戦国時代には数々の一向一揆がありました。多くは織田信長が対峙した一向一揆ですが、徳川家康も一向一揆を経験しています。それが三河一向一揆(みかわいっこういっき)です。

今回は三河一向一揆の話題を中心に、三河一向一揆の説明やエピソード、三河一向一揆後の展開について解説していきます。

加賀一向一揆のように100年ほど続いたものもある中、三河一向一揆は半年程度しか続きませんでした。しかし、この半年間は徳川家康における三大危機の1つだったのです。なぜ三大危機になったのか、気になる方も多いのではないでしょうか。

本記事では、大河ドラマ「どうなる家康」でも紹介された三河一向一揆について紹介します。

三河一向一揆とは?

歴史が好きな人の中には三河一向一揆をあまりご存じではない方も多いのではないでしょうか。まず最初に、三河一向一揆とはどのような戦いだったのかを解説します。

最初に解説する内容は以下の通りです。

  • 三河一向一揆はいつ行われた?
  • 三河一向一揆が始まった経緯

三河一向一揆が始まった時期や経緯としてどのようなことがあったのかを見ていきましょう。

三河一向一揆はいつ行われた?

三河一向一揆は、三河エリアを中心に一向宗たちが起こした一向一揆であり、1563年9月から1573年3月の、およそ半年ほど続きました。

元々三河周辺では一向宗の寺院が点在しており、三河国では力を持つ寺院が珍しくありませんでした。「寺内町」と呼ばれる集落を自主的に作り上げ、独立した自治を作り上げていきます。

戦国時代に突入し、武将同士が主導権争いを展開する中、一向宗の寺院では元々与えられていた特権を活かしつつ、コミュニティを形成していました。

三河一向一揆は、徳川家康が独立を果たして、これから領土を広げていこうかという時に起きたのです。

三河一向一揆が始まった経緯

三河一向一揆の最大の要因は、徳川家康が一向宗の寺院に与えられていた「守護使不入」という特権をはく奪したことです。

守護使不入は、守護などがどのような理由であっても寺院に立ち入ることができないというルールで、結果として寺院は非課税、犯罪者をかくまってもお咎めがない状態にありました。今で言う外国の大使館のようなルールを持っていたのです。

ところが、徳川家康は三河国の統一を掲げる中で、こうした特権は邪魔になると考え、特権のはく奪を決断し、寺院への立ち入りを行ったとされています。

権利を侵害されたとして怒った一向宗たちは特権を守るために立ち上がりました。これが三河一向一揆の発端です。

三河一向一揆の詳細

三河一向一揆にはいくつかの特徴がみられます。以下が三河一向一揆の特徴です。

  • 三河一向一揆で家臣が大量造反
  • 徳川家康が2発の銃弾を受ける

本項目では、それぞれの特徴について詳しく解説します。

三河一向一揆で家臣が大量造反

三河一向一揆の大きな特徴は、徳川家康の家臣たちが大量に造反し、今まで切磋琢磨してきた仲間と戦うことになった点です。

のちに江戸幕府の老中まで務めることになる本多正信もその1人で、三河一向一揆の段階では徳川家康と敵対しました。徳川十六神将として家康の立派な家臣の中に名を連ねた渡辺守綱も、実は三河一向一揆において徳川家康を裏切っています。

離反のきっかけは、一向宗の信徒だった家臣が多かったことです。代々一向宗とのつながりがあった石川康正も一向一揆側につきましたが、嫡男の石川数正は改宗してまで家康側につくなど、家族間でも対応が異なる事態を生んでいます。

三河一向一揆は、国を二分するような戦いとなり、結果として「徳川家康三大危機」の1つとなっていったのです。

徳川家康が2発の銃弾を受ける

大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康自ら戦に出るなど、三河一向一揆がしっかりと描かれています。その中で、徳川家康が2発の銃弾を受けていた描写がありました。

1564年1月にあった「上和田の合戦」において、敵から銃撃を受けたのです。本来なら撃ち抜かれていたところ、危険を察知した家臣が身代わりとなり、命を捨ててまで家康を守りました。

命からがら城に戻り、武具を外していく中で弾丸が転がり落ちてきたというエピソードがあります。

上和田の合戦からまもなく、家康側が馬頭原合戦で勝利したことで情勢が有利なものとなり、一揆側との和睦に持ち込めたのです。もしも、あの時銃撃を受けて亡くなっていたら、数多くの歴史がガラッと変わっていたことは言うまでもありません。

三河一向一揆の結末は?

