日本の歴史の中で、三度日本の危機があったと言われています。
一つは白村江の戦い、一つは太平洋戦争、そしてもう一つは元寇です。

鎌倉時代に元から侵攻を二度受け、壱岐・対馬は殺戮と強奪を受けました。
これに対し、鎌倉幕府の御家人はモンゴル帝国・高麗軍の兵士が怖れを成すほどの狂気に満ちた攻撃を行い、元の野望を打ち砕きました。

元寇では、火薬を使った最新兵器に御家人たちは苦しめられます。初めて大陸の兵器と対面した瞬間でした。
しかし、それでも鎌倉武士は鍛錬された武芸と知恵を絞った戦いで、モンゴル帝国・高麗軍を苦しめました。

この記事では、元寇が起こった原因から、戦いの経緯、モンゴル帝国と日本の武器の比較、活躍した御家人を紹介します。

元寇とは

元寇とは、1274年、1281年の鎌倉時代に、モンゴル帝国(元)と高麗の連合軍が日本を攻めてきた事件です。
日本においては、本格的な外国侵攻は初めて、白村江の戦い以来の外国との戦いになります。
一度目の侵攻は文永の役、二度目の侵攻は弘安の役と呼ばれます。

当時のモンゴル帝国クビライ・カン(フビライ・ハン)が高麗より日本の情報を得て、国交(といっても日本を臣下としての国交)を持ちたかったようですが、北条時宗率いる鎌倉幕府が無視を決め込んだため、武力での制圧をもくろんだのが発端となります。

結局、モンゴル帝国は、日本を征服することが出来ず、弘安の役では鎌倉武士の反撃と折からの台風によりほぼ全滅に近い敗北となりました。

元寇年表

年代 出来事
1231 モンゴル帝国が、高麗に侵攻開始
1260 クビライ・カン即位
1264 モンゴル帝国、樺太侵攻
1265 クビライが家臣より、日本との通交を進言
1266 第一回使節派遣、日本に到達せず
1268 第二回使節派遣、幕府・朝廷が親書を受け取る
1269 第三回使節、対馬で止められる
1269 第四回使節、大宰府守護所に到達
1271 三別抄の援助要請、幕府の対応は不明
1271 第五回使節、日本使節12名がクビライの元に派遣される
1272 第六回使節、日本の情報を持ち帰る
1273 第一次日本侵攻計画
1274 文永の役
1275 第七回使節、北条時宗が使者を斬首
1275 第二回日本侵攻計画
1279 第八回使節、使節団一行を斬首
1281 弘安の役
1282 第三次日本侵攻計画
1283 第九回使節、日本に到達せず
1284 第十回使節、対馬にて水夫により使節団殺害
1287 ナアン・カダアンの乱
1287 陳朝大越国侵攻
1292 第十一回使節、詳細は不明
1292 第十二回使節、使節団は鎌倉に連行されたがその後は不明
1299 第十三回使節、この時の執権は9代執権北条貞時。使節の一山一寧は鎌倉幕府に厚くもてなされ、日本で死去。

元寇がなぜ起こったか?日本の外交政策の失敗

フビライからの親書

高麗を支配下に置いたモンゴル帝国のクビライが高麗の官吏から日本の情報を聞いたのが始まりです。

モンゴル帝国の皇帝クビライ・カンは日本へ使節を送りました。この時、使節団はクビライの親書を携えており、大宰府の鎮西奉行・少弐資能に大蒙古国皇帝奉書という親書を手渡しています。

この親書は、最初幕府に送られましたが、外交は朝廷の役割でしたので、朝廷に回されることになりました。

親書の内容は、内容は丁寧なものでしたが、日本を「小国」と表現するなど見下し、半ば脅迫じみたものでした
しかし、親書の後半においては、国交を結びたい旨が書かれています。

一説では、クビライとしては単に国交を結びたかったのではないかと言われています。

しかし、数度の国書で思うように返答が無い日本に対し、クビライはしびれを切らし武力行使もやむを得ないと国書にも書くようになりました

朝廷の対応

クビライの親書や数度の国書に対して、朝廷は返書を作成しました

内容は、モンゴル帝国への服従を拒否するものです。
そして、武力行使をちらつかせるモンゴル帝国に対し、日本の独自性を主張した内容でした。

この返書は、幕府からの「返書を送るべきではない。」との上奏を受け、結局のところクビライに届くことはありませんでした

鎌倉幕府の対応

鎌倉幕府は北条時宗が執権となったばかりでした。
朝廷には「返書を出すな」と言っておいて、鎌倉幕府は結局のところ返書は出しませんでした

何故返書を出さなかったのかについて、鎌倉幕府の中でもどのように対応して良いかまとまらなかった為結局出さなかったのか、はなから無視を決め込んでいたのかは分かりません。

