鎌倉時代中期に起きた弘安の役は、元寇2回目の戦いとして有名です。日本軍が元軍相手に華々しく活躍した話は歴史の教科書にも載っています。

ただ弘安の役が起きたきっかけや、なぜ日本軍が元軍を撤退に追い込んだのかわからない方もいるのではないでしょうか。弘安の役について、わかりやすく解説していきます。

弘安の役とは?いつどこで起きたのかわかりやすく解説


弘安の役は鎌倉時代中期の元寇(蒙古襲来)で2回目のものです。石塁やゲリラ戦法を活用した日本軍の活躍ぶりや、最後に暴風雨で元軍が撤退していった顛末などで知られています。

ただ弘安の役について詳しいところまでよくわからない方もいるのではないでしょうか。最初に弘安の役がどのような戦いだったのかや、7年前に起きた文永の役との違いを解説していきます。

1281年に九州で発生した元寇2回目の戦い

弘安の役は1281年、九州北部で起きた元寇の2回目の戦いです。まず朝鮮半島を出発した東路軍4万が、5月から6月にかけて対馬や壱岐を経由し、博多湾に来襲します。

日本軍は前もって博多湾の海岸沿いに構築した石塁を用いて抗戦し、夜間には敵船を襲いました。東路軍が博多湾に上陸さえできずに攻めあぐねるうち、7月末に中国方面から東シナ海経由でやって来た江南軍10万が合流してきます。

総勢10万以上の大軍に膨れ上がった元軍は、いよいよ本格攻勢に向けて準備を始めました。しかしその矢先、九州北部を暴風雨が襲い、元軍の一部で溺死者も発生します。元軍は日本軍の頑強さに加えて嵐に遭ったことを理由に撤退を決断しました。

1274年の文永の役との違い

弘安の役と同じ元寇の戦いとして、1274年の文永の役も挙げられます。そして弘安の役は、文永の役と異なる点も複数あるため、合わせて見ていきましょう。

両者の違いが、まず元軍の侵攻目的でした。文永の役では元軍が自らの強さを示すことで、日本との国交に持っていくのが狙いだったとされます。一方弘安の役は、文永の役と異なり本格的な侵攻が目的でした。元軍側には農具など日本での定住に備えた準備までされています。

また日本軍の元軍相手の戦いぶりも、文永の役と弘安の役で異なる点です。文永の役の場合、武士たちが元軍の集団戦法など勝手の知らない戦い方に翻弄され、博多をも占領されました。一方弘安の役では、すでに1度手合わせた元軍の戦法の分析が済んでいた上に、石塁を設置するなど十分な対策ができています。

弘安の役の一連の流れ|日本軍はなぜ勝てた?


弘安の役は文永の役と並ぶ、元軍が日本に襲来した事件でした。弘安の役がなぜ起きたのかは、1268年のクビライの国書到着や文永の役からの流れを見ていくと理解できます。

国書到着から順に時系列に沿いながら、弘安の役が起きたきっかけや日本軍が勝てた理由について見ていきましょう。

モンゴルからの国書の到着と文永の役

そもそも2度にわたる元軍侵攻のきっかけになったのが、1268年にモンゴル皇帝クビライの国書が日本に到着したことです。国書の内容も日本との親交を求める友好的かつ対等な目線に立ったものでした。同時にクビライとしては、当時行われていた南宋との戦いに日本の協力を得たかったとされています。

国書が鎌倉に届くと、鎌倉幕府執権の北条時宗は南宋から派遣されていた相談役とも協議し、返答しないことに決めました。南宋がモンゴルの侵攻を受けていたことから、相談役たちがモンゴルの暴虐さを訴えたためです。

以降元王朝を開いたクビライは、日本に何度も使節を送り続けます。しかし使節を送っても返答がなかったため、1274年にクビライの命を受けた元軍が九州を襲いました。

元軍は対馬や壱岐を襲った後、博多湾に迫ります。防備についていた御家人たちは、元軍の集団戦法やてつはうを使った攻撃に動揺し、ついには博多まで奪われました。しかし博多を奪ってまもなく元軍は撤退します。

