福島正則は豊臣秀吉に仕えた猛将で、「賤ケ岳七本槍」の1人として有名です。そして関ヶ原の戦いでも東軍の有力武将として活躍したり、戦後には安芸広島49万8000石を領したことでも知られています。
秀吉麾下の名だたる猛将だった正則ですが、彼の生涯や人物像は意外と知られていません。ただ彼の生涯などを一通り知っておくと、より戦国時代の歴史に親しめます。
本記事では福島正則の生涯を、人物像や家系図などとともに徹底解説していきますので、ぜひ最後までご覧ください。
福島正則の生涯を年表でチェック!
まずは福島正則の生涯を、年表で簡単に見ていきましょう。
1561年 | 尾張海東郡にて誕生 |
1578年 | 播磨三木城の戦いにて初陣 |
1582年 | 山崎の戦いにて勝龍寺城攻めで活躍 |
1583年 | 賤ケ岳の戦いで七本槍の1人として活躍 |
1587年 | 九州征伐後に伊予今治10万石の大名に |
1592年 | 文禄の役(第一次朝鮮出兵)で五番隊主将として京畿道方面を攻略 |
1595年 | 尾張清洲24万石に移封 |
1599年 | 石田三成との対立し、加藤清正や黒田長政らとともに三成を襲撃 |
1600年 | 関ヶ原の戦い 本戦で西軍の宇喜多秀家勢相手に奮戦 |
同年 | 関ヶ原の戦いでの功で安芸広島49万8000石を領有 |
1611年 | 徳川家康と豊臣秀頼の会見を加藤清正らとともに実現 |
1614年 | 大坂冬の陣で家康の命により江戸で留守居役に |
1615年 | 大坂夏の陣で再度江戸で留守居役に 豊臣家の滅亡 |
1619年 | 広島城の無断改修を理由に改易 |
1624年 | 信州高井野にて病のために死亡、享年64 |
福島正則の歩んだ生涯とは?
福島正則の生涯は主君だった豊臣秀吉のように名もなき身分から大名までのし上がっただけでなく、最後は大きな転落もあった激動のものでした。加えて勇猛さを武器に名だたる合戦で活躍していたことも特徴の1つです。
福島正則の生涯を節目に沿ってみていくと、彼の激動の生涯を深く理解できます。正則の生涯について、彼の人生の画期とともに詳しく解説していきますので、ぜひご覧ください。
豊臣秀吉の小姓として軍功を重ねた賤ケ岳七本槍
福島正則は1561年、尾張海東郡で桶屋を営んでいた福島正信の長男として生まれました。成長して10代を迎えた正則は、母親の松雲院が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の叔母だった縁から、秀吉の小姓となります。
正則の初陣は1578年の播磨三木城の戦いでした。秀吉に反旗を翻した播磨三木城主の別所長治との戦いで、秀吉にとっても生涯の有名な戦いの1つです。続いて1582年には明智光秀との山崎の戦いにて、明智方の勝龍寺城攻めで功を立てています。
正則の名を世に知らしめたのが、1583年に羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いです。賤ケ岳七本槍の1人として活躍し、柴田軍の武将・拝郷家嘉(はいごういえよし)を討ち取っています。
九州征伐後に大名へ
秀吉のもとで着実に軍功を積み重ねた正則は、以降も1584年の小牧・長久手の戦いや、1585年の四国征伐などでも活躍しました。そして1587年には秀吉が行った九州征伐に従軍し、戦後伊予今治10万石の大名となります。正則が文字通り一国一城の主となった瞬間でした。
大名となって以降の正則は、1590年の小田原征伐にも参加し、伊豆の韮山(にらやま)城を攻めています。続いて1592年の文禄の役では五番隊の主将として出陣し、朝鮮半島の京畿道(朝鮮国の首都一帯)の攻略を担当しました。なお正則は1594年に再度朝鮮に渡り、李舜臣率いる朝鮮水軍と交戦しています。
1595年には伊予今治から尾張清洲24万石に加増転封となりました。