しかし、当時日本に避難してきた南宋の僧侶から情報は得ており、南宋としても日本がモンゴル帝国に飲み込まれるのを妨害したかったのは確かだったようです。
このやり取りの中、北条時宗は元の襲来に備え九州を中心とした御家人を鎮西に向かわせました

執権になりたての北条時宗を攻める事は出来ないでしょうが、モンゴル帝国の国書に対し返書を出さないという外交上のミスを犯してしまったため、日本とモンゴル帝国両方に大きな損害を生じさせました。

せめて、朝廷の草案した返書を出していたなら、元寇は発生しなかったかも知れません。

文永の役|戦いの経緯

1274年、元と高麗の連合軍は、朝鮮の合浦を出港、対馬に到着すると守護代・宗資国が少ない手勢で応戦しました。

しかし、宗資国を始めほぼ全滅となり、対馬の住人は殺され、または捕虜とされました。

次に、連合軍は壱岐を攻めます。守護代・平景隆は奮闘むなしく討死しました。
ここでも殺戮行為が行われ、多くの民衆が殺され捕らわれました。

対馬や生きの戦況が大宰府に伝わり、ひどい惨状に鎮西奉行は危機感を募らせます。

しかし、一説ではモンゴル帝国の戦い方を知るため、鎌倉幕府は対馬・壱岐をあえて見殺しにしたとの説もあるようです。

そして、九州の御家人が大宰府に終結していきました。

1272年10月20日、元軍は博多湾に上陸します。

幕府に提出された文書では赤坂の戦い、鳥飼潟の戦いで日本勢が有利に展開します。
しかし、「八幡愚童訓」に書かれている内容は、全く違っておりコテンパンにやられていた記述がされています。

元軍は、当時の最先端兵器「てつはう」を用いて戦いました。
これは火薬を用いた武器で、大きな爆発音で馬が怯えて使い物にならず、多くの御家人衆が全滅に近い被害を出しています。

多くの犠牲を出し民衆の多くが捕虜となりましたが、翌朝になると何故か元軍が撤退し船が姿を消したかのようになりました。

元史」や「高麗史」によると、将校が負傷し兵士も疲弊し、矢も尽きた事から、撤退を会議で決めたと記されています。

こうして、文永の役では元は撤退したものの日本軍の甚大な被害という結果に終わりました。

文永の役での元・高麗軍の被害と日本の被害

文永の役での元・高麗の被害は、13,500人以上でした。
この数字の中には、撤退中に船の座礁により捕らわれ斬首された数字も入っています。

日本の被害は、対馬80騎、壱岐100名、肥前数百人ですが、実際には民衆の被害がありますので、千単位の人的被害が推測されます。
被害者の中には、元や高麗の兵の食料となった者もいます

弘安の役|戦いの経緯

文永の役では、実質的に日本の惨敗でした。
北条時宗は、博多湾の海岸に20kmの長さの元寇防塁という石築地を築きました。

同時に、鎌倉幕府は高麗に攻め入る計画を立てています。しかしこの計画は費用面などの問題があり実行されませんでした。

クビライからは、文永の役後使節団がやってきます。
北条時宗は、使節団を捕らえ斬首します。これは、使節団がスパイとして日本の現状を偵察していたことがあり、その情報が洩れれることをおそれたための処置でした。

クビライは1275年に、東路軍約5万人、江南軍10万人の合計15万人軍船4千4百艘を日本に送りました。

対馬に上陸しましたが待ち構えていた日本の激しい抵抗に遭い、郎将の康彦、康師子が戦死するなど大きな被害を出しています。

更に壱岐では、暴風雨によって多くの行方不明者を出しました。

博多湾に侵攻し、いざ上陸というところで、前回無かった防塁が延々と伸びて、行く手を阻んでいます。

ここでは防塁が効果を発揮し、日本軍は防塁を超えて元の兵士に襲い掛かりました。

戦いは、志賀島に移り、元軍は志賀島を占拠します。
そこに御家人達が夜襲を仕掛け、元軍兵士の体力を削っていきました。

戦況は日本軍が押してきている状況で、元軍船内では疫病が蔓延します。

士気も低下しており、厭戦ムードが漂い始めます。

元の東路軍は壱岐に到達し攻撃を始めますが、待ち構えていたのが島津長久比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄舩原三郎を始めとした日本軍でした。
日本軍は東路軍を退けますが、少弐資能少弐資時が戦死するなど、被害も甚大でした。

