本多忠勝は、徳川家康に仕えた最強の武将といわれており、数多の戦いの中で傷一つ付けられることなく勝利してきたエピソードから、徳川の四天王のひとりとして語り継がれています。

そんな最強の武将ですが、最期はどのようにして亡くなったのでしょうか。戦時中に亡くなったわけではありませんが、真実ははっきりしていません。

ですが、おそらく病死なのではないかとされる所以やエピソードについては残っていますので、今回は本多忠勝の死因や最期につながるエピソードなどについて詳しく解説していきたいと思います。

本多忠勝の死因

本多忠勝の死因ですが、結論から言うと「病死」とされています。

忠勝は戦死でなくなったわけではありません。そもそも忠勝は、戦国時代の数多の戦いの中でも傷ひとつ負うことなく勝利してきたという伝説も語られるほど強い武将として有名でした。

享年62歳で亡くなっていますが、亡くなる前に眼病を患って隠居していたという話も残っており、はっきりとした死因が判明しているわけではありませんが、病死なのではないかという説が現在は有力となっています。

とはいえ、実際は暗殺された可能性や病死以外が原因で亡くなった可能性もあるようで、謎に包まれた部分も多くあります。

本多忠勝の最期

本多忠勝の最期ですが、隠居生活からわずか1年後の1610年に62歳で亡くなったとされています。前述した通り、その死因は病死とされる説が有力ですが、そういわれるようになった所以やエピソードがあります。

この項では、忠勝の最期につながるエピソードや死に際に遺した遺書や辞世の句を詳しくご紹介していきましょう。

忠勝の最期につながる小刀の逸話

忠勝は木彫りが趣味だったという話も残っており、隠居生活中に自分の持ち物に小刀で名前を彫っていたことがあったようです。そのときに、うまく小刀を扱えずに自分の手元を切ってしまったという話があります。

その際、「傷を負っては本多忠勝も終わりだな」とポロっとこぼしたという逸話があります。そして、その傷を負った数日後に亡くなったため、これが最期の言葉になったともいわれています。

戦時中は数多の戦いで傷ひとつ負わなかったとされていた忠勝が、自分で自分の手元を切ってしまうという、全盛期ではありえなかったエピソードに、忠勝の体が徐々に弱っていたことが現れていたのではといわれているようです。

忠勝の死因は病死とされていますが、この傷の話を見ると、もしかしたら傷口からの感染症などで亡くなった可能性もあるのかもしれません。

死に際に遺した遺書

「侍は、たとえ敵将の首を取れなくて良い。手柄がなくても良い。
ただ困難に挑んで逃げ出すな。主君と一緒に討死せよ。
ただただ忠誠を守ることが大事だ。これをこそ、真の侍というのだ。」

上記は忠勝が遺した遺書の一節です。この遺書からは、忠勝が家康に忠誠を深く誓っていたことがよく伝わってきます。次にご紹介する辞世の句からも分かりますが、忠勝は自分のことをよくできた家臣とは思っておらず、家康にもっとできることがあったのではないか、本当は一緒に死にたかったという思いが強かったようです。

死に際にも上記のような言葉がでるくらい、家康への思いが深かったことが推測されます。

最後に詠んだ辞世の句

忠勝が詠んだ辞世の句に、「死にともな 嗚呼ああ死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」というものがあります。本当の最期の言葉は、小刀で手を傷つけてしまったときのものかもしれませんが、こちらも最期の言葉として残っています。

直訳すると、「あぁ死にたくない、家康公から受けた御恩を思えばまだまだ尽くしたい」という意味です。この言葉から、忠勝は死ぬ間際まで家康に尽くし切れていなかったという思いがあったことが想像できます。

