鎌倉幕府は、1185年に源頼朝によって設立されました。その後、1333年まで約150年間続き、日本の歴史に多大な影響を与えています。

この記事では、鎌倉幕府の成立が1192年から1185年の説が有力となった理由や、重要な出来事、変遷を詳しく解説して時系列に沿って年表形式で振り返ります。鎌倉幕府の成立がどのようにして日本の歴史を形作ったのか、その過程と影響を紐解いていきましょう。

鎌倉幕府の成立と年号は1185年と1192年のどっち?

鎌倉幕府の成立と年号は1185年と1192年のどっち?

鎌倉幕府の成立年については諸説あり、1185年と1192年の説が注目されています。一昔前までは教科書にも1192年と記載されており「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせで覚えるのが一般的でした。しかし、現在は1185年が有力とされています。

1192年説:源頼朝が後鳥羽天皇から征夷大将軍に任命された年をもって鎌倉幕府が正式に成立したとする説

1185年説:守護・地頭の設置によって事実上の武家政権が成立したとする説

どちらが正しいということではなく、何をもって鎌倉幕府の成立とするのか、という定義の解釈の違いによって現在では1185年説が有力とされています。どちらの諸説も知られていますが、現在のところ1185年が鎌倉幕府の成立年として教科書などにも記載されています。

鎌倉幕府の年表

年号 開始年 終了年
治承 1180年 1181年
養和 1181年 1182年
寿永 1182年 1184年
元暦 1184年 1185年
文治 1185年 1190年
建久 1190年 1199年
正治 1199年 1201年
建仁 1201年 1204年
元久 1204年 1206年
建永 1206年 1207年
承元 1207年 1211年
建暦 1211年 1213年
建保 1213年 1219年
承久 1219年 1222年
貞応 1222年 1224年
元仁 1224年 1225年
嘉禄 1225年 1227年
安貞 1227年 1229年
寛喜 1229年 1232年
貞永 1232年 1233年
天福 1233年 1234年
文暦 1234年 1235年
嘉禎 1235年 1238年
暦仁 1238年 1239年
延応 1239年 1240年
仁治 1240年 1243年
寛元 1243年 1247年
宝治 1247年 1249年
建長 1249年 1256年
康元 1256年 1257年
正嘉 1257年 1259年
正元 1259年 1260年
文応 1260年 1261年
弘長 1261年 1264年
文永 1264年 1275年
建治 1275年 1278年
弘安 1278年 1288年
正応 1288年 1293年
永仁 1293年 1299年
正安 1299年 1302年
乾元 1302年 1303年
嘉元 1303年 1306年
徳治 1306年 1308年
延慶 1308年 1311年
応長 1311年 1312年
正和 1312年 1317年
文保 1317年 1319年
元応 1319年 1321年
元亨 1321年 1324年
正中 1324年 1326年
嘉暦 1326年 1329年
元徳 1329年 1331年
元弘 1331年 1334年
正慶 1332年 1333年

鎌倉幕府1185年の教科書の記載はいつから?

鎌倉幕府1185年の教科書の記載はいつから?

鎌倉幕府の成立年が1185年であると教科書に記載されるようになったのは、21世紀に入ってからです。それ以前は、多くの教科書で1192年が鎌倉幕府の成立年とされていました。

この変更の背景には、歴史学における研究の進展が影響しています。1185年は、源頼朝が壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、その後、文治の勅許によって全国の守護・地頭の設置権を得た年です。

このことから、源頼朝が実質的に武家政権を確立した年として1185年が採用されるようになりました。一方、1192年は、源頼朝が正式に征夷大将軍に任命された年です。

このため、以前はこの年が鎌倉幕府の成立年とされていましたが、現代の教科書では、実質的な支配が始まった1185年がより適切な成立年とされるようになっています。

鎌倉幕府1185年の覚え方は?年号を覚えるための工夫を紹介

鎌倉幕府の成立年である1185年を覚えるための工夫として、語呂合わせを使う方法があります。「いい箱作ろう、鎌倉幕府」と覚えると、1185年(いいはこ)と鎌倉幕府の成立を結びつけられます。

次に、その年に何があったのかを知ることも大切です。1185年は、源頼朝という武士が壇ノ浦の戦いで平氏を倒し、鎌倉に新しい政府を作りました。この出来事を知ると、1185年が特別な年であることがわかります。

また、絵やイラストを使って覚えるのも効果的で、壇ノ浦の戦いや鎌倉の鶴岡八幡宮の絵をみることで、その時代の様子を思い浮かべやすくなります。視覚的に覚えると記憶に残りやすいので、他の2つと併用すると効果的です。

