連署とは、鎌倉幕府で事実上の最高権力者として君臨した執権の補佐役です。執権に比べると地味な印象はあるものの、実は北条時宗も歴任したことがある重要な役職でした。

連署がどのような役職だったのかや、設置の経緯などを知ると、鎌倉時代を理解するのに非常に役立ちます。鎌倉時代の執権の補佐役である連署について、徹底的に見ていきましょう。

鎌倉時代の連署とは?わかりやすく紹介


源頼朝が開き、北条家が確固たるものとした鎌倉幕府には「連署」と呼ばれる役職もありました。「執権」の方が北条義時や時宗が歴任しただけあって存在感がある分、連署についてよくわからない方もいるかと思います。

実は連署は執権を補佐する役割であるだけでなく、将来執権になる人物が経験する役職でもありました。連署について知れば、鎌倉幕府に対する理解も深められます。

鎌倉幕府で執権を補佐した役職

まず連署とは、鎌倉幕府で将軍に次ぐ地位である執権を補佐する役職です。ただ鎌倉幕府の将軍は初代の頼朝の死後に次第に有名無実化していったため、連署は事実上のナンバー2とも言えます。

ちなみに「連署」の由来は、幕府が発給する公文書に執権と連名で署名したことが起源です。執権が署名して発行する文書には、全国の武士を従わせる影響力もあったため、一緒に署名する連署の責任も重大でした。

今風に考えるなら、執権が内閣総理大臣だとすると、連署は副総理や内閣官房長官のような存在です。連署経験者が次の執権になるケースが多かった点や、連署の就任期間が執権の就任期間と重なる場合もあった点でも、現在の総理大臣と官房長官の関係に似ています。

初代北条時房より北条一族が歴任

鎌倉幕府の連署は合計で14人が就任しました。歴代の連署は以下の表の通りです。

代数 人物 就任期間 執権(数字は代数)
1 北条時房 1225年~1240年 ③泰時
2 北条重時 1247年~1256年 ⑤時頼
3 北条政村 1256年~1264年 ⑥長時
4 北条時宗 1264年~1268年 ⑦政村
5 北条政村(再任) 1268年~1273年 ⑧時宗
6 北条義政 1273年~1277年 ⑧時宗
7 北条業時(なりとき) 1283年~1287年 ⑧時宗・⑨貞時
8 北条宣時(のぶとき) 1287年~1301年 ⑨貞時
9 北条時村 1301年~1305年 ⑩師時
10 北条宗宣(むねのぶ) 1305年~1311年 ⑩師時
11 北条煕時(ひろとき) 1311年~1312年 ⑪宗宣
12 北条貞顕 1312年~1315年 ⑫煕時
13 北条維貞(これさだ) 1326年~1327年 ⑮貞顕・⑯守時
14 北条茂時 1330年~1333年 ⑯守時

連署は北条家が歴代執権を務めただけあり、同じく北条一族が就任しています。

なお連署経験者の中には後に執権になった人物も多いです。例えば8代執権として2度にわたる元寇に対処した時宗は、執権になる前の4年間、先代執権の政村を補佐する形で連署を務めました。

執権・連署・評定衆の違いは?

連署を理解する際、執権や評定衆との違いを知っておくと便利です。

まず執権は本来、鎌倉幕府将軍の補佐役として設けられました。しかし後で詳しく触れるように、将軍が有名無実化する流れの中で、幕府の最高権力者とみなされるようになりました。

また評定(ひょうじょう)衆は、1225年に3代執権泰時の時代に設けられた合議機関です。評定衆は北条一族や有力御家人のほか、幕府内の有能な官僚から合計11人が参画していました。幕府の運営は執権・連署に11名の評定衆が話し合う形で進められています。

執権・連署・評定衆は細かい違いはあるものの、いずれも執権政治確立後の鎌倉幕府を運営する上で欠かせない存在でした。

連署はいつ設置された?設置から形骸化までの流れを解説

歴史の教科書で連署は、執権の場合以上に突然出てくるため、設けられた時期や経緯がよくわからない方もいるかと思います。実は連署の登場は、執権政治の確立と非常に関係が深いです。しかもルーツをさかのぼると源頼朝死後の混乱期にまで行きつきます。

