永仁の徳政令とは、鎌倉時代末期に行われた経済政策の一つです。日本で初めて制定された徳政令とされています。

徳政」とは、元々は「善良な政治」という意味。言葉の通り、困窮する御家人の救済措置として出されたのが永仁の徳政令でした。

この記事では永仁の徳政令とはどんな法令だったのか、発布の目的やその効果について解説します。

永仁の徳政令とは


永仁の徳政令は、1297年に執権・北条貞時によって出されました。永仁の徳政令は「徳政令」として発布された法令の中では、日本で最も古い法令です

当時困窮していた御家人は、所領を質入れし借金をして生活をしていました。しかし、借金の返済ができずにそのまま領地を奪われてしまう人が続出。この状況に危機感を覚えた幕府は、御家人救済のため永仁の徳政令を出しました。

徳政令とは簡単に言うと、借金を帳消しにできる法令です。永仁の徳政令では御家人が借金を返済できていなくても、質入れしていた所領は元の持ち主に返すよう定められました。御家人にとってはありがたいですが、金を貸していた業者にとっては大きな痛手です。

鎌倉幕府が出した徳政令はその後の時代にも大きな影響を及ぼし、室町時代や戦国時代にも出されています。室町時代には徳政令を求めて民衆が一揆を起こすこともありました。

永仁の徳政令の条文

永仁の徳政令の条文は『東寺百合文書』という史料に残されています。主な内容は以下の通りです。

(1)御家人は所有する土地の売買、質入れをしてはいけない
(2)非御家人、凡下(農民、商人など武士以外の庶民)が買主の所領は、年数関係なく所有者に返すこと。
(3)買主が御家人の場合領有後20年を経過した土地は、返却せずにそのまま領有すること(購入して20年以内の場合は元の持ち主に返却する)。
(4)債権・債務に関する訴訟を受理しない。
(5)越訴(再審を求めること)制の廃止

永仁の徳政令が出された背景


この項目では、永仁の徳政令が出された際の社会的背景について解説します。
海外勢力からの侵攻、貨幣経済の発展、幕府の弱体化など、さまざまな社会情勢が重なり合ったことで、永仁の徳政令は打ち出されました。

元寇による御家人の困窮

当時の御家人は元寇のせいで多額の戦費がかかってしまい、財政難に陥ってしまいます
従来は争乱に参陣した御家人への恩賞は奪った所領を分配し与えていました。しかし今回の相手は海外だったため所領を奪えず、御家人に与える恩賞が不足してしまったのです。

さらに、元の再来襲に備え異国警固番役が強化されたことで、九州の御家人だけでなく東国や西国の御家人も九州での軍役を課されるようになります。ますます御家人は貧困状態になりました。

こうして困窮した御家人達は、自分の所有する土地を売ったり貸付することで財源を確保するほかありませんでした。

経済が発展し「金融業者」が現れた

鎌倉時代末期になると経済にも大きな変化が起こりました。日宋貿易がさかんに行われたことで宋銭が大量に輸入され、日本にも貨幣経済が浸透したのです。

貨幣経済が発展したことで貨幣の需要が上がり、土倉や酒屋、問丸といった金貸し業者が現れました。税収も下がり年貢での生活が苦しくなっていた御家人は、土地を担保に借金をして生活をするようになります。そのまま土地を取り上げられるケースが増えてしまったため、幕府は手を打つ必要がありました。

余談ですが、幕府は御家人から土地を取り上げる金貸しを「悪党」と呼びました。幕府が御家人に与えていたものを横から奪い取る様が山賊と変わらないということでこの名が付けられたようです。

真の目的は失った幕府の所領を取り戻すため

現在は永仁の徳政令は御家人救済が目的ではなく、幕府の体制を維持するために出されたものだと考えられています。御家人以外の元に所領が渡ってしまい、最も困っていたのは幕府だからです。

古くから幕府と御家人は「御恩」と「奉公」の関係(封建制度)でつながっていました。しかし、御家人が土地を失ってしまうと従来の封建制度が形骸化してしまい、鎌倉幕府の基盤が揺らぐ危険性があります。

これ以上の所領の分散を防ぐため、(1)御家人は所有する土地の売買、仕入れをしてはいけないという条文を立てました。御家人たちが無償で所領を取り戻すことができるという内容は、あくまで(1)を遂行するための前提を整えただけに過ぎなかったのです。

永仁の徳政令の効果


永仁の徳政令を出した効果は一時的なもので、すぐに発布前の状況に戻ってしまいました。

徳政令によって所領を奪われた土倉達は、また徳政令を出されると困るため御家人相手に貸付をしなくなってしまいます。すると御家人達は「徳政令の適用外である」という証文を入れて契約をするようになりました。徳政令の存在意義はなくなったのです。

そもそも幕府は御家人が困窮している理由を見誤っていました。幕府は御家人の財政難は元寇での出費によるものだと考えていたため、一時的な措置によって回復すると見込んでいたようです。しかし実際の原因は所領の分割相続(子供らに均等に遺領を相続すること)による税収の減少でした。

さらに貨幣経済の発展が輪をかけます。借金の返済は貨幣によって行われることが増えていたため、土倉を頼る御家人は減りませんでした。

当時の情勢を読み取れず、所領の奪還にこだわってしまったことが幕府の敗因だといえるでしょう。

永仁の徳政令を出した9代執権・北条貞時とは


永仁の徳政令が出た頃鎌倉幕府を取り仕切っていたのは9代執権・北条貞時です。

父の北条時宗は元寇の戦後処理や御家人の困窮への対応をしている最中に亡くなってしまいました。貞時は父が亡くなってわずか4ヶ月ほどで家督を継ぎ、9代執権に就任しています。

執権に就いた時の貞時はわずか12歳。政治を主導する力はありません。そこで貞時を支えたのは外祖父だった有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)でした。

泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革を進めます。泰盛は「新式目」を制定し、約100条近い新たな項目を制定しました。この項目の中には永仁の徳政令の元になった法令もありました。

急進的な改革に反発が起き、泰盛は対立勢力に滅ぼされてしまいますが、成長した北条貞時が弘安徳政を引き継ぎ部分的に進められました。