石田三成との対立と関ケ原の戦い
1598年に主君の豊臣秀吉が病死すると、朝鮮出兵で石田三成が行った振る舞いに不満を抱き、彼と対立します。1599年に五大老の1人である前田利家が病死した際は、加藤清正や黒田長政などとともに三成を襲撃しました。襲撃の件を徳川家康が仲裁したのを機に、正則は家康に接近します。
1600年に家康は会津の上杉景勝を討伐するため、正則ら諸大名を率いて出陣しました。途中石田三成らの挙兵を知った家康らは下野の小山で軍議を開きます。正則は家康のために三成らと戦うことを表明し、東軍諸大名とともに先に西進しました。
9月15日の関ケ原の戦いでは西軍の主力部隊である宇喜多秀家の軍と交戦します。戦い自体は小早川秀秋の寝返りを機に東軍が勝利を収めました。
大坂の陣で豊臣家滅亡を防げず
関ヶ原の戦い後、正則は家康によって安芸広島49万5,000石を与えられます。1603年に江戸幕府が成立すると、正則は幕府による全国各地の城の修築に参加しつつ、秀吉の遺児・秀頼にも家臣としてふるまいました。
時が経つにつれて正則は、新たな天下人として君臨する徳川家と、天下人の地位を諦めない豊臣家の関係悪化を憂慮するようになります。1611年には加藤清正らとともに秀頼の母・淀殿を説得し、家康と秀頼の対面を実現しました。
しかし対面が実現したにもかかわらず、1614年に徳川・豊臣両家は大坂冬の陣で激突し、正則は江戸での留守居役を命じられます。そして翌年の夏の陣も留守居役だけで終わり、豊臣家滅亡を防げませんでした。
広島城の無断改修で改易され信州で病死
豊臣家滅亡の翌年、家康が75歳で世を去りました。名実ともに2代目将軍徳川秀忠の時代になった後も、正則は幕府に忠節を尽くします。
しかし1619年、台風で大きな被害を受けた広島城を修築を幕府に無断で行ったことで、正則の運命は暗転しました。幕府は武家諸法度に反していることを理由に正則を改易し、領地を没収してしまいます。
領地を召し上げられた正則は、代わりに北信濃の高井郡と越後の魚沼郡で合計4万5,000石が与えられました。しかし正則は改易を機に出家隠居し、家督も嫡男の忠勝に譲っています。やがて1624年に病を得て、64歳で世を去りました。
福島正則の性格や人物像を解説
豊臣秀吉麾下の猛将として活躍し、豊臣・徳川政権期には大名にまでなった福島正則。しかし彼の性格や人物像が具体的にどのようなものだったのかを知らない方もいるかと思います。
福島正則は猛将にふさわしい人柄を持っていた一方、お酒での失敗が多かったり恐妻家だったりする一面も備えていました。正則の性格や人物像について知れば、正則の人となりに親近感も持てます。彼の人物像について、エピソードも交えながら見ていきましょう。
生一本な性格の猛将
福島正則の性格を一言で表すなら、「生一本な性格の猛将」です。戦場では猛将らしく、敵に後ろを見せることを極度に嫌がっていました。関ヶ原の戦いでも島津義弘軍の突撃を食い止めようとした際に家臣に止められて歯噛みしたため、馬ごと後ろを見せずに下がったほどです。
また直情な性格も正則らしい面の1つでした。病に倒れた徳川家康を見舞った際、家康からは「不満があるなら挙兵すれば良い」と言われたため、「長年仕えてきたのにそれはない」と号泣しました。
お酒での失敗が多く名槍日本号も手放す羽目に
酒豪だった福島正則はお酒の失敗談が多く残っています。有名なものが豊臣秀吉から与えられた名槍日本号を手放してしまった話です。
屋敷に来た黒田長政の家臣・母里太兵衛(もりたへえ)に酔った状態で酒を勧めたものの、太兵衛は主君から勧められても飲まないように言われていたことを理由に断ります。正則は「大きな杯で飲み干したら好きなものを与える」と約束した上、黒田家の武士を「酒に弱くて役立たず」とまで罵りました。そこで太兵衛は3杯も飲んだ上に日本号も所望したため、正則は涙ながら手放してしまいます。
