黒田官兵衛は豊臣秀吉の天下統一を支えた天才軍師として知られています。家臣想いな人柄や、正室を一人しか迎え入れなかった誠実さも評価されており、幅広い層に人気の高い戦国武将です。また、黒田官兵衛は城の建築でもその手腕を発揮しています。

この記事では黒田官兵衛の生涯について紹介しています。生い立ちをはじめ、家紋名言など黒田官兵衛にまつわるエピソードを簡単にまとめているので、是非最後まで読んでみてください。

黒田官兵衛の生涯


黒田官兵衛の年表は以下の通りです。

西暦 出来事
1546年 黒田職隆の嫡男として姫路に誕生する。
1559年 母親死去。
1561年 小寺政職の近習となる。
1562年 父に従い、初陣を飾る。
1567年 家督と家老を継ぎ、姫路城主となる。
1575年 主君である小寺政職を説得し、織田氏に従属することを決意。使いとして岐阜に赴く。その際に信長から名刀「圧切長谷部」を賜る。
1577年 羽柴秀吉に姫路城を献上。以後、秀吉の参謀となる。
1580年 小寺氏滅亡により姓を黒田に戻す
1582年 本能寺の変で織田信長討死。その後山崎の戦いで明智光秀を破る。
1583年 賤ケ岳の戦い。大坂城築城。
1584年 小牧・長久手の戦い
1588年 毛利輝元の委嘱を受け、広島城築城の指導を担う。中津城が完成する。
1589年 家督を長男・黒田長政に譲る。
1590年 秀吉に従い、小田原城に乗り込み北条氏政・氏直を説得する。(小田原攻め)
1591年 名護屋城の縄張(設計)を行う。
1592年 秀吉の命により朝鮮出兵。(文禄の役)
1593年 秀吉の命で朝鮮に再度出兵。秀吉の許可なく帰国をしたことで責を受け、剃髪。「如水円清」となる。
1597年 朝鮮再出兵。外征軍主将小早川秀秋の後見人として赴く。
1598年 豊臣秀吉死去。
1600年 関ケ原の合戦に出陣。
1601年 福岡城築城。
1604年 病状悪化により死没。

母の死を機に和歌に打ち込んだ幼少期

1546年11月29日、黒田官兵衛は姫路城で生まれました。『黒田家譜』によれば、生まれた日は雲が空から降りて姫路城を包んでいたとされています。

幼少期の黒田官兵衛は勉強よりも武芸が好きで、弓矢や乗馬の練習に明け暮れていました。しかし、14歳の頃母親が亡くなると生活は一変。和歌、連歌に打ち込むようになったのです。母の死がどのように影響を与えたのかは未だわかっていません。

和歌は武将の嗜みとして必要な教養ではありましたが、黒田官兵衛の和歌への没頭はその域を超えていました。師である円満坊に諌められたことで自身の生活を見直し、兵書を読み、武芸を極める元の日々に戻ったといいます。

家督を継ぎ、織田信長の臣下へ

黒田官兵衛が妻・幸円と結婚したことを機に、父・職隆は家督を官兵衛に譲りました。当時職隆は44歳とまだ働ける年齢でした。その中で官兵衛に家督を譲ったのは、優れた器量を持つ官兵衛になら任せられると考えてのことだったのだと考えられます。この時小寺家の家老も官兵衛に引き継がれています。

1575年、黒田官兵衛は織田信長がいかに優れているかを分析した上で小寺政職に織田信長に仕えることを進言します。政職は織田信長側につくことを決意し、黒田官兵衛を使いとして岐阜に派遣しました。その際に黒田官兵衛は織田信長から名刀「圧切長谷部」を賜ったとされています。

