荘園とは、8世紀から16世紀まで約800年にわたって存在した大規模な農園ですその荘園を支配していたのは、貴族や寺社などの有力な権門勢家である荘園領主でした

荘園領主として有名な人物に、奥州藤原氏がいます。藤原氏は、荘園経営によって得た多大な財源をもとに政治を行っていました。

また、源頼朝は、平家が没落・滅亡した際に朝廷によって没収された所領である平家没官領(へいけもっかんりょう)の大部分を受け取り、大荘園領主となった人物です。

その後、北条家の執権という役職である得宗家も、各地の荘園の大荘園領主となりました。

荘園については、現在中学生の歴史の授業で学ぶ内容です。

この記事では、荘園領主の役割、荘園がいつ始まったかの経緯、それに伴って成立した荘園制度などをわかりやすく解説します。

荘園領主とは?

荘園領主とは、主に貴族や寺社、武家などの権門勢家が領有する荘園と呼ばれる農園の支配者のことです。農民から荘園で収穫した農作物の一部を、税として徴収していました

なお「荘園領主」の読み方は「そうえんりょうしゅ」ではなく「しょうえんりょうしゅ」です。

荘園領主からさらに皇族や、皇族政務を補佐してつかさどる摂関家に寄進されることもあり、その最上位の荘園領主を「本家」と呼びました。

また、本家や荘園領主の中で、実際に支配権を持つ者を「本所」と呼びます。本所は、支配を強化するために家臣を現地に派遣し、開発領主である下司や公文を指揮しました。

この派遣された者を預所と呼び、開発領主の中には預所に任命される者もいました。

荘園領主と開発領主の違い

10世紀半ば頃から、国司は有力農民である田堵(たと)に、土地の開発経営を任せるようになります。その中でも有力な大名田堵と呼ばれる農民は、自身で開墾し、私有地化しました。この田堵が開発領主です。

荘園領主と開発領主の違いは、荘園領主が貴族や寺社などの権門勢家による荘園の支配者をいうのに対し、開発領主は富豪や武士が未開墾地を新たな荘園として開発し、その土地を支配する者をいう点にあります。

しかし、開発領主は開墾した土地に対して、国の役人である国司に税金を支払う必要がありました。税金を払いたくない開発領主は、自分の土地を有力な貴族や寺社に寄進します。

その代わり、寄進された荘園領主から下司や公文などの現地管理者である荘官(しょうかん)に任命されました

荘官の役割は、荘園の管理と運営を行い、荘園領主の代わりに農民から税を徴収し、荘園の経済や行政を監督することです。

荘園領主と地頭の違い

荘園領主と地頭の違いは、開発領主である荘官と似ています。

地頭は荘園を管理し、税金を徴収して荘園領主に納める役割がありました。ただし、地頭と荘官の違いは、荘官が荘園領主から任命された管理者であるのに対し、地頭は幕府が任命した管理者である点です。

地頭の中には、荘園領主や国司から荘官として任命される者もおり、荘園領主と国司から二重の支配を受けていたとされています。

幕府が定めた御成敗式目という法典には「荘園領主が年貢を納めない場合、地頭職を解任する」という規定がありました。

また、幕府に直属する武士は御家人として鎌倉殿に仕える一方で、地頭としては徴税や警察、裁判の責任者として国司や荘園領主に奉仕する役割がありました

荘園が始まった経緯

日本における荘園は奈良時代に始まり、時代ごとに形態を変えながら、戦国時代まで続きました。

以下では、荘園が始まった経緯をご紹介します。

班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)

荘園ができる前は、豪族や寺社などの有力者が、自身の領地で土地や人民を支配していました。しかし、645年の大化の改新以降、土地も農民もすべて国のものとなります。

6歳以上の男女に、決まった広さの「口分田(くぶんでん)」という土地が貸し与えられ、面積に基づいて収穫物の3%を税として国へ納め、残りは自らの食料としました。

ただし、口分田が与えられるのは一代限りで、本人が死亡した場合は、国へ返還することが定められていました。このシステムが、班田収授法です

三世一身法(さんぜいっしんのほう)

奈良時代の8世紀初め、班田収授法に基づいて農民は土地を耕し納税していましたが、人口増加に伴い、新たな口分田が必要になりました。

どれだけ土地を開拓して収穫を増やしても、その土地は子孫には受け継がれず、自分の所有にはなりません。そのため、農民の意欲が低下し、多くの人が口分田を捨てて逃げ出すようになりました。

このままでは税収入が減少するため、国が新たに制定したのが三世一身法です。

三世一身法では、新しい溝や池などの水利施設を作って開墾した場合は、三世代(本人、子、孫)まで土地の所有が許されました。また、古い水利施設を利用した場合は、班田収授法と同様に、開墾者本人一代の所有が許されました。

