北条政子は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の妻であり、2代将軍・頼家、3代将軍・実朝の母です。伊豆の一地方武士の出身だった彼女は、頼朝との婚姻を機に政治を担うトップに上り詰めています。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では女優・小池栄子さんが名演技を見せたことで注目を集めました。
北条政子は恐ろしい女だったというイメージが強く、日本三大悪女として名を挙げられることも多い人物です。北条政子は当時の将軍や執権に対し積極的に政治関連の進言を行っていたため、裏で政治を操っていたという印象が強いのでしょう。
この記事では北条政子の死因について取り上げます。「尼将軍」として恐れられた彼女がどのような最期を迎えたのか、晩年から死後与えた影響まで振り返ります。
北条政子の死因
北条政子の死因は「病死」だったとされています。詳しい病気についてはわかっていませんが、1225年5月末頃に体調を崩し、そのまま回復することなく7月に亡くなりました。享年69歳と、当時の平均寿命を鑑みると大往生だったといえます。
四十九日の法要は北条政子の孫で4代将軍・藤原頼経の正室、竹御所(たけのごしょ)によって行われています。北条政子は晩年、孫の竹御所を大変かわいがっていました。北条政子と頼朝の血を継いだ人で生き残っていたのは竹御所だけだったからです。4代将軍・頼経のもとへ竹御所を嫁がせたのも、頼朝の血筋を絶やしたくないという強い思いがあったのでしょう。
北条政子の晩年
北条政子の晩年は壮絶なものでした。大事な家族を失うだけでなく、承久の乱や伊賀氏事件といった問題が起こるなど、穏やかとは言えない時間を過ごしています。
この項目では、亡くなる数年前から死の直前までの北条政子の行動をまとめています。
息子・源実朝の死
北条政子が亡くなる6年ほど前、息子・源実朝が暗殺により亡くなりました。実朝を殺害したのは2代将軍・源頼家の息子・公暁でした。
頼朝、頼家と大事な人を亡くし、さらにもう一人の息子にも先立たれた苦しさは想像に難くありません。実際北条政子は唯一の息子を失ったことを深く嘆き、投身自殺すら考えたといいます。
実朝は世継ぎがいなかったため、4代将軍には摂家出身の藤原頼経が選ばれました。当時幼かった頼経に代わり、北条政子が後見人として幕府の実権を握ります。
「承久の乱」での演説
4代将軍を後鳥羽上皇の皇子から選出しようとしたことをきっかけに、幕府と朝廷は対立を深めました。その結果起こったのが「承久の乱」です。
承久の乱は後鳥羽上皇が北条義時追討の令旨を出したことで起こりました。北条氏のやり方に反対していた御家人が後鳥羽上皇側についてしまう危険性があるとして、北条政子は急ぎ対応するよう義時たちに進言します。
その時行ったのが、有名な演説です。源頼朝への恩は山より高く海より深いものであると伝え、頼朝に恩を感じるのであれば、幕府を守ることで忠義を果たすよう東国の御家人たちへ訴えました。
この演説に感銘を受けた御家人たちが立ち上がり、最終的には19万騎の軍勢となって京都を制圧しました。
弟・北条義時の急死と伊賀氏事件
承久の乱が落ち着いた1224年、2代執権だった北条義時が急死しました。この時点で執権は将軍以上の権力を持っていたため、急いで3代執権を選出する必要がありました。
義時の妻・伊賀方は自分の息子の北条政村を3代執権に擁立しようと企て、有力御家人の三浦義村と結託。この動きに対し北条政子は謀反の疑いがあると考え、三浦義村を説き伏せ、伊賀方を政界から追放しました。
しかし、現在では伊賀方は冤罪だったと指摘されています。伊賀氏一族の権力拡大を防ぐため、追放する口実を作りたかった北条政子による策略だったとする見方が有力です。
当時の慣例を踏まえると、義時の跡継ぎは義時の妻である伊賀方が選ぶのが正当であり、北条政子のこの行動は不当であると批判されています。
体調を悪くし、生前に自身の冥福を祈る「逆修」を執り行う
