はが千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した茶人のひとりで、無駄な工程なくお茶をたてる方法を追求して完成させた偉人としても名を残しています。
千利休が確立したお茶の流派は現代にもつながるくらい素晴らしいものですが、その最期は切腹という悲しいエピソードがあります。しかも、その切腹を命じたのが千利休が仕えていた豊臣秀吉ということもあり、なぜそのようになったのか気になる方も多いようです。
今回の記事では、千利休の死因や、なぜ切腹することになったのか、最期につながるまでのエピソードや武将たちとの関係性について詳しく解説していきたいと思います。
千利休の死因
千利休の死因ですが、切腹=権力による処刑です。当時千利休が仕えていた豊臣秀吉から切腹を命じられて、その命にしたがって千利休は自ら命を絶ったのが最期といわれています。
なぜ千利休が切腹を命じられなければならなかったのか、その確たる理由は現代でも分かっていません。というのも、豊臣秀吉の発言にはなぜそんなことを言ったのか分からないという内容のものが多く、切腹を命じた真意がはっきりしないからです。
千利休が権力を持つことになった経緯や背景から、なぜ秀吉との確執が生まれたのか、なぜ切腹しなければいけなかったのかについて考察しまとめたものをご紹介していきます。
千利休の最期
現代にもつながる茶道を確立した千利休ですが、切腹によって自ら命を絶たなければいけないという悲しい最期でした。
本当に切腹を回避することはできなかったのか、謝罪することを断ってまで千利休が切腹を選んだ理由は何だったのか、詳しく解説していきます。
なぜ切腹する前に回避することができなかったのか
千利休は、23歳の頃に初めてのお茶会を成功させたあと、織田信長に目を付けられて内政へ深く関わりを持つようになりました。その流れは信長の死後、秀吉に天下が移ってからも続いており、最初は関係がうまくいっています。
ですが、茶道を相手をもてなすたしなみの美学だと考えている千利休と、政治の道具として考えている秀吉には大きな考え方の違いがあり、この違いが生んだ確執はすでに埋めることができないものになっていったのだと思います。
そもそも秀吉は、自分は力があって何でもできると考えるような性格であったため、戦わずして回りに人を集めたり、周りから尊敬されたりして権力を付けている千利休の存在が気に食わなかったのかもしれません。
本当か嘘かもわからない噂話が流れて秀吉の怒りはヒートアップしていき、千利休との関係をうまく取り持ってくれていた弟秀長が亡くなったことで、秀吉に上申できる者はいなくなって切腹する流れになってしまったのではないでしょうか。
2人が考え方の違いを認め合っていたり、誰か秀吉を止める人間がいたりすれば結果は変わっていたのかもしれませんが、結局千利休は1591年(天正19年)の2月28日に亡くなってしまいます。
切腹前に利休が詠んだ辞世の句
「利休めはとかく果報のものぞかし 管丞相になるとおもへば」という辞世の句を千利休は切腹する前に残しました。
管丞相のように濡れ衣を着せられて死んでしまうことになるけれど、秀吉のもとにいたから茶道の道をここまで極めることができたという意味ではないかととらえられています。
信長や秀吉に茶道を政治の道具として使われはしましたが、天下人の下で権力を持つことができたからこそ学ぶことも多くあったという皮肉な意味を持つ句になっていますが、強い者の下で権力を持てばいずれはこういう日が来てしまうかもしれないということを、千利休はもしかしたらわかっていたのかもしれません。
謝罪したら許すといわれても切腹を選んだ利休
1591年(天正19年)の2月28日、千利休の切腹の検死役として3人の武人が千利休の自宅をおとずれた際に、秀吉からの伝言として「謝ったら許す」と伝えたと言います。
ですが、千利休は「自分が謝る理由はない」と一言つげて終始おだやかに切腹したといいます。また、検死役として訪れた3人には最後にお茶をふるまったようで、死ぬ間際まで茶道を大切にしていたことがうかがえます。
本来切腹は武人のみに命じられるもので、よっぽどの理由がない限り茶人である千利休には切腹を命じられる理由もなかったと思いますが、その命にあらがわず謝ることもせず、最期はおだやかに亡くなっていったようです。
千利休が命よりも大切にしたかったものとは
千利休が切腹を命じられた理由は今は誰にも知ることができませんが、切腹にいたるまでのエピソードを書いていると、本当に切腹を事前に回避することはできなかったのか?なぜ謝罪しなかったのか?という疑問も残ります。