信長の死後は秀吉の元で天下統一に貢献

黒田官兵衛が豊臣秀吉に仕えるようになったのは1577年、秀吉による「中国攻め」の時期でした。

この時黒田官兵衛は秀吉に姫路城を献上。さらに秀吉と兄弟の契りを結んだ書状も残っており、秀吉が黒田官兵衛に大きな期待を寄せていたことがわかります。

本能寺の変で織田信長が亡くなった報を受けると、黒田官兵衛は「中国大返し」を秀吉に進言します。毛利との講和を急ぎ取りまとめ、明智光秀を討つため京都に急ぎ戻りました。この迅速な判断は功を奏し、山崎の戦いで明智光秀を討つことができたのです。

その後も賤ヶ岳の戦い、小田原攻めで黒田官兵衛は活躍。豊臣秀吉の拠点となった大坂城の築城を最高責任者として任されるなど、豊臣秀吉からその実力を買われていたことがわかります。

44歳で長政に家督を譲り「隠居」

1589年、黒田官兵衛は家督を息子・黒田長政に譲ります。秀吉からは反対を受けますが、秀吉の正室・高台院(寧々)の説得もあり家督は譲ることができました。しかし隠居は許されず、家督を譲った後も秀吉の元で参謀として仕えています。

黒田官兵衛が家督を譲りたいと言った要因のひとつに、秀吉との確執が挙げられます。秀吉は黒田官兵衛の手腕を頼りにしている一方、いつか自分が寝首を搔かれてしまうのではないかと恐怖していたようです。実際、秀吉が次に天下を取るとすれば誰かという質問に官兵衛の名を挙げていたことは様々な史料に残されています。
秀吉は官兵衛と距離を置くようになっており、手柄に対し与える領地も少なくなっていました。黒田官兵衛は自分が当主のままだと禄高が増えないのではないかと考え、家督を譲ったのだと考えられています。

黒田官兵衛の有名なエピソード

「戦わずして勝つ」小田原攻め

黒田官兵衛の兵法は「孫子」が元になっていると考えられています。孫子に載っている「戦わずして勝つ」という方法を黒田官兵衛は何度も取っているのです。

その中でも小田原攻めは非常に有名です。兵糧攻めにより敵側が憔悴したところで、小田原城に籠る北条氏政・氏直の開城説得に入りました。刀を持たず、袴姿で小田原城に入り、北条氏政・氏直と対面で講和を進めたとされています。氏政は最後まで徹底抗戦の姿勢でしたが、氏直は黒田官兵衛の条件を呑み降伏しました。

信長の死後秀吉に放った一言

本能寺の変によって織田信長が討たれたことを知った豊臣秀吉はひどく落胆し、呆然としてしまいます。そんな状況の秀吉に対し、黒田官兵衛は「秀吉様が天下を取る機会が回ってきました」と耳打ったのです。

一見冷たい発言のようにも感じますが、この報せが届いた時は備中で毛利軍と戦っている最中。織田信長が亡くなったことが毛利側に知られてしまうと隙をつかれてしまいます。黒田官兵衛はそれを見越し、落胆する秀吉を冷静に慰めたのではないでしょうか。

息子・黒田長政への叱責

黒田官兵衛の晩年のエピソードとして有名なのは、関ヶ原の合戦の後に息子・長政を叱責したという話です。

関ヶ原の合戦で九州の領土拡大を狙っていた黒田官兵衛は、大勢の武士を雇い九州を攻めましたが、黒田官兵衛が落とした地域をもらうことはできませんでした。悔しい思いをした黒田官兵衛は、功績を褒められ嬉しそうにしている長政に対し「お前の左手は何をしていたのか」と叱責したとされています。

史実かどうかは怪しい部分もありますが、黒田官兵衛の悔しさを表現したエピソードとして受け継がれています。

黒田官兵衛の名言


黒田官兵衛の名言といえば「我、人に媚びず、富貴を望まず」という一言。
人に媚びて自分の信念を曲げず、身の丈に合わない贅沢も望まないという、黒田官兵衛の人柄がわかる名言です。

