鎌倉幕府は日本初の武家政権として立ち上がりました。東国の支配中心だった初期から、戦乱や権力争いを経て全国へと支配を広げています。

時代と共に幕府の政治機構も変動しました。最初は朝廷の真似事から出来上がった体制でしたが、徐々に独自性が生まれていきます。紆余曲折を経て出来上がった体制は、その後の室町幕府、江戸幕府にも大きな影響を与えました。

この記事では鎌倉幕府の役職について紹介しています。組織図をはじめ、それぞれの役職が担っていた職務や成立した経緯についてまとめているので、是非最後まで読んでみてください。

鎌倉幕府の組織図


鎌倉幕府の組織図は以下の通りです。

図を見ると細かく分かれているような印象を受けますが、鎌倉幕府成立時は将軍、政所、侍所、問注所、守護・地頭、京都守護のみの非常にシンプルな組織図です。
鎌倉幕府成立時は支配権が全国に及んでいなかったため、東国での政治機構しか整えられていなかったのです。

鎌倉幕府の政治基盤のほとんどは、頼朝が亡くなった後北条氏によって整備されました。一番の特徴はやはり北条氏が担った「執権」と「連署」でしょう。
もともとは執権一人が責任者に据えられていましたが、3代執権・泰時が合議制を導入したことで執権の補佐である「連署」も生まれました。

大きな事件を契機に生まれた新たな役職もあります。
例えば、「六波羅探題」は元々京都守護という名称で、京都の御家人の統率や管理を行う役職でした。しかし、1221年に承久の乱という朝廷の謀反が発生したことで、今後朝廷が謀反を起こさないよう朝廷の監視も担う新たな役職へと変わりました。

鎌倉幕府中央に置かれた役職


この項目ではそれぞれの役職がどのような職務を担当していたのか紹介します。中央に置かれていた役職は、源頼朝の時代から変わっていないものがほとんどです。
中央には行政、裁判、軍事など幕府の根幹に関わる機構が集中しています。

征夷大将軍

源頼朝や源実朝など、「将軍」と呼ばれる人の役職の正式名称が征夷大将軍です。本来は天皇の持つ軍事力を統率する責任者という立場で用いられていましたが、鎌倉時代においては全国の御家人を統率する最高責任者の立場になっています。当時は将軍や幕府のことを「鎌倉殿」と呼んでいました。

しかし、征夷大将軍が力を持っていたのは初代将軍・源頼朝の時代のみです。
頼朝は征夷大将軍となり幕府を成立させましたが、わずか7年でこの世を去ってしまいました。2代将軍・頼家以降は、源頼朝の妻、北条政子をはじめとした北条氏が力を持つようになります。北条氏は「執権」と名乗り幕府を掌握しました。

執権

執権は全ての機構の最高責任者であり、将軍の補佐を行う役職です。しかし実態は将軍よりも権力を持った鎌倉時代の支配者でした。

初代執権の北条時政は幼かった3代将軍・実朝を擁立し、後見人として政務を担当しました。この時に北条氏の地位は確立され、その後執権政治が行われるようになったとされています。
執権は代々北条氏得宗によって受け継がれました。

3代執権・北条泰時によって幕府内の基盤が整えられると、執権の地位は完全に確立されました。将軍は傀儡が立てられ、実質北条氏の専制政治へと移行していきます。

その後、北条氏の身内のみで行われる得宗専制に御家人の不満が集まり、鎌倉幕府は滅亡しました。

連署

連署(れんしょ)とは、執権の補佐役のことを指します。執権に次ぐ権力を持っていました。公的な書類などに執権と連名で署名されていたことから、「連署」と呼ばれるようになりました。

3代執権・泰時の時代に補佐役として時房を任命したことが、連署の始まりだとされています。時房は泰時とほぼ同等の権力を持っていたため、「両執権」とも称されていました。
連署に就任した北条氏はそのまま執権になることも多く、出世ルートとして確立されていたと考えられています。