千利休は武人ではなく茶道を極めた茶人であり、そもそも秀吉とは大切にしたいものが違ったとは思いますが、千利休が一番大切にしたかったものはお茶を愛する気持ちだったのではないでしょうか。
後述する茶道の席での毒殺を拒否したエピソードもありますが、千利休はお茶の席を政治として利用するのではなく大切な出会いの場所としてとらえていたのかもしれません。その気持ちを踏みにじられるくらいなら謝罪せず切腹を選んだのかもしれないと筆者は感じました。
千利休の最期につながるエピソード
茶の湯を通して豊臣家に関わった利休
千利休は元々商人の家に生まれましたが、17歳のときに家督を継ぐために勉強し始めた茶道に魅了され、家督を継ぐことはやめてお茶の道に進んでいきます。その後、23歳で初めてのお茶会を成功させた千利休にまず目を付けたのが織田信長でした。
信長は、商業地である堺(現在の大阪府堺市)をどうしても管轄にしたかったため、茶道を内政に利用するために千利休を茶の湯をつかさどる役職として迎え入れます。千利休は信長に信頼されて権力を持つようになりますが、その後に本能寺の変が起こり信長は亡くなってしまいます。
信長のあとに天下を取ったのが豊臣秀吉で、秀吉もまた茶道を内政に利用するために千利休を側に置き信頼するようになります。
この頃には千利休は茶室の設計なども任されており、かなりの権力を持っていました。利休の名を名乗り、茶道はただの嗜みではなく政治の道具のひとつとして強い影響を持つようになり、諸国の権力者たちも千利休に弟子入りして茶道を学ぶことも増えていました。
こうして千利休のもとには諸国の大名や権力者が集まり、色んな情報も彼のもとに入ってくるようになったといわれています。茶道を通して、千利休は豊臣家と深くかかわっていました。
徳川家康の暗殺計画を拒否した説
この計画自体本当にあったものなのかどうかはっきりしませんが、当時秀吉にとって一番脅威となっていたのが徳川家康の存在でした。家康を消すために秀吉と石田三成が考えたのが、お茶の席での毒殺です。
ですが、千利休にとってお茶は政治の道具ではなく、一期一会を大切にして訪問者をもてなす大切な席のため、この申し出を断ったとされています。
千利休に申し出を断られたことで、秀吉と三成は秘密を共有する存在を側に置いておくことになってしまったため、毒殺による暗殺計画をなかったことにするために切腹を命じたのではないかという説も浮上しています。
豊臣秀吉の弟秀長の死
千利休が茶道に芸術性を求めていたのに対し、秀吉は茶道を政治をうまく進めるための道具としか思っていなかったことが2人の間に確執を生み、どんどん意見が合わなくなっていったとき、2人の間をうまく取り持ってくれていたのが秀吉の弟秀長でした。
1591年(天正19年)に秀長が病死してしまったため、2人の間を取り持つ人間がいなくなって関係は徐々に悪化していくことになります。
前述したように、秀吉が千利休に切腹を命じた確たる理由は分かっていませんが、結局は自分と違う考えで権力を持っている千利休が邪魔な存在になり、切腹を止める人間もいなくなったため千利休は亡くなってしまったのではないかとされる説も有力です。
石田三成が関わった大徳寺山門事件
千利休は、切腹を命じられる前に堺の自宅で過ごすよう命じられますが、そのきっかけとなったのが石田三成が関わる大徳寺山門事件です。多くの僧侶を輩出している大徳寺は茶の湯の世界と深い関わりがありました。
また、秀吉は信長の死後に大徳寺で葬儀をおこない、寺院の中に信長の菩提寺として塔頭・総見院を建てて自分が天下人の後継者となったことを世間にアピールしました。大徳寺は、千利休にとっても秀吉にとっても関わりの深い寺でした。
1589年(天正17年)に千利休の援助によって大徳寺の正門が立派な門に生まれ変わり、その感謝をあらわすために千利休の木像が作られました。これを邪魔と思った石田三成が、千利休の木像は不敬であると触れ回ったのが、秀吉の怒りに火をつけたのではないかといわれています。
千利休の死後に起こった出来事
最後に、千利休の死後に起こった出来事について少し紹介したいと思います。千利休が残した茶道は現代にもつながっていますが、彼を死に追いやった豊臣家はこのあと滅亡していくことになります。
豊臣家の滅亡
秀吉は、千利休の死後も天下を握りながらさまざまな政策をおこないますが、中々後継者に恵まれずに晩年を過ごしました。やっと後継者が生まれたときにはもう秀吉の命は残り短く、幼い息子を残して旅立つことになります。
秀吉の死後は、すぐに関ヶ原の戦いが開戦し、そこからは徳川家康が優勢になっていきました。この戦いの後に家康は征夷大将軍となり天下を取ります。
一度は収束した戦いでしたが、その後に起こった大坂の陣で豊臣家は滅亡することになります。