今川義元は戦国時代に東海地方に君臨した大名です。今川家の最盛期を築いたことから、「海道一の弓取り」の異名でも知られています。

一昔前の義元には公家のイメージもありました。ただ実際は家督争いなどの苦難を多く乗り越え、領国経営にも腐心した人物でした。

今川義元の生涯や実績を深く知れば、義元の人物像を知る助けになります。本記事では今川義元の生涯について、人物像や家系図にも触れながら解説します。

今川義元は何をした人?彼の生涯を年表で紹介

まずは今川義元の生涯を、年表で簡単に見ていきましょう。

1519年 今川氏親の五男として駿河国にて誕生
1523年 出家・駿河国善得寺に入る
1536年 長兄の氏輝・次兄の彦五郎が急死、花倉の乱に勝利して家督継承
1537年 甲斐の武田信虎の娘・定恵院を妻に迎え、武田家と同盟
相模の北条氏綱に河東を奪われる(第一次河東一乱)
1540年 尾張の織田信秀に対抗すべく三河に侵攻
1545年 関東管領上杉憲政らと連携して北条氏康を圧迫(第二次河東一乱)
武田晴信の仲裁で河東を奪還
1548年 織田信秀軍を小豆坂の戦いで撃破。
三河の松平広忠の嫡男竹千代(後の徳川家康)を人質に
1549年 松平広忠の死を機に三河を領国化
1553年 『今川仮名目録』に条文を追加
寄親・寄子の制度を導入
1554年 甲斐の武田晴信や相模の北条氏康と甲相駿三国同盟を締結
1555年 太原雪斎の病死
1558年 今川家の家督を嫡男氏真に譲渡
1560年 尾張に出陣中に桶狭間にて織田信長の奇襲を受け討死、享年42

今川義元の生涯を節目別に解説

今川義元の42年の生涯は幼少時の出家から家督争い、領土拡大と実に激動の人生そのものでした。義元の歩んだ人生を詳しく見ていくと、彼の生き様についてより深く知ることができます。

義元の生涯について、彼の人生の節目ごとに見ていきましょう。

誕生と出家:太原雪斎との出会い

今川義元は1519年に、駿河・遠江の守護である今川氏親の五男として生を受けます。誕生時に「芳菊丸(ほうぎくまる)」と名付けられましたが、すでに長兄の氏輝や次兄の彦五郎といった兄たちがいたため、将来当主になる見込みはありませんでした。

4歳になった芳菊丸は、同じ駿河の富士郡にあった善得寺にて出家するとともに、兄弟子の太原雪斎と出会います。数年後には雪斎とともに上洛し、京都の建仁寺や妙心寺で修行や学問の日々を送りました。

芳菊丸は京都にいた頃に「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」と名を改めています。そして雪斎とは生涯のほぼ全期間を通じて、深い兄弟弟子や君臣の関係で戦国の世を生き抜いていくことになりました。

花倉の乱の勝利で家督を継承

京都で修行していた承芳は、1536年に父氏親の後を継いだ長兄の氏輝から帰国を命じられます。しかし帰国直後に氏輝が急死し、次期当主になるはずだった次兄の彦五郎も時同じくして亡くなりました。

長兄と次兄が男子を残さなかったため、家中では当主候補として承芳のほか、彼の異母兄・玄広恵探(げんこうえたん)が注目されます。ただ承芳は母親が父の正室だったこともあり、室町幕府も承芳を後継者と認めました。

しかし有力家臣の福島(くしま)氏が恵探を支持したため、花倉の乱が勃発します。承芳は還俗して「義元」と改名した上で、恵探と対決しました。家臣の多くが義元を支持したほか、関東の北条氏綱の支援も受けた義元は攻勢に転じ、ついに恵探を花倉城で倒します。

領国の拡大と甲相駿三国同盟

今川家を継いだ義元は、翌年に甲斐の武田信虎(信玄の父)の娘(定恵院)を妻に迎えるとともに、同盟を結びました。定恵院との間にはやがて嫡男の氏真(うじざね)が誕生します。

しかし武田家と同盟を結んだことで、武田家と敵対していた北条家が駿河東部を攻めて占拠してしまいました。また今川家が勢力を広げていた西の三河にも、尾張の織田信秀が侵攻してきます。義元は信秀に対抗するべく出兵し、以来織田家との長年の抗争に発展しました。

東西に敵を抱えた義元は、まず1545年に関東管領上杉憲政と手を結んで北条家に対抗します。北条家では氏綱が亡くなって間もなかったため、後を継いだ氏康は窮地に立たされました。結局武田晴信(後の信玄)の仲裁で、駿河東部を返還する条件で両家は和解します。

和解を機に三家の関係は次第に好転し、1554年には甲相駿三国同盟が成立しました。一方三河でも1548年から49年にかけて織田家に勝利し、三河を掌中に収めています。

内政でも優れた手腕を発揮

義元は内政でも優れた手腕を発揮しました。彼の内政面での代表的な功績が、1553年の分国法「今川仮名目録」の改正作業です。

今川仮名目録は父の氏親が制定したもので、義元は21条の条文を追加しています。中でも際立った特徴が「守護使不入」の撤廃です。守護使不入は室町幕府が各国に設けた荘園に、守護の役人が入れないようにする規則でした。義元は守護使不入の撤廃で幕府の影響力を排除しつつ、今川家が自立した戦国大名であることを世に知らしめています。