連署登場のプロセスを知ることは、鎌倉時代の歴史をより深く理解する上で便利です。

執権政治の確立と将軍の有名無実化

連署は執権政治の確立の中で設けられました。まず執権自体が、元々は将軍の補佐役として登場した役職です。初代執権の北条時政は2代将軍頼家を補佐していたものの、頼家と対立すると時政は彼を将軍位から退かせます。そして代わりに頼家の弟・実朝を将軍としました。

時政は実朝を補佐しつつ、自ら政所別当も兼任したのを機に「執権」と称します。その後時政の子・義時は侍所別当の地位をも得ました。ここに執権は幕府最大の実力者になるとともに、将軍は名ばかりの存在となっていきます。

「尼将軍」北条政子の死による評定衆設置

執権による幕府政治を確立した北条家は、1221年の承久の乱を経て全国に武家の支配を浸透させていきました。やがて1224年には2代執権の義時が病死し、息子の泰時が3代執権に就任します。

泰時は当初叔母である「尼将軍」北条政子や、有力官僚の大江弘元らの補佐を受けながら政治を行いました。しかし翌1225年に政子と弘元が相次いで亡くなると、泰時は北条一門や有力御家人などからなる評定衆を設置しました。

同時に自分を補佐する役職として連署も設け、泰時の叔父・時房を任命しています。

執権と同じ存在から補佐役へ

泰時によって初代連署に時房が選ばれたものの、連署は当初補佐役というよりも執権と同じ存在でした。いわば執権の分身と言っても過言ではない存在です。

加えて「連署」の名称も当初はなく、「両執権体制」とさえ呼ばれていました。実際泰時と時房には権限上の差はあったものの、泰時は最後まで時房に敬意を払っています。

初代時房が1240年に亡くなると連署は数年間空席となりました。やがて1247年に5代執権時頼の要請で一門の重時が2代目連署に就任し、以降は補佐役としての連署が定着します。

鎌倉時代末期には内管領の台頭で執権とともに形骸化

重時の次に連署に就任した長時は、後に6代執権に就任しました。以降は連署経験者が執権に就任する慣例も定着します。中には7代執権に就任した政村のように、生涯に2回連署を歴任するケースもありました。

執権の補佐役として力を振るった連署でしたが、9代執権貞時(時宗の子)の時代から徐々に形骸化が始まります。貞時が得宗(北条家嫡流)家家臣の筆頭だった平頼綱を討った後、政治への意欲を失ったためです。後に内管領になった長崎円喜・高資(たかすけ)親子が台頭すると、連署は執権とともに名前だけの存在と化します。

鎌倉幕府滅亡後の連署


鎌倉時代に執権の補佐役として設置された連署は、室町時代以降にはすっかり見られなくなってしまいました。しかし「連署」の名前で置かれる役職が消滅したというだけで、機能は後の時代にも受け継がれています。

鎌倉幕府滅亡後に連署の機能がどのように受け継がれていったのかを見ていくと、意外な発見があって面白いです。鎌倉時代以降の連署についても解説します。

「署名する者」としての役割は加判が担当

まず連署の本来の意味である「連名で署名する者」としての役割は、鎌倉幕府滅亡後しばらく見られません。しかし戦国時代の終わり頃になって、大名が発行する公文書に署名や押印を行う「加判」が登場します。

江戸時代になると加判は、江戸幕府の将軍や旗本、全国の諸大名で見られました。任命される人物も幕府の老中などの重臣クラスが一般的です。ちなみに江戸幕府でも大老は重要時のみの役職で、通常の職務を免除されたことから、就任することを「加判御免」とも言われました。

政治の補佐役は管領が担うことに

一方連署が鎌倉時代に行ってきた執権の補佐役は、室町幕府では管領が担いました。管領は将軍の直接の補佐役ではあったものの、鎌倉時代に執権が事実上の最高権力者であった分、連署に近いとも言えます。

当初管領は足利将軍家の執事(家臣のまとめ役)が就任していました。しかし幕府政治の安定に応じて、細川・斯波・畠山の三家から輩出する体制に変わっています。ただ戦国乱世に突入すると、将軍家と同じく内部抗争の末に弱体化しました。