織田信長の家臣として織田家に尽くし、数々の戦を切りぬけ戦国時代を生きた武将が「柴田勝家」です。その戦いぶりは「鬼柴田」といわれるほどでした。信長亡き後は織田家の後継者決めで秀吉と対立し、その後、賤ケ岳の戦いで敗れ人生の幕を下ろしました。

59歳まで独身を貫き、60歳で信長の妹「お市の方」と結婚します。しかしそれからわずか7か月後、賤ケ岳の戦いが始まりました。居城である北庄城を秀吉軍に囲まれ自ら命を絶つことを決意します。傍らにはお市の方がいました。

勝家は戦うことしか脳がないと思われがちですが、北庄城・城下町を造り、橋を架け、民生運営に必要な施策を実施するなど、政治的にも活躍しました。今回はそんな戦国武将「柴田勝家」がどのように生きたのか、その生涯を紹介します。

柴田勝家の生涯

柴田勝家の誕生から「織田信秀」に見いだされるまで

柴田勝家は1522年、尾張国愛知郡に生まれたようですが、1526年・1527年という説もあります。また父は柴田勝義といわれていますが、これも明確ではありません。幼名は権六です。幼い頃の勝家は知恵も勇気もある子であったと伝えられています。

生誕地とされる下社城の跡に、1622年「明徳寺」が移転し、寺の山門の左側に「柴田勝家公誕生地」と刻まれた石碑が建立されています。

織田信長の父「織田信秀」が勝家の才能を知り、自分のもとに引き入れ、文武の指導を受けさせました勝家にとって秀信は人生を変えた存在となったのです。

織田信行の家臣時代

信長の父「秀信」の家臣となった勝家は、秀信の死後、信長の弟「信行」の家老になります。当時の信長は「大うつけ(まぬけ・ばか者)」といわれており、逆に信行は礼儀も正しく有能な若者と評価されていました。

秀信の後継者には信行こそふさわしいと、勝家は一念発起します。信長を倒し信行を秀信の後継者にしようと企んだのです。1556年8月「稲生の戦い」が始まりました。勝家は林秀貞・通具らと信長が築城した「名塚城」に攻め入ります。信長の勢力は700、勝家たちは1,700の勢力です。

数で圧倒していたにも関わらず、激戦の末に勝利したのは信長でした。林通具は信長に捕らえられ、信幸の居城「末森城」も信長勢に包囲されてしまいました。勝家の計画は大失敗です。通常であれば自害を求められるか打ち首になるところでしたが、信長の母「土田御前(どたごぜん)」の必死の頼みで、信長は居城である清須城へ戻りました。勝家は信長に謝罪し、忠誠を誓ったといわれています。

織田信行の行動を密告し織田信長の家臣へ

稲生の戦いであれほどの失敗をしたというのに、織田信行はまだ懲りていませんでした。1558年にも織田信長を殺害しようとします

信行を指示するつもりがなかった勝家は、その不穏な動きを察知し信長に伝えます。信長はそれを聞き激怒し、信行の暗殺を決めました。

勝家は信行に「信長が重病だ」と嘘をつき、清須城に行くように勧めます。信行は清須城内で池田恒興らに殺されました。かつて主君としていた信行を見限り信長に対し忠誠の行動をとることで、勝家は信長の信頼を得たのです。

これ以降、信長は勝家に織田軍の先鋒を任せます。勝家は信長の重臣となり、数々の戦で武功をあげました。

織田信長の元で活躍した「かかれ柴田」

織田信長のもと、勝家は武将として素晴らしい活躍を見せました。その見事な働きは以下のような小唄に残されています。

「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間」

木綿の布のように派手さはないが実用的に仕える「藤吉(後の秀吉)」、米のようになければ困る「五郎左(ごろうさ 丹羽長秀)」、掛かれ!と勢いよく突撃する柴田に、退却が実にうまい佐久間という意味の小唄です。

柴田勝家といえば、戦の際「掛かれーっ」と突撃していく様子が「掛かれ柴田」と表現されていますが、これは信長の信頼を得たいという勝家の必死な戦闘姿勢による掛け声でした。

戦となれば危険であっても先鋒を自ら買って出て、織田軍の役に立つのだという勝家の気概の言葉が「掛かれ」だったのでしょう。その後は桶狭間の戦い、姉川の戦い、長嶋一向一揆、長篠の戦、加賀一向一揆と、目覚ましい活躍を見せています。