北条義時が亡くなった1年後、北条政子は急に体調を崩すようになりました。5月末には病状が悪化。6月初旬に一時的に回復しますがすぐに悪化するという状況を繰り返しています。
北条政子は亡くなる直前、逆修(自分の供養を自らで祈る仏事)を執り行っていました。自身の死期を悟っていたのかもしれません。
『北条九代記』には面白い話も残っています。北条政子の晩年、「伊賀方の亡霊が枕元に現れた」という内容です。
北条政子によって鎌倉を追放された伊賀方はその後すぐ亡くなりました。北条政子が祈祷をしていたのは、怨霊になった伊賀方を鎮めるためだったと残されています。『北条九代記』は物語がメインなので信ぴょう性はありませんが、過去の人が北条政子と伊賀方の関係をどう捉えていたかが分かるエピソードです。
北条政子の死後
北条政子は大きな影響力を持った人物でした。北条政子の死によって幕府内は大きく動き、新たな体制作りが火急の問題となったのです。
この項目では北条政子の死後、幕府にどのような影響を与えたのか紹介します。
北条政子の死を契機に多くの御家人が出家
北条政子が亡くなった翌日、家臣のもとへ北条政子の訃報が伝えられました。
訃報が広がった直後、男女関わらず出家をする人が続出したといいます。その中でも最初に出家をしたのは、御家人の二階堂行盛でした。
二階堂行盛は「十三人の合議制」にも選ばれていた二階堂行政の孫で、北条政子と懇意にしていたことでも知られています。
3代執権・北条泰時が中心となり新体制が作られる
幕府の要であった北条政子の死は、3代執権・北条泰時にとってかなりの痛手でした。後ろ盾を失った泰時は急ぎ幕政改革を行う必要があると考え、4代将軍・頼経の元服、将軍就任をすぐに行いました。
一方、北条政子が亡くなったことで政子の意見を仰ぐ必要はなくなり、泰時は独自の政策を進めていきます。その一つが合議制による政治です。泰時は叔父の時房を鎌倉に呼び、もう一人の執権として協力しながら幕政を行いました。時房の立場は後に「連署」と呼ばれる役職へと変化します。
そのほか「評定衆」という新たな組織を作り、多くの御家人の意見を取り入れて政治を行う体制を構築しました。3代執権・泰時によって執権政治の基盤は作られたのです。
北条政子に関するエピソード
この項目では、主に北条政子の死後に関するエピソードを紹介します。
北条政子の死後言い伝えられるようになった名称に関する問題や、「日本三大悪女」と称される理由をまとめました。
北条政子の墓所は「寿福寺」にある
北条政子のお墓は神奈川県鎌倉市にある「寿福寺」の境内にあります。
寿福寺境内の奥には「やぐら」と呼ばれる洞穴のような鎌倉式のお墓があり、そこが北条政子と源実朝のお墓として言い伝えられています。実際に行ってみると奥まった隠れた場所にあり、「これがお墓?」とびっくりするかもしれません。
お墓の隣には供養のための五輪塔が祀られています。
「日本三大悪女」と言われるようになった理由
北条政子は室町時代の日野富子・戦国時代の淀殿と並び「日本三大悪女」と称されています。
北条政子が日本三大悪女に名を挙げられているのは、嫉妬深い性格で頼朝の浮気を許さなかったからだと言われています。
北条政子は非常に嫉妬深く、北条政子が身籠っている間愛人の元に行った頼朝に激怒。愛人の邸宅を破壊するほどだったようです。
その結果頼朝はあまり子を残せず、最終的に3代将軍・実朝で頼朝の血筋は途絶えることになってしまいました。源氏政権の存続という意味では、北条政子の行いは批判されるものだったのかもしれません。
「北条政子」の名称が親しまれるようになったのは昭和以降?
「北条政子」の名で知られていますが、実はこの名前で知られるようになったのは昭和以降とごく最近のことです。
「政子」の名前は、1218年に朝廷より従三位の位を授けられた際、文書に記録するためつけられた諱です。中世の女性は外向きに自身の実名を名乗ることはタブー視されていたため、記録が残っていません。
当時は一般的に「尼御台所」と呼ばれていました。御台所とは幕府将軍の正室を表す役職名に近いものです。