細川忠興は、戦国時代の中で文武両道のエリートであった「細川藤高」が父であり、本能寺の変を起こした「明智光秀」の娘「ガラシャ(玉子)」を妻に持っていました。藤高も非常に有名な武将ですが、忠興も武将としての素質、実戦経験、功績など父に劣ることのない武将です。

室町幕府最後の将軍となった足利義昭をはじめ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、戦国時代の三英傑の家臣として重用され、戦乱の世を生き抜きました。忠興はお家を守り、細川家を今に伝えた素晴らしい武将です。

戦ではいくつもの武功をあげ、家庭では妻ガラシャを愛し抜きました。また忠興は茶人の号を持つ文化人でもあります。そんな細川忠興はどのような人生を歩んだのでしょうか。忠興の生涯を見てみましょう。

細川忠興の生涯

仲の良い両親の元「細川忠興」誕生

細川忠興は細川藤高と麝香(じゃこう 後の光寿院)の間に、長男として誕生しました。忠興の両親は仲が良く、父の藤高は戦国時代には珍しく側室を取らなかったようです。当時藤高は将軍「足利義輝」の家臣であり、やっと足利家に再興の兆しが見え始めており、戦国の世にあって忠興は平穏な幼少期を過ごしました。

しかし1565年、主君である足利義輝が暗殺され、「永禄の変」が起こりました。三好義継と松永久通によって将軍が暗殺されたのです。藤高は足利義輝の弟で南都興福寺にいた「覚慶」(後の第15代将軍 足利義昭)を保護し、織田信長に救いを求めます。忠興は乳母が機転を利かし、幼名であった熊千代の名を「宗八」と改名し町屋で保護してくれました。

永禄の変から織田信長家臣となるまで

潜伏生活は3年ほど続き、藤高は足利義昭を擁立し忠興が暮らしていた京都に帰り、織田信長との関係がより深まったといわれています。ただ藤高の主君はあくまでも足利義昭ですから、忠興は信長との間に挟まれ苦悩していました。

この時、信長と義昭の間に入っていた「明智光秀」と親しくなり、相談事もしていたようです。その後、藤高は足利義昭を見限り、織田家の家臣として従属することを決意しました。同じ時期に、明智光秀も仕官先を織田家のみに絞ったといわれています。

織田信長の家臣となり活躍する

父である藤高が織田家を仕官先としたことで、忠興は織田軍になりました。ここで一度細川家は「長岡」という姓に変えます。長岡姓は豊臣秀吉に仕えるまで続きました。

忠興は15歳で初陣を迎え、父と共に織田軍として戦に参戦します。17歳になるまでに17回もの戦に参戦し、忠興は全てに勝利しました。松永久秀を攻めた際には、織田信長直筆の感状も受け取ったほどです。

若い年代から頭角を現した忠興を、信長は小姓として取り立てました。元服の際には信長の息子である織田信忠より偏諱(へんき 名前の一字をもらうこと)され、「忠興」という名に改めています。

織田信長の仲介で「明智玉子」と結婚

足利家と織田家の仲介役として相談しあっていた細川藤高明智光秀は交流を深めており、気の合う仲でした。1574年に織田信長配下の武将が集まった岐阜城で、藤高の息子である「忠興」と光秀の娘である「玉子」の婚姻が決定しました。

この婚姻は織田信長の一存で決定したといわれています。忠興も玉子も当時まだ10歳でした。忠興は戦でも活躍し、玉子という伴侶を迎え、これ以上にないという充実した日々を過ごしました。

人生最大の危機「本能寺の変」

充実した日々を送っていた忠興に、突如として信じられないような出来事が起こります。忠興にとって舅である「明智光秀」が謀反を起こしました。「本能寺の変」です。光秀は主君織田信長を自害に追い込み、細川家は非常に難しい立場に立たされてしまいます

細川家の主君は織田家ですから、当然明智は裏切り者です。しかし忠興の妻である玉子の父であり、また藤高の友人でもあります。光秀が謀反を起こしてしまった今、細川家は「明智についている」と思われてもおかしくありません。