政所(公文所)

政所(まんどころ)とは、政務、財務を取り扱うほか、公文書の作成・管理を行なった部署です。鎌倉幕府成立時は「公文所(くもんじょ)」という名前でしたが、のちに朝廷と同じ名前の政所に改名しました。

侍所

侍所(さむらいどころ)は軍事を司る機構です。合戦や争乱時に御家人を統率・指揮するほか、罪人の扱いや警備など警察的な役割も担っていました。
初代侍所別当の和田義盛が頼朝に強く頼んだことで侍所が作られたとする説もあります。

問注所

問注所では訴訟や裁判事務を取り扱っていました。鎌倉幕府にとって、御家人たちの訴訟を迅速に解決することは、幕府の権利を確立する上で重要な仕事でした。
訴訟の増加に伴い、1249年に引付衆という新たな役職も設けられました。

評定衆

評定衆は1225年、3代執権・北条泰時によって開かれました。司法・立法・行政を司る幕府の最高政務機関です。評定衆の最高責任者は執権が担っています。
評定衆の設立によって合議制による政治体制が確立されました。

引付衆

引付衆とは、1249年に北条時頼によって設けられた機関です。問注所では処理しきれなくなっていた訴訟を分業するため作られた部署で、引付衆では御家人の所領に関する訴訟を取り扱いました。

鎌倉幕府の地方に置かれた役職


鎌倉幕府成立時は東国中心の支配体制を築いていましたが、1221年に起こった承久の乱をきっかけに全国への支配を強めていきました。
この項目では地方に置かれた役職を紹介します。

六波羅探題

六波羅探題は京都に置かれた機構です。1221年、承久の乱の戦後処理を目的に設立されました。名前の由来は京都の「六波羅」という場所に置かれたことからきています。

鎌倉幕府設立後も「京都守護」という役職が置かれていましたが、当時の京都は朝廷による支配が強く、幕府は西国御家人の統率をうまくできていませんでした。

しかし、承久の乱で幕府が圧勝したことを機に朝廷の力は弱まります。そこで2代執権・北条義時は承久の乱で京都討伐に行っていた北条泰時・時房をそのまま常駐させ、朝廷の監視、西国御家人の統率、朝廷から没収した所領への守護地頭の再配置などを行わせました。これが六波羅探題のはじまりです。

鎮西奉行

鎮西奉行は、九州の御家人の統率を行ないました。1185年に平氏の残党狩りを目的として設立されています。
その後守護・地頭の設置により鎮西奉行は縮小し、鎮西探題が出来ると完全に廃止されました。

鎮西探題

鎮西探題は、元寇の後に設置された役職です。元の再襲撃に備える目的で置かれました。そのほかにも九州の行政、訴訟を司り、九州御家人を統括しました。
六波羅探題と同様に強い権力を持ち、主に得宗から任命されていました。

奥州総奉行

奥州総奉行は、主に奥州の御家人の管理や警備を担当していました。

源義経討伐のため行われた奥州合戦では、源義経を匿った奥州藤原氏を滅亡まで追い込んでいます。奥州で謀反が起きないよう、奥州藤原氏の残党狩りの目的もあり設置されたと考えられています。

守護

守護は国ごとに設置され、地方の御家人の統率や警備など、国の軍事に関する管理を行なった役職です。幕府成立直後は東国中心に置かれていましたが、支配が進むにつれ全国に配置されるようになりました。

守護の職務は3代執権・泰時が定めた「御成敗式目」に残されています。

地頭

地頭は主に荘園、公領ごとに設置された役職です。主に土地の管理や年貢の徴収を担当しました。

守護と地頭の違いは、守護は国ごとに設置されているのに対し地頭は荘園、土地ごとに派遣されていたという点です。また、守護は警察的な役目を担っていましたが、地頭は年貢の徴収などが中心業務でした。