評定衆は鎌倉幕府で制定された最高機関です。幕府の問題を話し合いによって解決しようと作られた機関で、鎌倉幕府の体制を確固たるものにしたいという狙いを持っています。執権や連署といった制度の次に決定権を持っており、裁判なども行っていました。

評定衆は一条家一族や有力御家人、有力文士御家人といった人物がメンバーとなっています。初期は11人で構成されており、その中には宝治合戦まで幕政で活躍した三浦義村もいました。

ただ当時は評定衆に加え、引付衆や連署、院評定といった機関などがあり、かなり複雑でした。評定衆と間違える機関や名称もあります。今回は評定衆と引付衆など、間違えやすい機関との違いを含め詳しく解説します。

評定衆とは何かわかりやすく解説

評定衆とは

評定衆というのは幕府の問題を話し合いで解決しようと作られた機関です。鎌倉幕府の第3代執権となった「北条泰時」が設置したもので、初代メンバーは11名です。将軍と主従関係によって結ばれた「御家人」と、文筆を業としている「有力御家人」のいずれかの人たちにより構成されていました。

評定衆が対応する問題は多岐にわたり、政務以外裁判なども担当していました。評定衆では北条氏が高い権力を持ち、北条一族が主軸となっていたのが大きな特徴です。メンバーの中には北条氏の次に力のあった三浦氏もいました。北条が主軸となっていた評定衆で三浦氏が強い発言権を持っていたことが知られています。

評定衆の席次を持っていた北条氏系列の十二家は以下です。

  • 名越家
  • 塩田家
  • 伊具家
  • 常盤家
  • 政村流北条氏
  • 佐介家(2家)
  • 甘縄家
  • 大仏家(3家)
  • 時房流北条氏

評定衆はどんな立ち位置だったのか

鎌倉幕府には将軍を補佐する執権という役割や、執権を補佐する連署といった役割がありました。これらの役割は非常に重要なものでした。しかし評定衆は「話し合い」を行う機関であり、評定衆のみで幕府を動かすことはできません。執権・連署と共に話し合いを行う中で、問題を解決していくことが評定衆の役割です。

執権は北条一族の中で有力な人が就任していましたが、評定衆は政所別当・執事など、現代でいう役場のリーダーのような地位の方が兼務していたことも大きな特徴といえます。

評定衆秀の初代メンバー

評定衆発足当初のメンバーは以下となります。

  • 中条家永
  • 二階堂行村
  • 三善康俊
  • 斎藤長定
  • 三浦義村
  • 佐藤業時
  • 矢野倫重
  • 後藤基綱
  • 二階堂行盛
  • 三善康連

 

町幕府時代も評定衆が設置されていましたが、足利氏一門の栄誉職といってもいいイメージで、権力としてはそれほど大きなものではありませんでした。室町幕府の評定衆は、吉良氏など足利氏一門でも将軍家のような高い家柄の当主が就任しています。足利氏一門以外の家から就任した人は「出世評定衆」とされ、処遇についてかなりの差があったそうです。

評定衆が設置された背景

評定衆が設置されたきっかけ

1221年に起きた承久の乱は、将軍の跡継ぎを決める問題によって鎌倉幕府と後鳥羽上皇が対立したことで始まりました。後鳥羽上皇が第2代執権であった北条義時を、討ちとるようにと発したことがきっかけで承久の乱が起こったのです。義時の息子「泰時」は幕府軍の一員として参戦し、最終的には「北条政子」によって「泰時」が第3代執権となりました。

将軍の跡継ぎを決めるなど、何か決定しなければならない時、必ず権力争いが起こります。これを何とかしようと考え出されたのが評定衆でした。

評定衆が設置された目的

泰時は執権に就任し、北条政子や御家人たちが亡くなると、鎌倉幕府の体制を確固たるものとするための改革に専念します。執権の補佐として連署を設置し、有力な御家人を選任し評定衆を組織しました。泰時は「合議制」を主軸とした政治を目指していたのです。

当初は北条氏のほか御家人であった三浦氏、足立氏、公家の三善氏などが評定衆として名を連ねました。その後、北条氏の本家系統や、執権を持つ北条氏の系統などが政治の主軸を握り始め、評定衆の中にも北条一族が多くなっていったのです。