忠勝の死因は病死とされていますが、亡くなるその間際に、本当は戦時中に家康の隣で討死したかったという思いが溢れてこのような言葉が出たのではないでしょうか。

上記でご紹介した遺書からも、もっと家康にできることがあったのではないかという思いが強かったのではないかと推測されます。

本多忠勝の最期につながるエピソード

忠勝の最期は隠居生活をした後の病死とされていますが、その生涯を終えるまでの間には数々のエピソードが残されています。その中から、特に有名なエピソードをいくつかご紹介したいと思います。

忠勝といえば有名なのが戦の強さですが、それ以外の戦国時代以降の様子や冷遇説についても少し触れていきます。

徳川軍の勝利に貢献した関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いといえば、徳川家康最大の戦といっても過言ではない天下分け目の戦いですが、この戦いでも忠勝は大きな活躍をしています。

忠勝の本隊は、家康の長男秀忠の下にあり、豊臣軍の目付け役だったため500人程度の少ない軍勢でした。そんな少ない軍勢の中で、忠勝は敵に傷をつけられることなく90人以上の首を取った大活躍をしたといわれています。

忠勝の活躍もあって、関ケ原の戦いは徳川軍の勝利で終わり、その後大坂の陣などを経て江戸幕府が開幕しました。

関ヶ原の戦い以降の様子

関ケ原の戦いでの活躍により、忠勝は桑名(現在の三重県伊勢市)に10万石の土地を与えられました。本当は旧領地だった千葉県の5万石も与えられる予定でしたが、忠勝はこれを断ったため次男に与えられたようです。

桑名に土地を与えられたあとは、内政に力を入れていたようです。城や宿を整備し、家臣からは名君と呼ばれて過ごしていたといわれていますが、1604年頃からは眼病を患っていたようです。

この頃から忠勝は隠居生活を送りたいと願い出ていたようですが、受け入れられずに1609年にようやく隠居生活に移ることができました

◆忠勝は実は冷遇されていたのか?

忠勝が与えられた土地が桑名の10万石だったことから、忠勝は家康から冷遇されていたのではないかという説があります。ですが、前述した通り本当はもう少し土地を与えられる予定であったことが分かります。

また、桑名は豊臣軍が居住していた大坂に近かったこともあり、豊臣についていた大名を監視できる重要な場所を任されたとも受け取れます。

本多正信親子が家康の側に置かれて幕政に参加していた一方、忠勝は参加していなかったため冷遇されていたのではという説もありますが、正信親子は戦時中から参謀だったこともあり、それぞれの役割が違っただけなのではないかと考えられています。

本多忠勝の死後に起こった出来事

最後に、忠勝の死後に起こった重要な出来事を2つご紹介します。歴史上の出来事の中でも大きな戦いのひとつですが、忠勝の子孫繁栄にもつながるエピソードが残されています。

大坂の陣勃発と豊臣家滅亡

忠勝の死後、1614年に大坂の陣が勃発します。大坂の陣は、関ケ原の戦い後に天下統一を果たして江戸幕府を開幕して征夷大将軍となった徳川家康と、豊臣家(豊臣秀頼)の戦いで、この戦いで豊臣家は滅亡してしまいます。

この戦いのときには忠勝はすでに死去していますが、徳川軍が勝利したことでそのあと長く徳川家が政権を握ることになります。本当は忠勝もこの戦いで窮地に陥った家康の側にいたかったのかもしれません。

大坂の陣の際に脱出した家康の孫と忠勝の孫によって子孫繁栄

大坂夏の陣の際に、負けを悟った豊臣秀頼は場内で自害しますが、その際に妻の千姫は大坂城から脱出します。千姫は、徳川家康の孫であり徳川秀忠の娘ですが、逃げている際に忠勝の孫である本多忠刻に一目ぼれをしたようです。

大坂の陣で若いうちに夫を失ってしまった千姫は、その後忠刻に嫁いで勝姫を出産することになります。この血筋が、徳川15代目将軍徳川慶喜へとつながり、忠勝の子孫は徳川家へとつながります。

この戦いからわずか1年後、忠勝が仕えた家康はその生涯を終えることになります。