黒田官兵衛の信念の強さを挙げるとすれば、亡くなるまで熱心なキリスト教徒だったという点でしょう。主君である豊臣秀吉はキリスト教を嫌い弾圧していましたが、黒田官兵衛はその動きにも動じることなくキリスト教を信仰し続けました。

黒田官兵衛の家紋


黒田官兵衛が使用した家紋は3つほどあります。
その中では「黒田藤巴」が最も有名です。

黒田藤巴は、中心に3枚の葉、中心から3本の藤の花房が「巴」の形に伸びています。藤は寿命が長い縁起の良い花として藤原氏の家紋にも使用されていました。栄華を極めた藤原氏にあやかろうと、藤をモチーフにした家紋を使用する人は多かったようです。

家紋の由来については諸説あり、ある史料では荒木村重に幽閉された際に牢獄から見えた藤の蔦を参考に作ったとされています。

黒田官兵衛は「永楽銭紋」も使用していました。永楽銭とは当時流通していた貨幣のことです。織田信長が旗印に使っていたことで有名でした。黒田官兵衛はこの家紋を織田信長から賜っています。

3つ目は「餅紋」と呼ばれる丸が描かれたシンプルな紋です。最初は白餅紋という白丸の紋を使っており、息子長政の代には「黒餅」という黒丸の紋に変わりました。理由は簡単で、白丸は旗指物で目立たなかったからです。

黒田官兵衛とゆかりのある城一覧


黒田官兵衛は城づくりの名手としても有名でした。依頼されることも多く、有名な戦国武将「毛利輝元」から城の縄張(設計のこと)も依頼され、携わったとされています。
この項目では黒田官兵衛にゆかりのある城を紹介します。

姫路城

姫路城は黒田官兵衛が誕生した城です。築城はさかのぼること南北朝期に赤松貞野範によって行われています。赤松氏はその後小寺氏にこの城を譲りますが、小寺氏が御着城に移ったことを機に小寺氏家臣だった黒田重隆が城主になりました。
黒田重隆は官兵衛の祖父です。重隆の頃に修築が重ねられ、戦国の城郭へと変貌を遂げたとされています。

黒田官兵衛は中国攻めの際に羽柴(豊臣)秀吉へ姫路城を献上しています。これを機に黒田官兵衛は秀吉の軍師になりました。

大阪城

大坂城は豊臣秀吉が天下統一の根拠地として築いた日本を代表する名城です
1583年、賤ケ岳の戦いを終え天下統一の拠点づくりを決めた秀吉は、黒田官兵衛を普請総奉行(設計、土木、水回りなどすべてを管理する役職)に任命し、大坂城築城を命じます。数万人を動員し、本丸、二の丸、三の丸から成る城郭の建設が進められました。

壁は黒漆塗り、各所には金箔があしらわれた瓦や彫刻がありました。5階には黄金の茶室があったともされています。

中津城

中津城は1588年に築城されました。九州平定後、豊前6郡16万石を得た黒田官兵衛自らが縄張をしています。
梯郭式平城で、堀には海水を引っ張っていました。

中津城は、対抗勢力だった宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)を誅殺した場所として記録に残っています。黒田官兵衛は子の長政と鎮房の娘を婚約させ、祝いの席という名目で完成直後の中津城に鎮房らを招き、宇都宮氏を従者含め全滅させたといいます。

福岡城

福岡城は関ケ原の合戦後に建てられた城です。関ケ原の合戦で功績をあげた黒田官兵衛、長政は徳川家康より筑前52万石を賜りました。

関ヶ原の合戦後、黒田官兵衛・長政は一時的に名島城(福岡市)に入城しますが、城下町の整備が難しいと判断。すでに栄えていた博多を城下町とするため、博多近辺にこの城を建てました。

縄張は黒田官兵衛が手掛けています。その出来栄えは素晴らしく、城づくりの名手加藤清正が感心したほどだったそうです。