戦国時代にはさまざまな戦いがありましたが、その中でも加賀藩であった「加賀一向一揆」は戦国時代を語る上で避けては通れない戦いの1つです。
今回は、加賀一向一揆の詳細やエピソード、後世に与えた影響などを含めて詳しく解説します。
加賀一向一揆は実に100年にも及ぶ話であり、武士たちが本気を出したことで終結した戦いでもあります。世間一般ではあまり知られていない事実などもあり、戦国時代を知る上でぜひとも知っておきたいところです。
大河ドラマにおいてもそこまで触れられることがない、加賀一向一揆について、紹介していきます。
加賀一向一揆とは?
加賀一向一揆とはどういう戦いなのか、以下の内容についてまとめています。
- 加賀一向一揆はいつ行われた?
- 加賀一向一揆が始まった経緯
そもそも加賀一向一揆はいつからいつまで行われたのか、なぜ加賀一向一揆が勃発したのか、それぞれの経緯をまとめました。
加賀一向一揆はいつ行われた?
加賀一向一揆は室町時代末期の1488年から1580年、およそ100年ほど続いた一揆です。
そもそも一向一揆とは、本願寺門徒、通称「一向宗徒」が起こした一揆を指しており、加賀一向一揆以外には長島一向一揆や三河一向一揆などがあります。
初の一向一揆は近江で1466年に行われ、1480年には越中一向一揆が起こるなど、加賀周辺では一向一揆が起き始めている状況でした。
加賀一向一揆が始まった経緯
きっかけは加賀一向一揆が始まる10数年程前にありました。浄土真宗本願寺派の蓮如が、応仁の乱をきっかけに兄弟で戦うハメになった加賀国守護大名富樫政親に頼まれて、政親の弟・幸千代を追い出したことから始まったのです。
この時、富樫政親は本願寺門徒のパワーの大きさを痛感し、力を削ごうと本願寺門徒の弾圧を決断しました。蓮如は守護大名である政親の保護を受けられると期待して言いなりになったものの、見事に裏切られてしまいます。
本願寺門徒たちは越中に逃れますが、その越中でも政親と手が結ばれており、越中でも弾圧の対象となりました。ついに本願寺門徒たちは怒りだし、越中で一向一揆が起こったのです。
越中での一向一揆は成功し、本願寺門徒たちは越中で勢力を拡大し、その影響は加賀にももたらされます。そして、1488年に加賀一向一揆が勃発し、政親は息子たちと共に自害したのです。
加賀一向一揆の詳細
加賀一向一揆の経緯を解説しましたが、以下の内容について詳しくまとめました。
- 100年もの間 門徒が加賀を支配
- 加賀一向一揆の成功が浄土真宗の広まりにつながる
- 加賀周辺の有名武将と相次いで対立
加賀一向一揆を語る上で避けては通れない内容について詳細を解説します。
100年もの間 門徒が加賀を支配
加賀一向一揆は1488年に守護大名富樫政親を自害に追い込むと、蓮如の息子3人が統治を任されるようになります。これに伴い、本願寺の加賀支配がはじまったのです。
一方で100年もの間、盤石だったわけではありません。周辺国は加賀一向一揆を抑圧し、本願寺門徒たちは反発しますが、戦いに敗れてしまった時期もありました。
しかし、1546年に今の金沢城がある場所に尾山御坊が建設されると、そこを拠点に一向一揆の勢力が北陸に拡大されていきます。
尾山御坊は大坂城の前にあった石山本願寺と同じくらい堅牢な要塞とされ、加賀一向一揆が終わるまで本願寺門徒たちの砦として君臨し続けたのです。
加賀一向一揆の成功が浄土真宗の広まりにつながる
浄土真宗は加賀一向一揆の成功によって広まっていったと言われています。これは蓮如が民衆に対して平等に浄土真宗の開祖・親鸞の教えを広め、各地で組織が形成されたことが背景にあります。
不満を持つ人々が各地で浄土真宗に改宗し、一向一揆の勢力が拡大されていきました。多くの門徒が組織を築き上げ、各地で一向一揆がおきたことで、浄土真宗は大きな広まりを見せていきます。
現在浄土真宗の信者数は1,000万人以上と日本国内で最も大きい仏教宗派として有名です。元々大衆向けの宗教として受け入れられていた浄土真宗が、加賀一向一揆の成功でシステムが強化されていった結果と言っても過言ではありません。
加賀周辺の有名武将と相次いで対立
一方で武将たちからすれば、加賀一向一揆を始め、各地での一向一揆の広まりは気持ちのいいものではありません。そのため、1500年代初頭から朝倉家や長尾家は一向一揆と対峙します。
越後では長尾家が一向一揆と対峙し、一向宗の禁止令が出されるに至ります。この禁止令は長尾家で引き継がれ、最終的に上杉謙信まで引き継がれています。
そして、加賀一向一揆の晩年には織田信長とも対立することになります。織田信長は長島一向一揆を始め、一向宗との死闘で多大な犠牲を経験し、多くの家臣を失った恨みがありました。
万難を排してでも一向一揆を叩き潰さなければならないという強い信念もあり、次第に加賀一向一揆の雲行きは怪しいものへとなっていくのです。
加賀一向一揆の結末は?