わずか半年の間に、さまざまな出来事が巻き起こった三河一向一揆は徳川家康側の勝利で終わります。その勝ち方をまとめました。

  • 和睦と見せかけて敵の本拠地を潰して制圧
  • 一揆後、一向宗は三河から追放

どのような勝ち方、戦後処理を行ったのかを詳しく解説します。

和睦と見せかけて敵の本拠地を潰して制圧

これ以上の戦いはいけないと家臣から和睦を勧められた徳川家康は、一揆側との和睦に乗り出します。内容は、「一揆側についた武将の本領安堵」や「一揆を起こした首謀者の命を守ること」、そして、「道場などを元通りにすること」でした。

一揆側はこれを飲み込み、三河一向一揆は終わったのです。ところが、これだけで終わらないのが徳川家康です。一向宗の寺院に対して改宗を求めたほか、拒否した際に寺院を破壊してしまったのです。

一揆側からすれば「話が違う!」と怒るのも無理はありません。しかし、以前は野原だったわけだから元のように野原にしたという旨の発言を行い、敵の本拠地を潰してみせたのです。

一揆後、一向宗は三河から追放

一向宗の寺院に改宗を迫り、拒絶したら寺ごと破壊してしまう手に出た徳川家康によって、三河から一向宗が排除、追放されました。

一揆側についた武将たちの中にはすぐに戻れた武将もいる中、本多正信や本多正重といった武将たちは一時的に三河から追放されてしまいます。

三河国では長らく一向宗が禁止され、ちょうどその時一向一揆と対峙していた織田信長らを遠くから眺めるような環境にありました。

1583年に一向宗が解禁されますが、加賀一向一揆が終結し、本願寺派が著しく勢力を失ってからの出来事です。

三河一向一揆が武将たちに与えた影響

徳川家康三大危機の1つである三河一向一揆が、武将たちにどのような影響を与えたのでしょうか。

最後に武将たちに与えた影響について解説します。

造反した武将たちが復帰し身を挺して家康に仕えた

徳川家康には勇猛果敢な家臣団が勢ぞろいしていたと言われていますが、三河一向一揆などの危機を乗り越えた結果、勇猛果敢な武将たちが残っていったことが背景にあります。

その中の1人である夏目広次は一向宗の宗徒だったために一揆側につかざるを得ず、のちに捕まってしまいます。しかし、徳川家康は今までの功績などを認め、家臣に戻ることを認めたのです。

夏目広次は恩義に感じ、武田信玄と激突した三方ヶ原の戦いにおいて、敗北が確実視された徳川軍に状況を報告し、なお戦おうとする家康を強引に逃がしました。その上で、家康に成りすまして突撃して討ち死にしたのです。

徳川家康に忠義を尽くし、あの時の恩を返したいという思いが夏目広次の中にあったことは言うまでもありません。

家康に反発する勢力が一層される

三河一向一揆が勃発した当時、徳川家康はまだ20歳と若かっただけでなく、今川家から独立して間もない時期でした。そのため、当時は至る所に反発する勢力がいた中で、三河一向一揆が起きたのです。

三河一向一揆によって一部の武将を助けた一方で、多くの武将は追放し、反発する勢力を一掃しました。これにより、地盤が安定し、対今川家に専念できたと言われています。

三河一向一揆は徳川家康が独立後に経験した最初の危機と言える出来事でした。三河一向一揆があったことで結束の固い武将たちを手に入れ、着実に地盤を固めていき、天下統一に向けて一歩一歩歩みを進められたのです。