鎌倉幕府の発展と主要年号とともに解説

鎌倉幕府の発展と主要年号とともに解説

源頼朝によって設立されたこの幕府は、全国の支配体制を確立し、政治・経済・文化の各方面で多大な影響を与えました。ここでは、鎌倉幕府の発展とその主要な年号について詳しくみていきます。

まずは、鎌倉幕府がどのようにして成立し、その後どのように発展していったのかを簡単に振り返っていきましょう。

鎌倉幕府初期の発展

鎌倉幕府は、1185年に源頼朝が平氏を壇ノ浦の戦いで討ち破り、その後に成立しました。この年は、源頼朝が文治の勅許を得て、全国に守護・地頭を設置した年でもあり、源平合戦の勝利により日本初の本格的な武家政権の基盤を築きあげます。

1192年に源頼朝が正式に征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府の成立年として広く知られています。征夷大将軍の称号を得ることで、源頼朝の政権は名実ともに中央政府としての地位を確立し、幕府の支配体制はさらに強化されました。

1203年には、北条時政が政権を掌握し、執権として実質的な幕府の支配者となります。北条氏の権力掌握は、幕府の政治体制を大きく変える出来事であり、その後の鎌倉幕府の発展に重要な影響を与えていきます。

北条時政の執権就任により、北条氏は幕府の実権を握り、鎌倉幕府は安定した政権運営を続けることができました​。これらの重要な年号と出来事を通じて、鎌倉幕府はその基盤を固め、次第に全国的な支配体制を確立していきます。

北条氏の台頭と執権政治

鎌倉幕府の歴史において、北条氏の台頭と執権政治の確立は重要な転換点となりました。1219年に源実朝が暗殺され、源氏の嫡流が断絶したことにより、北条義時が幕府の実権を握り、北条氏の専権体制が始まります。

1221年には、後鳥羽上皇が反乱を起こした承久の乱が勃発しましたが、北条義時を中心とする幕府軍がこれを鎮圧しました。この勝利により、幕府の権威が強化され、全国的な支配体制が確立されます。

1225年に北条泰時が執権となり、執権政治を確立していきます。北条泰時は法治主義を重視し、1232年に御成敗式目(貞永式目)を制定しました。

これは日本初の武家法典であり、武士社会の法と秩序を確立する重要な役割を果たしています。

鎌倉幕府の衰退と終焉

鎌倉幕府の衰退と終焉

鎌倉幕府は、約150年にわたる支配期間の中で、権力闘争や内紛、そして外圧など、さまざまな困難に直面します。これらの試練を乗り越えながらも、徐々にその権威は失墜していき、最終的には滅亡への道を辿ることになりました。

ここでは、鎌倉幕府が衰退し終焉を迎えるまでの主な出来事と、その背景について詳しく解説していきます。

経済的・政治的な困難

鎌倉幕府は、13世紀後半に入ると度重なる戦乱や災害、そして元寇への対応などによる出費の増大によって財政が悪化し、御家人たちは経済的に困窮していきます。土地の分割相続が繰り返される中で、御家人一人当たりの所領は減少し、新たな恩賞としての土地の分配も困難になっていきます。

このような経済的困窮と土地制度の行き詰まりは、御家人たちの不満を募らせ、幕府への反感を高める要因となりました。さらに、幕府内部での権力闘争も激化し、政治的権威は失墜していきます。

このような幕府の支配力の弱体化に乗じて、悪党と呼ばれる武士たちが台頭し、社会秩序を乱す存在として幕府の権威をさらに揺るがしていきました。これらの経済的・政治的な困難が積み重なり、鎌倉幕府は衰退の一途を辿ることになったといいます。

鎌倉幕府の終焉

鎌倉幕府は、14世紀に入ると後醍醐天皇による倒幕運動や、それに呼応した新田義貞、足利尊氏らの反乱によって窮地に立たされました。1333年、後醍醐天皇は隠岐に流されるも脱出し、各地の武士に倒幕を呼びかけていきます。

これに応じた新田義貞は鎌倉を攻撃して幕府軍を破って鎌倉を占領し、北条高時をはじめとする北条一族は自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。鎌倉幕府は1333年に滅亡し、建武の新政が始まる年でもあり、武家政治から天皇親政へと歴史的な転換点となります。

鎌倉幕府滅亡の要因は、「後醍醐天皇の倒幕運動」、「新田義貞の挙兵」、「足利尊氏の裏切り」、「御家人の離反」、そして「経済的・政治的な困難」など、多岐にわたります。これらの要因が複合的に作用し、約150年続いた武家政権は終焉を迎えました。