およそ100年ほど続いた加賀一向一揆でしたが、いよいよ終わりの時を迎えます。その終わりは加賀一向一揆を支えてきた人たちにとってとても悲劇的なものだったと言えるでしょう。
本項目では、加賀一向一揆の結末について詳しく解説します。
織田信長の手によって滅ぼされる
上杉謙信を始め、加賀一向一揆に敵対する勢力がこぞって戦いを挑み始めたことで、さすがの本願寺門徒たちも勢いが衰え始めます。
その間、織田信長は天下統一の総仕上げと言わんばかりに比叡山焼き討ちなどを敢行し、1580年には本願寺の本丸である石山本願寺を降伏させました。その勢いで、尾山御坊も陥落させます。
それでも最後の抵抗を見せた本願寺門徒たちですが、現在の石川県白山市にある鳥越城で最後の戦いを挑み、織田信長の軍勢によって鎮圧されました。
1488年から続いた加賀一向一揆は1582年に終結したのです。
残った門徒300余人は張り付けに
1580年には柴田勝家の軍勢によって落城されましたが、周辺に住む門徒たちは以前抵抗を続けており、一時鳥越城を奪還するなど攻防戦が繰り広げられていました。
当時の佐久間盛政は織田信長に認められようと必死に加賀一向一揆の対応にあたり、騙し討ちなどできる限りのことを行い、ついに本願寺門徒たちの討伐に成功します。
この時、鳥越城に残された門徒たちは300余人いるとされていますが、例外なく張り付けにされています。1人残らず根絶やしにするという織田信長の方針もあったのか、時に釜茹でにするなど、比叡山焼き討ちの比ではない凄惨さが見られました。
加賀一向一揆が武将たちに与えた影響
加賀一向一揆によって、北陸の諸国は「百姓の持ちたる国」と称されるに至りました。
この加賀一向一揆が武将たちにどのような影響を与えたのかご紹介します。
各武将たちが宗教に対して露骨な警戒心を持つ
宗教のつながりによって、織田信長を始め、多くの武将たちが大苦戦を強いられたことで、武将たちは宗教に対する露骨な警戒心を持つようになります。
例えば、豊臣秀吉は当初キリスト教の布教に対して寛容とされていましたが、宗教を通じて諸外国が日本を侵略しようとする意図を感じたため、バテレン追放令を打ち出し前もって手を打ったと言われています。
また、徳川家康も一向一揆に手を焼いたため、自らの領内で一向宗の布教を禁止していました。のちに本願寺の本流から外れた教如に土地を与え、本願寺の別派を作らせます。通称東本願寺、現在の真宗大谷派です。
本願寺を2つに分裂させた徳川家康の戦略は、結果として本願寺門徒たちの勢力を削ぐことにつながったのです。
加賀一向一揆後は前田利家が加賀百万石に導く
加賀一向一揆が行われた後、佐久間盛政が加賀金沢城初代城主となり、加賀の統治を始めます。ところが、豊臣秀吉と敵対していた柴田勝家側につき、加賀一向一揆終結の翌年には討ち死にします。
その後を引き継いだのが前田利家でした。加賀と越中を与えられると勢力を拡大させていき、ついには加賀百万石を形成するに至ります。
前田利家もまた一向一揆に苦しめられた武将の1人で、越前一向一揆では前田利家が門徒たちを張り付け、釜茹でに処したという記録が残されています。
加賀藩は前田利家から慶寧まで13代にわたって、戦国時代から江戸時代まで前田家が守り続けました。
加賀一向一揆の最期は凄惨を極めましたが、その後の加賀は大きな混乱もなかったと言えるでしょう。