほどでした。結果的に失敗に終わりますが、将軍が長い間日本を留守にするかもしれない状況になる寸前だったのです。
それほどまでに北条家が自由気ままに政治に介入し、北条家の言われるがままに源実朝は動くしかなかったと言えます。
兄の遺児に暗殺される
1219年、源実朝は鶴岡八幡宮で行われた儀式に参加した際、源頼家の遺児である「公暁」に襲われ、暗殺されました。満26歳と若く、あまりにもあっけない最期でした。
当初は北条義時が太刀持ちを務めていましたが、突如体調不良を訴えて交代してもらうなど、暗殺の関与を疑われました。
公暁がなぜ父の弟である源実朝を暗殺したかは定かではありません。誰に頼まれたかに関しても、さまざまな名前が飛び交っており、最近では黒幕は存在せず、公暁の単独犯行が噂されています。
妻との間に子供がいなかったため、源頼朝ら源氏の血筋はこの瞬間に絶たれてしまいました。
年表|源実朝に関する出来事
西暦 | 年齢 | 内容 |
---|---|---|
1192年 | 数え年1歳 | 源実朝が誕生する |
1199年 | 8歳 | 父・源頼朝が死去する |
1203年 | 12歳 | 兄・源頼家が失脚し征夷大将軍へ。頼家は直後に暗殺。 |
1204年 | 13歳 | 後鳥羽天皇の従姉妹・坊門信子を正室に迎える |
1205年 | 14歳 | 畠山重忠の乱が起きる |
1213年 | 22歳 | 和田合戦が起きる |
1216年 | 25歳 | 宋への渡航計画が浮上 |
1217年 | 26歳 | 渡航に挑むも失敗 |
1219年 | 28歳(満26歳) | 公暁に暗殺される |
合戦|源実朝に関する闘い
源実朝に関する合戦はいくつかあります。主な合戦を以下にまとめました。
- 畠山重忠の乱
- 和田合戦
畠山重忠の乱は、元々源頼朝に仕えていて、平氏との戦いでも活躍していた畠山重忠が謀反の疑いをかけられて討ち死にとなった出来事です。
頼朝が亡くなり、頼家・実朝と将軍が変遷していく中でこれまで頼朝を支えてきた重臣たちによる権力争いが激化します。その中で畠山重忠も謀反を起こすのではないかという噂が立ったことで、北条家は畠山重忠との軍勢と戦い、重忠を自害に追い込みました。
しかし、重忠が謀反を企てていたというのは虚報であり、無実だったという話が浮上します。のちに重忠に謀反の疑いがあると言い出した首謀者たちが殺害されるなど、権力争いがより激化し、源実朝が政治の争いにより辟易するようになるのです。
和田合戦は、鎌倉が火の海になるほど、激しい戦闘が繰り広げられました。元々は北条義時を討とうとする計画が発覚し、その中に重臣だった和田義盛の息子などが含まれていたことがきっかけです。
和田義盛が源実朝に会うと、実朝は義盛の息子たちの罪を許しましたが、甥の胤長に関しては許さず、義時は胤長を縛り上げて義盛たちの前に出しました。
これに怒った義盛が謀反を起こし、和田合戦が始まります。義時は実朝を逃がすと、義盛は御所に火を放つなど、鎌倉の地は混乱状態となりました。
数日後に義盛は討たれて、和田合戦は幕を閉じますが、源実朝にとっては命を落としかねない出来事だったと言えます。
家系図|源実朝の子孫について
源実朝は後鳥羽天皇の従姉妹である坊門信子と結ばれましたが、子供はいませんでした。そのため、源実朝の子孫はおらず、源氏の血筋は絶たれた形です。
一方、実朝を暗殺した公暁も源頼家の息子なので、厳密には実朝暗殺時点で源氏の血筋は絶たれていませんでした。しかし、公暁が北条義時に誅殺されたのは暗殺してさほど時間が経過していない時です。
名言|源実朝が残した格言など
源実朝は和歌を詠む機会が多かったこともあり、名言よりも有名な和歌が多くあります。その1つが、「出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」です。
「出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」の和歌が詠まれたのは、源実朝が暗殺される当日でした。自分が出ていってしまえば主人がいない家になってしまうけれど、軒先にある梅たちは春になれば花を咲かせてほしいという思いが込められています。
もちろん自らが暗殺されることは知る由もなかった実朝ですが、何かしらの予感を感じ、和歌を詠んだのかもしれません。
死因|源実朝が命を落とした原因とは
源実朝が命を落としたのは、兄・源頼家の遺児にあたる「公暁」によって殺害されたためです。冬の鎌倉で数十センチの雪が積もるなか、公暁は源実朝に襲い掛かり、頭を斬りつけました。
公暁は自ら名を名乗り、父の敵を討ち取ったことを高らかに宣言したと言われています。一方で周囲は襲撃すら気づいておらず、そのようなことはなかったという説もあります。
公暁は源実朝を支援者の自宅まで持ち帰ると、食事をしている最中も実朝の首を持ち歩き、自らを大将軍と名乗るなど、かなりの高揚状態にありました。しかし、実朝暗殺の報はすぐに北条義時の耳に届き、すぐに公暁の誅殺に動きます。
そんなことはつゆ知らず、公暁は三浦義村の家へ向かう道中、義時を誅殺するべく送り込まれた長尾定家と遭遇、義村の家の前までたどり着いたものの、塀を乗り越える手前で討ち取られてしまいました。
拠点|源実朝ゆかりの場所
源実朝にはいくつかゆかりの土地があります。
- 鶴岡八幡宮
- 阿弥陀堂
- 由比ヶ浜を一望する公園
鶴岡八幡宮は、源実朝が亡くなった地です。元々は実朝が右大臣になったことを記念する行事が行われており、行事の帰りに悲劇が起こりました。
鶴岡八幡宮には大きな銀杏の木があり、この銀杏の木に公暁は待ち伏せをしていたと言われています。銀杏の木は現存しているものの、2010年に風で倒れ、その面影を少し残すだけの状態です。
阿弥陀堂は、母である北条政子が息子・実朝の暗殺を受け、実朝を弔うために建立されたと言われています。そんな阿弥陀堂も、江戸時代に火災が起きたことで焼失し、その姿は見られません。
しかし、鎌倉幕府が滅亡する直前に北条家一族が拠点としていた東勝寺で再建されており、再建後の阿弥陀堂は今も見れます。
和歌を詠むことが多かった源実朝の歌碑が鎌倉海浜公園にあります。由比ヶ浜が一望できる鎌倉海浜公園ですが、この由比ヶ浜は宋に行くために船を作り、その船を浮かべた場所でもあります。
大きな船だったこともあり、船は浮かぶことなく沈んでしまい、実朝の夢は儚くも散ってしまいました。由比ヶ浜が見える場所に源実朝の歌碑があり、優秀な歌人としての一面を見ることができます。