織田信長が天下統一を果たすまでに数多くの戦いがありましたが、中でも伊勢長島であった「長島一向一揆」は織田信長の天下統一までの道のりにおいて語り継がれるべき戦いの1つです。

今回は長島一向一揆を中心に、長島一向一揆の説明や第三次まであった長島一向一揆のエピソード、影響などを詳しく解説します。

長島一向一揆自体は数年程度で終結した戦いですが、織田信長が大苦戦した戦いでもあります。そして、織田信長が戦に対する執念を見せた戦いとしても知られており、注目すべき戦です。

大河ドラマで触れるには色々とセンシティブな部分もある、長島一向一揆について、紹介していきます。

長島一向一揆とは?

歴史が大好きな人の中でも、長島一向一揆をご存じない方も多いのではないでしょうか。まずは長島一向一揆とはどういう戦いだったのかをご紹介します。

最初に紹介する内容は以下の通りです。

  • 長島一向一揆はいつ行われた?
  • 長島一向一揆が始まった経緯

長島一向一揆がいつからいつまで行われ、どのような経緯で始まったのかを解説します。

長島一向一揆はいつ行われた?

長島一向一揆は伊勢長島エリアを中心に本願寺門徒たちが起こした一向一揆であり、1570年に勃発しました。

伊勢長島エリアでは、1501年に浄土真宗本願寺派の蓮如の息子である蓮淳が住職を務める願証寺が創建し、長島周辺は本願寺門徒が集まる状況でした。

その後、織田信長は3回にわたる長島への侵攻を重ねて、1574年に長島一向一揆は幕を閉じます。

わずか4年で幕を閉じたものの、織田信長にとっては天下統一前に最も苦戦したといっていい戦いとなりました。

長島一向一揆が始まった経緯

元々長島一帯は本願寺門徒が多く住み、武装化こそ進めていたものの、織田信長を始めとする武将と敵対していたわけではありませんでした。

1567年、織田信長に敗れ、美濃から逃げ出てきた斎藤龍興が長島へ逃げ込み、織田信長は一時的に長島を攻撃しますが、本願寺派との対立にはつながっていません。

むしろ、当時の本願寺派の宗主・顕如は信長に書状を送るなど、関係性は悪くなかったと言えます。

しかし、1570年に本願寺派は石山合戦を仕掛け、織田軍と本願寺派での戦争状態に突入すると、伊勢長島一帯の武将たちが織田家を裏切り、一揆が勃発しました。

当時織田家が統治していた伊勢長島はあっさりと攻め落とされてしまい、長島一向一揆は織田信長の劣勢からスタートすることになります。

第一次長島一向一揆|織田信長が門徒たちに大苦戦

1571年織田信長は5万の兵を連れて伊勢長島に出陣し、柴田勝家などを投入します。しかし、複数から攻めても各所に砦があったため、攻め切れません。

仕方なく織田軍は砦の近くで放火、退却をするものの、この時を待ってたと言わんばかりに本願寺門徒たちは退却する織田軍を狙い撃ちにします。

結果として、柴田勝家などは負傷、殿を務めた氏家直元が討ち死にしてしまったのです。

本願寺門徒たちは弓や鉄砲を活用して効果的に攻撃し、作戦を立てていたことに織田信長は衝撃を受けます。こうして織田信長は大苦戦を強いられ、完敗を喫しました。

第二次長島一向一揆|辛抱たまらず仕掛けるも失敗に終わる

伊勢長島は水路が豊富だったため、本願寺門徒たちは水路をうまく活用して物資の補給を行っており、織田信長は水路から補給ルートを絶つことを決断します。

織田信長の次男で、当時北畠家の養嗣子となっていた織田信雄に船の調達を依頼したものの、交渉がうまくいきません。別のルートからも促しても事態が進まず、辛抱たまらず1573年に第二次長島一向一揆が起こります。

8万の兵を率いて柴田勝家や羽柴秀吉などを引き連れていき、今度は数々の城を降伏させ、順調に進んだかにみえました。ところが、相変わらず船は来ず、メインである長島への攻撃は諦めざるを得なかったのです。

