北条時宗といえば、鎌倉幕府の8代目執権であるとともに、2度にわたるモンゴル帝国の侵攻(元寇)を撃退したことで知られています。ただ日本史の中で輝かしい実績を残した時宗も、1284年にわずか34歳で世を去りました。

日本史の中でも抜群の知名度を誇った北条時宗が若くして亡くなった原因は病気とされています。ただ具体的な死因が何だったのかについては、意外に広く知られていません。時宗の死因について知ることは、彼がどのような最期を迎えたのかや、彼の生涯について詳しく理解する上で便利です。

本記事では若くして亡くなった北条時宗の死因について、彼が置かれていた状況や、北条家の家系図にも触れながら徹底解説していきます。

北条時宗の死因について徹底解説

北条時宗は2度にわたるモンゴル軍の侵攻である元寇を防ぎ切ったことで知られる、鎌倉幕府の第8代執権です。しかし時宗は輝かしい実績を残した割に、1284年に34歳の若さで世を去っています。

若き鎌倉幕府の最高権力者の死因が一体何だったのかは、時宗の生涯を知る上で避けて通れないテーマです。時宗の命を奪ったものについて見ていきましょう。

北条時宗の死因は心臓病または結核

北条時宗の死因は心臓病とも結核とも言われています。中でも結核は、昭和中期の1950年代になるまで治療法がなかったことから、古くから「不治の病」として恐れられていました。1950年代から700年近くも昔だった時宗の生きた時代であればなおのことです。

ただ彼の肖像画は死亡直前に出家した姿を描いたものではあるものの、結核に特徴的なひどい痩せ方とは異なり、ふくよかな姿で描かれています。このため、結核ではなく心臓病が死因という説が有力です。

時宗は後で見るように、亡くなる直前に様々な問題を抱えていたために、対応に苦しんでいました。対応に苦慮する中で病を発症して亡くなったとされています。

背景に元との戦いや恩賞の問題

北条時宗が亡くなった背景には、元との戦いや恩賞の問題もありました。モンゴル帝国の大ハーンで元朝初代皇帝であるクビライ(フビライ・ハン)が1268年に国書を送って以来、時宗は現役の執権として対応に悩まされます。

元への対応ぶりでは、1274年と1281年の2回にわたる九州への侵攻を招きました。2回にわたる侵攻も、九州に集った御家人たちの活躍や台風の襲来などのおかげで何とか退けています。

しかし侵攻を退けた後に待っていたのは、活躍した御家人への恩賞の問題でした。元寇は防衛戦で新たに切り取った土地が全くなかったため、御家人たちに報いる方法を見出せない状態です。加えて元による3度目の侵攻も予想されたため、時宗は恩賞の問題と再度の襲来への備えの板挟みで困難に直面していました。

多大な過労やストレスが若年での最期の要因に

時宗が心臓病で若くして亡くなったのは、国内外の諸問題で悩み苦しんだ末に過労やストレスから病を発したと考えられます。元という全く見知らぬ外国による圧力や侵攻1つとっても、当時の人にとっては未曽有の国難であった分、時宗の心身には想像以上のプレッシャーがかかっていました。

加えて時宗の時代には、反得宗派(得宗:北条家の嫡流)による二月騒動や、1272年に崩御した後嵯峨法皇の皇位継承問題など、国内にも様々な問題が起きています。国内外で起きる多くの難問に対処する中で強烈なストレスにさらされたことが、若くして時宗が亡くなった要因です。

北条時宗が亡くなった際の様子


北条時宗の最期については、亡くなる直前の様子がある程度記録に残っています。時宗が病を発してから亡くなるまであまり時間がかからなかったのも大きな特徴です。

時宗が亡くなるまでの様子を見ていくことは、時宗の生涯の一端を知る上でも役に立ちます。彼が病を発してから最期を迎える時までの様子を見ていきましょう。

発病からわずか1ヶ月で死亡

時宗が心身の不調を訴え始めたのは、亡くなる前年の1283年春頃です。最初は慢性的な疲れや精神面の不調を訴えていたものの、夏になるとより体調が悪化して寝込むことも増えました。ただ病にあっても、時宗は多くの難題が積み重なっている状況に立ち向かい続けます。

医師たちが様々な治療法を試みたほか、寺社仏閣による加持祈祷も行われたものの症状が改善することはありません。回復しないままに時は流れ、1284年の3月になると心臓病または結核を発症してしまいました。

4月に入ると病はより深刻になり、自身ももはや命が長くないことを悟りだします。

死の直前に出家|肖像画も僧の姿で

1284年4月4日、時宗は自身の死期が近いことを悟りました。そして日頃から帰依していた無学祖元(仏光国師)を導師として出家の儀式を行います。

時宗は禅宗に対する信心が深く、禅修行にも精を出していたほどであったため、死を前にして出家することを望んでいたためです。なお彼の肖像画として有名な僧の姿は、死を前にして出家した姿を直接描いたものとされています。

出家の儀式が終わった同じ日、時宗は34歳の若さで世を去りました。彼の遺体はかつて自らが元寇の死者の供養を目的に発願し、無学祖元が住職を務めていた鎌倉北側の円覚寺に葬られます。

北条時宗の祖先や子孫とは?家系図とともに解説


北条時宗は鎌倉幕府執権の北条家に生まれただけあって、祖先や子孫にも有名な人物が大勢名を連ねている点で見ごたえ抜群です。時宗の祖先や子孫について知ると、時宗だけでなく北条家の歴史にも触れられます。

しかも子孫については、最近マンガで人気の人物までいるため、親近感を感じることも間違いありません。時宗の祖先や子孫について、家系図を参照しながら見ていきましょう。

鎌倉幕府執権の嫡流として誕生|北条政子との関係は?

(※数字は執権に就任した順番)

北条時宗は鎌倉幕府執権の嫡流である得宗(とくそう)の家系として生まれました。父には5代執権を務めた時頼が、曽祖父に『御成敗式目』を定めたことで有名な3代執権の泰時がいます。

泰時のさらに父親が、2代執権で大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公としても有名な義時です。そして義時の姉には源頼朝に嫁ぎ、頼朝死後に「尼将軍」として知られた政子もいます。

つまり時宗から見て義時は曽祖父の父である高祖父です。そして政子は義時にとって姉であることから、時宗から見ると高祖伯母(こうそはくぼ:高祖父母の兄や姉)に当たります。

子孫には人気マンガで有名な時行も

(※数字は執権に就任した順番)

続いて時宗の子孫を見ていくと、彼の息子に9代執権となった貞時が、孫には14代執権となった高時が有名です。なお高時は鎌倉幕府滅亡時には執権を退任・出家していました。

そして高時の息子で時宗のひ孫が、近年の人気マンガ作品『逃げ上手の若君』の主人公として有名な時行です。時行は鎌倉幕府滅亡時に信濃の諏訪(すわ)家のもとに逃れ、幕府を滅ぼした後醍醐天皇や足利尊氏に対して長年にわたり鎌倉幕府再興を目指して戦い続けました。

北条時宗は何をした人なのかわかりやすく解説

北条時宗は鎌倉幕府の第8代執権として活躍した人物です。1251年に5代執権である時頼の次男として生まれたものの、母の葛西殿が正室であったことから後継者とされました。

1263年に父が亡くなったため、13歳で北条家得宗を受け継ぎます。1264年に執権の補佐役である連署に就任した後、モンゴルからの国書が届いた1268年に8代執権となりました。

執権に就任した後は2度にわたる元寇や御家人の恩賞問題など、国内外の様々な難題に対処しています。