本能寺の変への出遅れ

信長の家臣となり、たくさんの戦に参戦し武功をあげてきた勝家は、すでに織田の重臣となっていました。しかし信長に最後の日がやってきます。「本能寺の変」です。勝家がこの事件を知ったのは、信長が討たれてから数日後のことでした。織田信長が討たれたことを聞き、急ぎ駆け付けようとしましたが、上杉軍に攻撃され立ち往生します。

本能寺の変が起きたのは6月2日ですが、勝家がその事実を知ったのは6月5日です。主君の仇である明智光秀を追い詰めたのは豊臣秀吉でした。勝家も事実を知り急ぎ近江に向かったのですが、6月13日、すでに秀吉が「山崎の戦い」において仇をうっていたのです。

お市の方との結婚と賤ケ岳の戦い

柴田勝家は織田信長に仕えた際、当時10歳であったお市の方に一目ぼれしていたといわれています。しかし相手は主君織田信長の実の妹ですから、かなうはずもない恋です。

信長の敵討ちも終わり、跡継ぎを決める清須会議が行われ、秀吉が推していた三法師が後継者となりました。さらに信長の保有していた領地の再配分も行われましたが、勝家に与えられたのは元々自分の領地であった越前と元秀吉の領地だった近江長浜だけです。これまでは勝家が織田家の重臣筆頭でしたが、立場が逆転し秀吉の方が上になってしまいました。

しかしここで秀吉は勝家から不満が出ないようにと「お市の方との再婚」を承諾したのです。叶わぬ恋と思っていた勝家にとって、これほど喜ばしいことはありませんでした。

その浮き足立っている勝家を見逃さないのが秀吉です。清須会議で自分が推した三法師が跡継ぎに決まり、いよいよ力を付けた秀吉に、勝家は賤ケ岳の戦いで敗れてしまいました。

柴田勝家「お市の方」と自害

鬼柴田といわれた戦の猛者「柴田勝家」もとうとう最後の時がやってきます。賤ケ岳の戦いにおいて上杉景勝らと連絡を取り秀吉に対抗しようとしましたが、景勝はすでに秀吉と同盟を結んでいたため力になってくれません。しかも勝家の領地越前は冬場、雪によって身動きが取れないのです。

それを知っている秀吉は勝家の属城「近江の長浜城」で柴田勝豊(勝家の養子)を落としました。秀吉はさらに岐阜城の信孝も降伏させ、勝家は秀吉と全面対決することになりました。しかし結局近江の賤ケ岳にて敗れ居城の北庄城へ退却します。城はすぐに秀吉軍に包囲され、勝家はお市の方と共に命を絶ちました。

柴田勝家はどんな人?

柴田勝家は、滝川和正、丹羽長秀、明智光秀と共に「織田四天王」といわれた武将です。織田軍では先鋒を務め抜群の強さを誇っていました。先陣を務めた勝家は「掛かれ柴田」といわれるように、勇猛果敢な男として知られています。

性格は一本気で律儀、人情に厚く真面目だったといいます。織田家は実力主義でしたが、確固たる地位を築いたのが勝家です。信長も実直な勝家を信頼し、織田家の重臣と呼ばれるまでになりました。

秀吉とは犬猿の仲といわれています。知恵者で機転が利きある意味ずるがしこく武将になった秀吉と、戦で槍働きとして経験と実績を積み重ねてきた律儀な勝家ですから、お互いに理解できない人物だったかもしれません。

柴田勝家が使用した家紋

 

柴田勝家の家紋のうち定紋は、「丸に二つ雁金」(まるにふたつかりがね)です。丸の中に二羽の雁(がん)が施されています。雁は鳴きながら空を飛ぶ鳥なので、吉兆を運ぶ鳥として古くから利用されてきました。中国の皇帝「武帝」の使者が幽閉された際、手紙を雁に結び祖国への思いを伝えたという逸話も残っています。

雁は群れを成して飛ぶため、柴田家の絆・結束を強くするという意味でも利用されたのではないかといわれています。越前地方では勝家とお市の方が身近な存在で、空を二羽の雁が飛んでいると2人が戻ってきたと偲ぶ人もいるそうです。丸のない「二つ雁金」も柴田家で利用されていました。柴田家で利用されていた「雁」の家紋は、いずれも上の雁のくちばしが開いています。

五瓜に唐花は柴田家の替紋で、この紋についてはなぜ柴田家が利用しているのかわかっていません。八坂神社が「神紋」として利用しており、平安時代にアレンジされ公家の衣装などに使われていました。