ある程度の成果を得て、退却する道すがら、再び本願寺の門徒たちは奇襲をしかけ、織田信長が命からがら大垣城まで戻ることになりました。

頼りにしていた水路が活用できず結果的に詰めの甘さが出た形となり、2度目も失敗に終わったのです。

第三次長島一向一揆|織田信長の執念と狂気が発揮される

第三次長島一向一揆は、失敗に終わった第二次長島一向一揆の翌年にありました。この間、織田信長が警戒していた武田信玄がこの世を去り、甲斐への警戒が緩められ、長島へのさらなる兵力投入が可能となりました。

また、前年に船を出せなかった件を追求し、相手方に協力した船主たちを成敗するよう命じ、実際に相手方に協力した船主が処刑される出来事がありました。

長島一向一揆以外では比叡山焼き討ちや一乗谷城の戦い、小谷城の戦いなど勝利した戦があり、長島一向一揆が当面の課題でした。

比叡山焼き討ちした織田信長の狂気、絶対に戦を制するという執念が、第三次長島一向一揆につながっていきます。

織田軍総動員でようやく一揆を鎮圧

およそ10万程の本願寺派の勢力に対し、織田軍は水陸合わせて12万の兵力で挑み、明智光秀や羽柴秀吉を除くほぼすべての織田軍家臣が総動員されました。

今度は水陸から攻めることができ、その包囲網は隙間を見つけるのも大変なほどでした。織田軍総動員で総攻撃をかけたのち、いくつかの砦のみが残る状態となりました。

逃げ場がなくなった本願寺派は長島城に集結するものの兵糧攻めに遭い、多くの餓死者が出てしまいました。

降伏してきた門徒たちに対しても織田信長は許そうとせず、鉄砲で銃撃するなど完膚なきまでに叩き潰そうとします。こうして長島城は陥落し、長島一向一揆は幕を下ろしたのです。

門徒たちの必死の抵抗で織田軍にも多くの犠牲が

第一次・第二次と織田軍には戦死した武将が多くおり、圧勝したはずの第三次においても多くの戦死者を出しています。

特に織田信長が降伏してきた門徒たちを銃撃して射殺した際には、激怒した一揆衆たちが織田軍に強襲する事態を招きました。降伏を認めたと相手に思わせて射殺する振る舞いに対する怒りでした。

その結果、織田家の一族の多くが戦死する事態となり、織田信長は身内の多くを失ったことに猛烈な怒りを見せ、多くの柵を築き、その中に火を点けました。

逃げ出せない2万以上の人々は脱出できずにそのまま命を落としてしまいます。双方の怒りがぶつかり合った結果、凄惨な終わり方になってしまったのです。

長島一向一揆による影響

長島一向一揆は加賀一向一揆に匹敵するほどの凄惨な終わり方を見せた戦いの1つです。

最後に長島一向一揆による影響についてまとめました。

織田軍と本願寺派の戦いが本格化

1570年に始まった石山合戦から織田軍と本願寺派の戦いは本格化し、加賀一向一揆や長島一向一揆にも波及していきました。

当初一向一揆は複数の場所で同時に起きたため、織田信長は対応に苦慮しますが、一向一揆を1つ1つ潰す対応に出ます。最初に潰すことに成功したのが長島一向一揆だったのです。

その後にあった長篠の戦いで武田勝頼を破ると、本願寺派は一旦織田軍と和睦を結んだものの、本願寺派との戦闘状態が続いていきます。

その間も織田軍は勢力を拡大させ、力をつけていき、本願寺派の勢力を力でねじ伏せる機会が増え、1580年ついに本願寺派が全面降伏のような形で講和が結ばれたのです。

長島を治める領主の座が100年以上安定せず

長島一向一揆後、長島城は一旦滝川一益が統治しますが、織田信長が亡くなり、権力争いが激化したことで織田信長や羽柴秀次など複数の武将が代わる代わる統治する事態に至ります。

その後は長島藩の立ち上げ、廃藩、再度の立ち上げ、藩主の乱心による重臣の殺害など紆余曲折がありました。そして、1702年に増山正弥が長島藩の藩主となります。

増山家が統治するようになってから、廃藩置県がある1871年まで増山家が長島藩を代々守り続けることになります。長島一向一揆から増山家が統治するに至るまでの100年以上、不安定な状況が続いたと言えるでしょう。