なお、福岡の民謡『黒田節』も、歌詞が太兵衛が正則から日本号を飲み取る内容になっていることで有名です。
実は恐妻家だった
敵に決して後ろを見せなかった正則は、実は恐妻家の一面もありました。正則の妻は昌泉院といい、徳川家康が自身の養女として嫁がせた人物です。
しかし昌泉院という妻がいるにもかかわらず、正則には別に妾がいて、たびたび彼女と会っていました。ある時、正則は妾のもとに酔った状態で訪ねます。この話を聞いた昌泉院は激しく嫉妬し、薙刀を手に正則に切りかかろうとしました。
戦場では怖いものなしだった正則も妻の所業に恐れおののき、詫びを入れながら逃げ回ったとされています。
幼馴染加藤清正との関係は非常に親密だった
福島正則は幼馴染の加藤清正と大変仲が良かったことでも有名です。清正は正則と同じく尾張の出身で、年も1つ違うだけでした。
しかも2人ともキャリアが秀吉の小姓から始まり、戦場での勇猛果敢な活躍を経て大名になっています。加えて秀吉の死後も武断派として共闘し、関ヶ原の戦いでも同じ東軍に属したほどです。
一方で直情な正則を清正がなだめる様子も見られました。徳川家康の命で名古屋城の普請に携わった際に正則が愚痴をこぼしていたところを、清正がたしなめたエピソードもあります。
福島正則の兜は黒田長政と交換したもの
福島正則を特徴付けるものの1つが、大きな角の付いた兜です。関ヶ原の戦いで奮戦した際にかぶっていたこの兜は、もともと黒田長政と交換したものでした。
交換する前、正則は後に長政のものとなる、背面に長方形の衝立が付いた兜を使っています。しかし朝鮮出兵の際に長政と意見が対立し不仲になった際、和解のしるしにお互いに兜を交換しました。
なお長政も関ケ原の戦いでは正則から譲り受けた兜をかぶって、石田三成軍と交戦しています。
福島正則の家族や子孫たちとは?家系図も一緒に紹介
豊臣秀吉配下の猛将として活躍した福島正則ですが、彼の家族や家系図については広く知られていません。父親も尾張の桶屋で身分が高くなかったこともあり、彼の祖先についてはほとんど話題に上らないほどです。
しかし桶屋の息子が大名にまで出世しただけあり、正則の弟や子孫は後の時代にも事績を残しています。福島正則の家系図を主要な親族とともに見ていきましょう。
福島正則の弟・高晴
福島正則の主要な親族が弟の高晴です。生まれは1573年で、兄の正則とは12歳も年が離れています。成長した高晴は兄とともに秀吉の配下として活躍しました。
九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵と兄と同じく秀吉の主要な戦役に参戦し、1594年には伊勢長島1万石の大名となっています。関ヶ原の戦いでも兄と同じく東軍に属し、戦後は大和の宇陀(うだ)松山(現在の奈良県宇陀市)3万石を領しました。
しかし大坂夏の陣の際、豊臣側への内通を疑われたために領地を没収されています。
福島正則の子孫は江戸幕府の旗本に
福島正則は安芸広島の大名から改易された後、1624年に世を去りました。亡くなる前に嫡男の忠勝に家督を譲ったものの、忠勝は1620年に父に先立って亡くなっています。
忠勝や正則の死後は、忠勝の弟・正利(まさとし)が家督を継いだものの、彼もまた38歳で死去しました。正利には子がいなかったために福島家は一時断絶します。
断絶から約50年後の1681年、忠勝の孫である正勝が江戸幕府の旗本として家を再興しました。そして正勝の子孫は旗本として仕え続け、明治維新を迎えています。
福島正則の現在の子孫は?
正則の現在の子孫は、教員を務める福島正秀氏です。正則が側室との間に設けた子の末裔で、正則から数えて13代目に当たります。
祖先にあたる側室の子は正則が広島藩を改易された際、信濃の高井野へと去る父とは異なり、引き続き広島で過ごしたとされる人物です。成長した後は広島で商人になったとされています。