忠興は藤高と一緒に髻(もとどり)を落とし、信長への哀悼の意を表し、藤高は「幽斎玄旨」という法号を取得し隠居しました。こうして忠興は細川家の家督を継承しましたが、謀反を起こした光秀からは再三、救援要請がきます。

これを断固として拒否し、一度「玉子と離縁」して玉子を京都の味土野へ幽閉しました。徹底して光秀側ではないことを現したのです。光秀は中国大返しで京都に素早く引き返してきた秀吉に「山崎の戦い」で敗れ、落ち武者狩りにあい死亡しました。

豊臣家に臣従し武将として成功する

藤高と忠興は秀吉に大人しく従うことを表明したことで、秀吉から厚遇を受けています。秀吉にとって名門細川家が自分についたとなれば、政治的効果は抜群です。また文化人としても知られている細川親子は文化的な意味での効果もありました。

もう1つ、忠興が一色家を滅ぼしたことも厚遇の理由でしょう。織田信長が亡くなった際、忠興の領地であった丹後国で一色家の不穏な動きがみられました。秀吉が明智に勝利したものの、世は混沌とした状態です。室町幕府の名家「一色家」がこれがチャンスとばかりに反乱を企てます。

忠興はこれを見逃さず、一色家の当主「一色義有」を居城に招き宴会を開きました。宴会で気が緩んでいる一色義有と身内を暗殺、その勢いのままに「弓木城の戦い」を仕掛け、一色家を滅亡させ丹波国を統一したのです。

忠興はその後、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどで活躍し戦功をあげ、秀吉から「従四位下・侍従」の官位と羽柴姓を賜り、1588年には豊臣姓まで下賜されています。

関ヶ原の戦い「東軍勝利」に貢献

忠興は、徳川家康に10万石の加増を約束されたことや、かねてからの石田三成への遺恨もあり、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍につきました。忠興は関ヶ原の戦いの前哨戦である上杉討伐へ向かいましたが、その際、三成がガラシャを人質にとるようなそぶりを見せたのです。

大阪にいたガラシャは夫の足手まといになるわけにいかないと、自害を選びます。キリスト教徒であるガラシャは自害することはできないため、家臣に槍で胸を突かせたといわれています。これを知った忠興は怒り狂いました。

関ヶ原の戦いでは石田三成本隊と激突し、136もの首をあげたといいます。忠興は東軍勝利に大きく貢献しました。この働きにより忠興は、家康から加増を受けます。丹後国12万石から一気に豊前国39万9,000石の「大大名」になったのです。

細川忠興の晩年から死まで

忠興は1620年に家督を譲っています。長男である忠隆が家督を継承するはずでしたが、家督を継いだのは三男の「細川忠利」です。忠興はガラシャが命を落とした際、一緒にいた忠隆の妻「千世」が宇喜多屋敷に逃げたことを理由に、忠隆に千世と離縁するように命じました。

しかし忠隆は千世をかばい忠興に勘当されていたのです。忠興は1604年に忠隆を廃嫡(相続権をなくすこと)しています。

家督を継いだ忠利ともそれほど良好な関係ではなかったようですが、忠利が肥後国に加増転封となり、忠興は9万5,000石の隠居領を手にしました。

隠居後は「三斎宗立」を名乗っていましたが、実は隠居領を立藩することを狙っていたといいます。しかし忠興も年齢には勝てず、1645年、83歳でこの世を去りました。

細川忠興の苦悩

舅「明智光秀」と主君「織田信長」

忠興にとって「本能寺の変」を起こした明智光秀は舅です。また光秀は主従関係でも舅というよりは主君のような存在でした。ただし、忠興は「主君はあくまでも織田信長」と考えていたようです。

忠興は織田信長に心酔していたといわれています。そのいい例が「京都御馬揃え」でしょう。1581年に織田信長が主宰で行った観兵式の京都御馬揃えで、信長が着用した唐錦の小袖は、忠興が京都中を駆け回り探したものでした。信長のために京都中を探し回り献上品として届けたのです。