柴田勝家が残した名言

戦国時代に生きた武将たちは多くの名言を残していますが、柴田勝家もいくつかの名言を残しています。

「だから私は先に辞退したのです。先陣の大将たる者にはそれほどの権威を持たせて下さらねば務まるものではございませぬ」

織田信長が勝家を上人の先陣大将に任命しようとしたとき、勝家はこれを辞退しました。しかし信長は無理に大将にします。その後、安土城下において勝家の隊が行列していたところ、信長の旗本が衝突しました。すると勝家は旗本を無礼者と切り捨ててしまったのです。そこで放ったのが上記の言葉でした。信長はこれを聞き言葉を返せなかったといわれています。

「修理(勝家)の腹の切り様を見て後学にせよ」

北庄城に200人ほどの家臣らと籠城していた勝家は、7度まで切って戦ったといわれています。しかし秀吉軍の攻撃を防御できるはずもなく、天守の九重目に上がると秀吉軍に語りかけたそうです。その姿を見て侍たちは涙を流し、鎧の袖を濡らしたといわれています。

このほか、以下のような名言も世に残しました。

  • 予が逃げて北ノ庄城に入ったことは戦いの運で、予が憶病だからではないが、敵にわが首を斬られ、予と汝等の妻及び親戚が侮辱を受けることは、わが柴田の名と家の永久の不名誉である。よって直ちにわが腹を切り、敵に発見されざるため、わが体を焼かしめるであろう
  • 今、上方で明智光秀や菅屋九右衛門などという者が出世して諸事に口出ししていると聞くが、自分は信長に仕えて今に至るまで、戦功およそ二十四度に及ぶから、誰々が出世したといっても心許ないことだ
  • 我々が生き残る道は打って出て六角軍を蹴散らす以外なし!
  • 水は土に還ったぞ 我らも土に 還るまでじゃ

柴田勝家の逸話

瓶割り柴田

織田信長に命じられ勝家は長光寺城を守っていましたが、近江の守護佐々木軍の六角義賢に包囲されてしまいます。勝家は籠城しますが、長い籠城生活で水が足りなくなってきました。そこで勝家はなぜか兵たちに「水をたくさん飲め」と命じます。

兵士たちが水を飲み終わると、勝家は水が入っていた瓶をたたき割ってしまいました。そして「城に籠っていては生きられない。一気に敵を蹴散らすぞ!」と鼓舞し、「掛かれー!!」と敵に突っ込みました。

この武勇伝は「瓶割り柴田」として伝えられており、長光寺城は「瓶割城」と呼ばれたそうです。最終的に佐々木氏は信長に倒され、安土城ができると長光寺城は廃城となりました。

柴田勝家と前田利家

掛かれ柴田や瓶割り柴田などの話を聞いていると、やさしさや繊細さとはかけ離れた武将なのではないかと思ってしまいますが、勝家は優しく、人を思いやる人情味のある武将でした。

勝家のことを「親父殿」と呼び慕っていた前田利家は、賤ケ岳の戦いの際、持ち場から動くことなく府中城に帰ります。勝家からすれば可愛がっていた部下の戦線離脱は裏切り行為です。結果的に勝家は秀吉に敗れました。

精魂尽き果てボロボロになって北庄城に帰る途中、勝家は府中城にいた利家を訪ねています。しかしここで勝家はどうして裏切ったのかなどは聞かず、ただただこれまで働いてくれたことに対する感謝の思いだけ伝えました。

勝家は湯付け(茶漬け)を一杯食べて、こういったのです。

「秀吉と仲がよいのだから必ず降るように。私のことを思って再び道を誤ってはならない」

秀吉とお前は仲がいいのだから、降参して家来にしてもらえ、私のことを考えて道を間違えるなよということでしょう。そして北庄城に帰ると、預かっていた利家の娘を「利家のところに帰れ」と逃がしました。

柴田勝家とお市の方 2人の辞世の句

「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」

これは勝家の「辞世の句」です。北庄城で愛するお市の方を切り殺し、お市の辞世の句を聞き、自分も自害する際に返した句でした。夏の夜のようにはかない人生だったけれど、ほととぎすよ、私たちのことを後世に伝えておくれという意味です。

「雲井」とは大空という意味で、名が広く知れ渡るほどの偉大な大名になるまで生きていたかったという勝家の気持ちが伝わってきます。お市の方の辞世の句は以下です。

「さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」

それでなくても短い夏の夜が終わってしまったね、ほととぎすが誘うからそろそろ逝かなくては・・そんな心情が詠われています。