年表|徳川家康に関わる出来事

徳川家康 年表

西暦 年齢 出来事
1542年
(天文11年)
1 松平広忠の長男として岡崎にて誕生
1548年
(天文17年)
6 織田信秀の人質になる
1549年
(天文18年)
7 父である松平広忠が死去し松平家当主となる
今川義元の人質となり駿府へ(静岡県)
1560年
(永禄3年)
19 桶狭間の戦いに先鋒として出陣
今川義元が織田信長に討たれ今川家から独立
1561年
(永禄4年)
20 織田信長と和睦
1566年
(永禄9年)
25 三河国を統一し徳川家康と名乗るように
1570年
(永禄13年)
29 姉川の戦いに勝利本拠地を遠江国に移動し浜松城築城
1572年
(元亀3年)
31 三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗
1582年
(天正10年)
41 本能寺の変で織田信長が死去し狼狽
本多忠勝に諭されて岡崎城に戻る
1586年
(天正14年)
45 豊臣秀吉に仕えるようになる
1600年
(慶長5年)
59 関ヶ原の戦いで石田三成に勝利
1603年
(慶長8年)
62 征夷大将軍に任命され江戸幕府開幕
1616年
(元和2年)
75 駿府城にてその生涯に幕を閉じる

歴史|徳川家康の生涯

徳川家康 生涯

今川家の人質から織田家の家臣になるまで

徳川家康は、1542年(天文11年)に松平広忠と於大の方の間に誕生しました。

1549年(天文18年)7歳のときに父が死去して松平家の当主となったあと人質として今川義元のいる駿府に移ります。

1560年(永禄3年)19歳のときに桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれたため、今川家から独立しその後は織田信長と同盟を結びます。

1566年(永禄9年)25歳のときには、三河国を統一して徳川家康と名乗るようになりました

織田信長の死後は豊臣秀吉の傘下へ

1582年(天正10年)42歳のときに本能寺の変で織田信長が討たれ、狼狽したのちに自死しようとしますが、本多忠勝に諭されたことで踏みとどまり岡崎城に戻ります

1586年(天正14年)46歳のときに豊臣秀吉に仕えるようになり、その後はいくつもの戦いを経て年を重ねました。

織田信長や豊臣秀吉に仕えていたこの間も、天下を取れるタイミングを虎視眈々と狙っていたといわれています。

征夷大将軍となり江戸幕府を開幕

1600年(慶長5年)59歳のときに関ヶ原の戦いで石田三成に勝利し、事実上の天下統一を成し遂げます。

その後、1603年(慶長8年)62歳のときに征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開幕します。

将軍の席を息子に譲ったあとも政治の主導権は自分が握り、大御所として暮らしながら死去前には豊臣家も滅ぼします。

1616年(元和2年)に駿府城にて死去し、その長い生涯に幕を下ろしました。

家系図|徳川家康の一族

徳川家康 家系図

相関図|徳川家康と関わりが深い人物

徳川家康 関連人物

徳川家康と関わりが深い人物には、以下のような方々がいます。

  • 今川義元
  • 織田信長
  • 武田信玄
  • 豊臣秀吉
  • 石田三成

徳川家康は、幼少期の頃から織田家と今川義元の元で約8年間人質として過ごしています。

桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれたあとは今川家から独立し、長く織田信長に仕えることになり、織田信長が死去した際には自死を考えるほど狼狽していたといいます。

また、徳川家康の最大の負け戦として語られているのが三方ヶ原の戦いで、そのときに敗れた相手が武田信玄です。

織田信長の死去後、 三河国に戻った際に力を持っていた豊臣秀吉の元に仕えることで、徳川家康は天下統一のタイミングを虎視眈々と狙います。

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いにて石田三成を破って征夷大将軍となり天下統一を果たしました

合戦|徳川家康にまつわる戦い

徳川家康 戦い

西暦 戦い 概要
1560年
(永禄3年)
桶狭間の戦い 先鋒で出陣するも今川義元が織田信長に討たれる
1570年
(永禄13年)
姉川の戦い 朝倉・浅井連合軍に勝利
1572年
(元亀3年)
三方ヶ原の戦い 武田信玄に大敗
1575年
(天正3年)
長篠の戦い 織田信長と共闘し武田勝頼に勝利
1584年
(天正12年)
小牧・長久手の戦い 豊臣軍を破る
1600年
(慶長5年)
関ヶ原の戦い 石田三成率いる西軍に勝利

家紋|徳川家康の家紋は三つ葉葵


徳川家康は、家紋に三つ葉葵を使用しています。

三河国の武士は家康同様に三つ葉葵を使用していましたが、家康が征夷大将軍になったあとは三つ葉葵の家紋の使用が制限されたため、他の武士たちは使用できなくなったそうです。

家康の先祖は、父松平広忠の墓にも使用されていることからも分かるように、三つ剣銀杏が使用されていたようです。

名言|後世に残る徳川家康の言葉

徳川家康 名言

徳川家康が残した名言には、以下のようなものがあります。

  • 我もし濱松を去らば、刀を踏み折りて武士を止むべし
  • 我が宝は、我のために命を投げ出す家臣なり
  • 大勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に働く
  • 水よく船を浮かべ、水よく船を覆す。ただこのことを、よく心得られよ
  • 主君への諌言は一番槍より勝る

性格|徳川家康の人物像が見えるエピソード

徳川家康 人物像

徳川家康は、我慢強い・忍耐強い・気が長い性格だとされる説が多いですが、なぜ現代でもそのように語り継がれているのでしょうか。そういわれる所以となったエピソードをご紹介します。

また、家康は我慢強い一面がある一方で戦などに関しては短気な面もあったといわれています。

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス

徳川家康が、織田信長・豊臣秀吉とともに残した狂句に「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」というものがあります。

他の2人はホトトギスを殺してしまったり、鳴かせようとする一方で、家康は鳴くまで待つと詠ったことから、我慢強い性格であるといわれています。

また、幼少期は長く今川家や織田家の人質として過ごし、天下統一を成すまでは織田信長や豊臣秀吉に長い間仕えながらそのタイミングを待ったこともあり、忍耐強いといわれているのではないでしょうか。

拠点|徳川家康ゆかりの城

徳川家康 拠点

最後に、徳川家康にゆかりのある城をご紹介します。岡崎城で生まれた家康は、どのような城を拠点にしていたのでしょうか。

城名 場所 使用用途
浜松城 静岡県浜松市 生まれの岡崎城から移動して築城した城
名古屋城 愛知県名古屋市 九男義直のために築城した城
小牧城 愛知県小牧市 織田信長の死後、豊臣秀吉と戦った城
江戸城 東京都千代田区 江戸幕府の拠点となった城
駿府城 静岡県静岡市 隠居後に過ごし、死去した城