信長も忠興を評価しており、丹後南部の領地は細川藤高に対してではなく、忠興に与えたといわれています。忠興は「心魂に徹し、忘れ給わず」と感激しきりだったそうです。

生かしておけない敵と感じていた「石田三成」

誰しも仕事上や仲間内で気に入らない人がいると思いますが、豊臣秀吉の家臣となってから、忠興にも気に入らない武将がいました。それが「石田三成」です。なぜ石田三成のことが気にいらなかったのか、その理由はいくつかありますが、特に「秀次事件」が原因だといわれています。

秀次事件は、秀吉が秀頼を後継者とするために甥の秀次を追放し切腹させ、さらには一族を大量処刑したという、晩年の秀吉の狂気な事件です。実は忠興は秀次に借金をしており、それがもとで「謀反」の疑いをかけられてしまいます。忠興は家康などから力を借り、何とかお金を返し事なきを得ましたが、謀反の容疑を捏造したのは「石田三成」だろうと考えていました。

文禄の役の際には文治派の石田三成が、忠興ら武断派にとって都合が悪い話を秀吉に報告したことで、忠興は身に覚えのない叱責を受けてしまいます。このようなことが積み重なり、忠興にとって三成は「生かしておけない敵」と思う相手となったのです。

最愛の妻「細川ガラシャ」の壮絶な死

関ヶ原の戦いの際、忠興たち大名は妻子を大阪に残さなくてはなりませんでした。人質となって命を取られることもあるでしょう。大名によっては妻を樽の中に隠し国許へ返すなど、妻子を必死に守ろうとしました。

忠興は特に妻への愛情が強く、溺愛するガラシャが大きな悩みとなってしまいます。忠興は悩みに悩み、屋敷に残ることになった家臣らに以下のように告げました。

「敵が攻めてきたら妻を殺し全員で切腹せよ」

ガラシャはキリスト教のため自害はご法度です。そこで家臣にガラシャを殺すよう命じたのです。

三成は大名屋敷の中で最初に細川家に兵を送りました。ガラシャを人質にとれば忠興をきっと味方にできると考えたのですが、ガラシャはこれを拒絶し、忠興の家臣に自分の命を預けます。家臣はガラシャを槍でつくと屋敷に火を放ちました。この壮絶なガラシャの死により、他家の妻子を人質にとることを断念したといわれています。

細川忠興の逸話

細川忠興の癇癪と妻ガラシャとの壮絶すぎる結婚生活

細川忠興は妻ガラシャにあふれるくらいの愛情をもっていたといわれています。その愛情がしばしば行き過ぎた行動となり、壮絶な逸話が残っているのです。忠興自身が「天下一気が短い」癇癪もちといわれたことも、この逸話の要因となっているのかもしれません。

玉子がキリスト教に改宗し「ガラシャ」という洗礼名を授かった際には、ガラシャの首元に短刀を突き付け、信仰の放棄を迫りました。庭師がガラシャの美しさに見とれていると庭師の首を切り落とし、その血をガラシャの着物で拭ったという話も残っています。しかしガラシャとて負けてはいません。その状態をものともせず平然と食事を続け、その着物を数日間着用していたそうです。

三男の細川忠利が洗礼を受けたと知った忠興は、それを止めなかったとして乳母の鼻と両耳を削ぎ落したという話も残っています。それでもガラシャは夫に迷惑をかけないようにと死を選択し、忠興はガラシャと共に死ななかった家臣に対し、怒り狂ったといいますから、お互いに愛し合っていた夫婦だったのでしょう。

文化人としても知られていた細川忠興

父である藤高も文化人として名高い方ですが、忠興も文化人として知られていました。忠興は当代きっての茶人といわれ、千利休の「利休七哲」に数えられています。また忠興の号「三斎流」を冠した流派の開祖です。

忠興の師である千利休が秀吉に切腹を命じられた際には、秀吉の咎めを恐れることなく、千利休のもとを訪れています。千利休が亡くなった後も、形見の「石灯篭」を大切にしており、忠興の墓石に利用したそうです。

また忠興は越中ふんどしを考案したり、刀剣「肥後拵」を造ったり、和歌に能楽など、実に多彩な教養人でもありました。