石塁などで再度の襲来に備える

1274年の元軍襲来である文永の役の後、幕府は元軍が再度攻め来ることを考えて、様々な対策を打ちました。いつ元軍が攻め来ても備えられるように、九州各地の御家人を動員したほか、博多湾沿いに石塁を築きます。石塁は高さ20m・延長20㎞にも及ぶもので、元軍得意の集団戦法や騎馬戦法に対処するためのものでした。

一方クビライは再度の日本侵攻の準備を進めながら、数度にわたって使節を派遣します。しかし日本側は元が送ってきた使節を殺害し、断じて元とは親しくしない意思を示しました。

クビライは1279年には南宋平定を完了します。そして南に大敵がいなくなった今、改めて日本侵攻の準備を本格化させました。

再度襲来した元軍は手も足も出ず

1281年、ついに元軍は朝鮮半島と中国の江南の2方面から日本に向けて大軍を進発させることにします。まず5月に朝鮮半島を出発した東路軍4万は、前回と同じく対馬や壱岐を経て博多湾に襲来しました。

しかし博多湾に築かれた石塁が元軍の進撃を阻みます。石塁のおかげで元軍はうまく攻めることができなかった上に、夜間には逆に日本軍が元軍の軍船に襲い掛かりました。

博多湾への上陸が難しいと判断した東路軍は、湾の入口に浮かぶ志賀島(しかのしま:金印の発見地として有名)を占拠して停泊地とします。しかし志賀島の停泊地も日本軍の襲来を受け、結局東路軍は停泊地を奪われた挙句、壱岐まで撤退しました。しかし壱岐でも軍内に疫病が流行って死者まで出たために、より苦境に追いやられます。

暴風雨で元軍は撤退へ

東路軍が壱岐まで撤退した頃、中国本土の江南地方から江南軍10万も日本に向けて出帆しました。江南軍はもともとより早い時期に出帆する予定でした。直前に急遽総司令官を後退したこともあって遅れて出撃しています。

江南軍が東シナ海を横断している間、苦境に陥っていた東路軍に日本軍が攻撃を仕掛けました。日本軍の攻勢はすさまじく、東路軍は壱岐をも放棄します。この後東路軍は壱岐の南の鷹島沖にて江南軍と合流し、改めて大軍で博多湾や大宰府を襲撃しようとしました。

しかし7月の終わりになり、九州北部を暴風雨が襲います。すでに東路軍が受けた被害や日本軍の頑強さ、今回の暴風雨を受けて元軍は全面撤退を決断しました。ちなみに暴風雨については、日本では後世「神風」と呼ばれます。

弘安の役が残したもの|その後日本はどうなった?


元寇2回目の弘安の役は、日本と元の双方に大きな影響を残しました。特に日本の場合は、その後の政治体制が大きく変わるきっかけにもなっています。

弘安の役が残したものを見ていくと、日本と元のその後との繋がりを理解できて面白いです。弘安の役がその後の歴史に残したものについて、日本と元の双方で見ていきましょう。

恩賞問題から御家人の幕府への不満が増大・倒幕へ

まず日本側は元の大軍相手に華々しい勝利を飾ったものの、その後に待ち受けていたのは様々な難題でした。新しく得た領地がなかった分、幕府は御家人に与える土地がなく、恩賞問題が重くのしかかります。

しかも元への防備体制も維持されたため、御家人たちは度重なる出費を賄うための借金に悩みました。恩賞が与えられない状況は変わらなかった上に、北条一族は嫡流である得宗家を中心に権勢を極めました。不満を抱いた御家人たちの思いは、弘安の役の半世紀後、後醍醐天皇による討幕運動の形で表れます。

元もクビライの死で日本侵攻は完全に中止へ

一方元では、クビライが3度目の日本侵攻を計画しました。しかし元が支配していたベトナムで反乱が起こるなどしたため、再度の日本侵攻どころではなくなります。

反乱を一通り鎮圧した後も、クビライは日本侵攻を諦めませんでした。以前と同じように何度か使節を派遣しながら準備を進めたものの、国内の疲弊ぶりから侵攻はなかなか実現しません。

そして1294年にクビライが病没すると、後を継いだテムルは日本侵攻に消極的な態度を見せます。結局3度目の日本侵攻は実現せずに終わりました。