壱岐を去った東路軍は江南軍と合流し、鷹島に向かいます。

そして、鷹島沖に駐留している時に台風が元の船を襲いました。

日本軍の襲撃を恐れた元の船は密集して停泊しており、これが返って船同士を激しくぶつけて大損害を与えました。

残った船で航行できるものは撤退しました。

しかし取り残されたものも多く、モンゴル兵や高麗兵、漢人兵は処刑されました。

交流のあった南宋人については、処刑せず奴隷としています。

元は、この敗北で海軍力が大幅に低下し、後の滅亡に拍車を掛けました。

弘安の役での元・高麗軍の被害と日本の被害

弘安の役での元の被害は、約12万人が戦死または溺死し、4400艘あった船の半分が亡くなっています。
一方日本の被害は、詳しい記録が無く不明ですが、有力御家人の小弐資能、小弐資時、龍造寺孝時などが戦死しています。

元寇の「その後」|元寇が鎌倉幕府の寿命を縮めた?

元寇で戦った御家人達には、わずかな恩賞しか与えられませんでした
理由としては、これまで戦ってきた敵の領地などを恩賞として分け与えていましたが、今回はその分け与えられるものが無かったからです。

元寇の後、戦いの為に借金をしてまで参戦した御家人たちは生活に困窮することになります。
あるものは浪人となり、瀬戸内海の海賊となり、またあるものは倭寇となりました。

御家人たちの不満が顕著となり、結果として鎌倉幕府の寿命を縮めたと言われています。

モンゴルの武器と日本の武器の比較

武器名 日本
短い矢で、連射可能。毒を使うことがある 長い矢で、元の矢よりは威力がある。連射は不得意。弘安の役では射程距離が改良され長くなる。
高麗船と南宋船。多数の兵を乗せるため大型の船となる。 小舟で小回りが利く。ゲリラ戦に向く。
短刀を使用。 太刀を使用。
鎧は軽い。布製や皮鎧。装備は基本軽装備。 重い鎧と兜を着用。装備は刀・弓の重装備。
その他 てつはうー火薬を使い手りゅう弾のように使う。

長槍。火箭。石弓。

病死した牛馬の死骸(船に放り込む。細菌兵器として使用)

元寇で活躍した武士

北条時宗

北条時宗は、鎌倉幕府8代執権です。
元寇の前に執権に就任したばかりで、この時18歳でした。

北条時宗の最大の過ちは、クビライの国書に返事をしなかったことでした。

クビライの国書は上から目線の内容でしたが、形式としてはとても丁寧なものでした。聖徳太子が隋の煬帝に送った親書のように対等な立場での返書を行えば、これほど双方が多大な犠牲を出すことも無かったでしょう。

ただし、全面戦争を決意した時の決断力と、全国の武士団をまとめた行動力は高く評価されています。

結果的には、モンゴル帝国の征服の野望を阻止し、日本を守った英雄です

少弐景資

少弐景資は、少弐家の4代当主です。

元寇の際は、「日の大将軍」として九州御家人を指揮しモンゴル軍と戦いました。

文永の役では、元・高麗連合軍の博多湾上陸での戦闘で、敵の副司令官を矢で討ったと言われています。

また、弘安の役にも参戦しました。

元寇後は、兄の経資と家督争いが起こり、霜月騒動の時に安達泰盛側に味方し、経資に討ち取られました。

竹崎季長

御家人の中で、最も有名なのは竹崎季長です。

彼を有名にしたのは、「蒙古襲来絵巻」で、皆さんは歴史の教科書の絵で一度は目にしている馬に乗った武士がその人です。

李長は、文永の役で一早く大宰府に到着しており戦っていますが、何かの手違いで恩賞は得られず、この時は鎌倉まで行き交渉を行い肥後国海東郷の地頭に任ぜられました。

弘安の役でも活躍し、敵の船に乗り込み敵を討ち取る戦功を挙げ、多くの恩賞を得ました。
この恩賞を元に、李長自身の戦功を後世に伝えるため「蒙古襲来絵巻」を自費で作成し、今に伝えられています。