異なる点は、開墾する土地の面積に制限がなかったことです。しかし、三世一身法は農地の返還を遅らせるだけで、開墾の促進効果はあまり上がりませんでした

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

大化の改新から班田収授法、三世一身法を経て、国は状況を改善するために墾田永年私財法を制定しました。

これにより、開墾した土地を永遠に私有財産とすることが可能になり、社会の復興策としての一面も強かったといわれています。

しかし、以下のような制限が設けられました。

  • 開墾を希望する場合、国司に申請が必要
  • 申請から3年以内に開墾しない場合は、他の人が開墾することができる
  • 他の農民の邪魔になる場所の開墾は不可
  • 不正な申請や耕作が行われていない土地は、国に返還される
  • 位階によって所有できる開墾地の面積に上限がある

 

収穫物から国に税金を納めることは変わりませんでした。

私有財産として土地が認められたことで、豪族や寺社が口分田を捨てて逃亡した農民を雇い、開墾を進めて土地を私有化し、荘園領主がうまれました

これが荘園制度の成立となったのです。

このようにして成立した荘園は「初期荘園」と呼ばれ、近畿地方を中心に広がり、荘園の始まりとなりました

世界の荘園制度

荘園制度は、日本の中世における土地管理制度のことです。貴族や寺社だけでなく、荘園に住むすべての人々にとって生活や経済の基盤となり、中世を通じて続きました。

荘園制度は日本だけでなく、他の国々にも存在しました。以下に、世界の荘園制度についてご紹介します。

ヨーロッパの荘園制度

ヨーロッパの荘園制度は、8世紀頃に中世の西ヨーロッパや中央ヨーロッパの一部の農村で見られた経済と社会構造をいい、荘園領主が法的にも経済的にも権力を持っていました

荘園領主は、自らが領有する直営地からの収入と支配下にある農奴からの貢納によって、経済生活を支えていました

しかし、荘園領主は荘園を直接経営していましたが、貨幣経済が徐々に浸透するにつれ土地を農民に貸し、農民から生産物や現金を徴収する方法が一般的になります。

貨幣経済の発展に伴い、領主と農民の関係が薄れるにつれて荘園制度の解体が進み、14世紀頃に崩壊しました。

中国の荘園制度

中国では、漢の時代から皇族や富豪が娯楽のための別荘である「」や「」を所有していました。これがのちに荘園と呼ばれ、貴族や武士が土地を私有するようになり、各地に広がったのです。

中国の荘園は荘院や荘宅と呼ばれる屋敷、庭園、農地で構成されていました。所有者や家族、管理者が住み、小作人や奴隷が働いていたとされています。荘園制度は衰退しながらも続きましたが、1949年に中華人民共和国が建国されると消滅しました。

荘園領主が地頭の荘園侵略に対抗した政策

地頭は荘園の管理と税金の徴収を担っていましたが、鎌倉時代になると、地頭となった武士たちは各地の荘園の税金を横領するようになりました。これにより、荘園領主と荘園を侵略する地頭との間で対立が生じたのです。

この問題に対処するため、荘園領主は地頭の荘園侵略に対抗する手段として、地中分という政策を打ち出しました。これは、荘園の土地を地頭と二分することで、荘園領主に税金の確実な収入を確保するための方法です。

中分には、和解に基づく和与中分と、幕府の命令による強制的に行われた中分がありました。また、中分は常に二分されるわけではなく、勢力関係に応じて、分割割合が異なることもありました。

これにより、土地の管理と経営に関する業務も分けられることとなったのです。

荘園領主の滅亡

室町時代に入ると、幕府の官僚である守護が、大きな権力を持つようになりました。

守護は荘園領主から税金の徴収を請け負う、守護請を積極的に行いました。守護請とは「荘園領主らが守護に年貢の納入を代行してもらう」ことをいいます。

守護は荘園の支配力を強め、室町時代の守護大名と呼ばれるようになりました。

戦国時代に入ると、荘園や荘園制度は地頭の荘園侵略や横領により打撃を受け、存続が不安定になります。

1580年以降には、豊臣秀吉による太閤検地が行われ、日本の土地はすべて豊臣秀吉のものとなり、土地制度が大きく変わりました

さらに太閤検地は、農民を帳簿に登録し、1つの土地には1人の耕作者しか認めず、納税者を定めようとする制度だったのです。

つまり、荘園制度では複数人で耕していたところ、太閤検地では1人しか耕作できなくなりました。さらに、土地は国の管理ではなくなります。

これにより、長く続いた荘園が消滅し、荘園領主も滅亡したのです。