北条氏が多くなったことで、評定衆が設置された目的である「合議制」も意味をなさなくなり、儀式的なものとなっていったようです。

鎌倉幕府の評定衆以外の役職や機関

引付衆

引付衆というのは訴訟問題を担当しており、その中でも主に「領地」の問題に対応していました。訴訟を進めていく過程で最も大切なことは「公平な審理」です。評定衆は幅広く政務を行い、引付衆は「専門的なこと」を深く掘り下げていく役割でした。

ただ引付衆は北条氏系統が多く、評定衆のサポート的な役割とされていたため、同じような仕事をしていることで区別がつかなくなり、最終的には衰退しました。

評定所

評定衆と間違いやすい言葉が「評定所」です。評定所は特定の場所を意味しており、役割・役職ではありません。鎌倉時代以外、江戸時代にも利用されていた言葉ですが、時代が違うと意味も異なります。

鎌倉時代の評定所は「評定衆が話し合いを行う場」です。合議をする場として裁判なども行われていました。江戸時代の評定所は、現代でいう最高裁判所で、鎌倉時代の評定所とは根本的に意味が違います。

13人の合議制

この仕組みも評定衆とよく似た仕組みです。第2代将軍であった源頼家時代の合議制で、将軍となった頼家をサポートするために取り入れられた仕組みでした。

選ばれた13人の中には、後の執権を務めた北条時政なども含まれています。この13人の合議制の仕組みは評定衆の見本のような存在といっていいでしょう。

13人の合議制はその後、御家人が亡くなるなどして解体されています。評定衆と13人の合議制の違いは以下のような点です。

  • 13人の合議制・・将軍をサポートし取り次ぎを行う
  • 評定衆・・サポートではなく執権を持ち政治も行う

連署

第3代執権の北条泰時が設けた役職が「連署」です。執権の補佐や副執権を行う役割を持っており、「補佐役」とはいっても執権の次に力を持っている役職であり、幕府のNO2といっていいでしょう。

初代は北条泰時の叔父「北条時房」です。幕府の運営は執権、評定衆に選ばれた11人、そして連署で行っていました。連署については常に設置されているわけではなく、執権を持つ人が若いときや政治基盤が不安定なときなどに置かれるシステムです。鎌倉幕府以降、連署又は連署に似ている役職はおかれませんでした。

鎌倉幕府の役職・機関のまとめ

名称 設置年代 設置した人 設置された場所 役割と意味
評定衆 1225年 第3代執権
北条泰時
鎌倉幕府 鎌倉・室町幕府に設置
行政・司法・立法のすべてを司る
13人の合議制 1199年 鎌倉幕府
第2代将軍源頼家
仕えた御家人ら
鎌倉幕府 鎌倉幕府に設置
評定衆の基礎
合議で方針を固める
最終決定は将軍
連署 1224年 第3代執権
北条泰時
鎌倉幕府 鎌倉幕府に設置
執権に次ぐ発言力を持つ
ただしあくまでも執権の補佐
院評定 1246年 第88代天皇
後嵯峨天皇
院文殿 鎌倉幕府に設置
院政の役職
引付衆 1249年 第5代執権
北条時頼
鎌倉幕府 鎌倉幕府に設置
訴訟と裁判専門の役職
評定所 1225年 鎌倉幕府 評定衆の会議場所

評定衆の合議基準として作られた「御成敗式目」

御成敗式目は北条泰時が制定した日本初の武家に対する法律です。1232年に制定された御成敗式目には、領地のルールや武家社会における道徳などが含まれていました。

評定衆で裁判も行っていましたが、当時は御家人同士の領地トラブルも多く、それらの合議のマニュアルとして「武家法」を作ることが決まりました。しかし基礎となる法律は平安時代に作られたもので時代にそぐわないとされ、またその法律は貴族に向けたものだったため、武家に対する法律が必要だったのです。

評定衆が設置されるとすぐに御成敗式目の法典作成が始まり、1232年に制定されました。御成敗式目ができたからこそ、評定衆の役割を果たすことができたといえます。