また領主である寄親と、有力農民である寄子の関係性を活かした寄親寄子制も義元によるものです。寄親が寄子を庇護する代わりに、寄子が寄親に尽くす関係性を活用することで、有事の際に大規模な兵力の動員を可能にしました。他にも金山開発や検地の実施などで税収入を増やす政策も行っています。

桶狭間で織田信長に受けた攻撃が死因

甲相駿三国同盟で後方を固めた義元は、西の尾張方面の攻略に力を注ぎました。1550年代後半になると、三河と尾張の国境を巡り織田信長(信秀の子)と争うようになります。

そして1560年5月、義元は自ら大軍を率いて尾張に出陣しました。緒戦で先遣隊が尾張国内の丸根・鷲津の両砦を落とした上、竹千代改め松平元康も前線基地の1つである大高城への兵糧運び入れに成功しています。

義元の本隊も尾張国内に入った後、沓掛(くつかけ)城を経て大高城に向かおうとしました。そして途中の桶狭間山で一時休息を取るべく滞在します。

しかし突如の豪雨の中を信長率いる部隊が義元の本陣を強襲しました。今川軍は分散していた上に、義元の本隊も休憩中だったため、義元はあっさり討たれてしまいます。

今川義元にまつわるエピソードや人物像を簡単に紹介


今川義元は多くいる戦国大名でも比較的知名度の高い武将です。しかし義元の人物像やエピソードのリアルなところは意外に知られていません。

近年の戦国時代史の研究が進展したおかげで、義元個人の性格についても様々なことが明らかになっています。中には以前よく見られたようなお公家さんのイメージとは程遠いものもあるため、知ってみると面白いです。義元の人物像やエピソードについて色々と見ていきましょう。

肥満体のお公家さんではなく文武両道の名将:「街道一の弓取り」の異名も

今川義元といえば、一昔前まで「肥満体のお公家さんかぶれな人」のイメージがありました。しかし実際の義元は「海道一の弓取り」とまで呼ばれた、文武両道の名将です。

個人的な武勇については、桶狭間の戦いでも襲撃してきた織田家の武者と渡り合った実績もあります。

加えて京都との関わりが深かったことから、高い教養を備えていたのも義元の特徴です。領国統治や他国との交渉で教養は欠かせなかった分、義元は文化も重視した人物と言えます。

出身も足利将軍に連なる名門

また今川義元は、出身が足利将軍に連なる名門でした。今川家の祖先は鎌倉時代に活躍した足利家3代当主の義氏で、彼の庶長子である吉良長氏の子・国氏が三河の今川荘の領主になったのを機に「今川」と名乗ります。

今川家は足利将軍家の血筋が途絶えた場合に備える家とも考えられていました。具体的には「足利将軍家が絶えた場合は吉良家が、吉良家も絶えた場合は今川家から将軍を出す」とされました。

徳川家康との関係性

江戸幕府を開いた徳川家康は、少年時代を義元のもとで人質として過ごしたことで有名です。人質だった頃の家康は、義元の軍師・太原雪斎の教えを受けて成長します。

義元も家康との関係性を重視していました。1557年には今川一門の築山殿を正室に迎えたことから、今川家に近い存在とみなされます。加えて家康が元服した際も、義元の「元」の一字をもらって「元信」や「元康」と名乗りました。

今川義元の家紋とは?


今川義元には家紋が2種類ありました。1つ目は「今川赤鳥紋」と呼ばれるもので、上側に丸い口が1つ、下側に6つの歯があるのが特徴です。義元など今川家歴代の当主が本陣に赤鳥を模した馬印を立てていたことに由来します。

もう1つは「丸に二つ引両」です。室町幕府を開いた足利家と同じ家紋であることから、今川家が足利一門に名を連ねていることを示しています。

今川義元の家系図を紹介


今川義元が駿河の有力大名の出身であることは有名です。ただ義元の家系図や家族に誰がいるのかは意外と知られていません。

義元の家系図を見ながら、彼の家族について知っていると、今川家の歴史について知る上で役に立ちます。今川家の家系図については以下の図を参照してください。

同時に義元の家族で有名な人物として、息子の氏真と母親の寿桂尼を紹介します。

今川氏真:義元死後に今川家を継承

義元の息子である今川氏真は、1538年に義元と彼の正室・定恵院との間に生まれました。1560年に義元が桶狭間で戦死すると、今川家の当主になります。

しかし義元を失った今川家中は混乱し、徳川家康など離反者も相次ぎました。1568年には武田信玄の侵攻も始まり、ほとんどなすすべなく大名の今川家は滅びます。

今川家滅亡後は各地を流転しましたが、やがて天下人となった家康の庇護を受けました。氏真の子孫たちも江戸幕府の高家として朝廷との交渉を担当しています。

寿桂尼:義元や氏真を陰で補佐した強き母

寿桂尼は義元の生母です。京都の公家である中御門家の生まれで、まもなく義元の父・氏親に嫁ぎます。氏親が亡くなる数年前から政務を代行したり、氏親死後に家を継いだ氏輝を後見したりするなど、早くから領国政治に関与しました。

義元が当主になった後は、駿河にやって来た各国の人質の対応に力を尽くしています。しかし義元の死後は氏真の先行きが不安という理由で、再度政務に関与しました。「女戦国大名」の異名の女傑でもあり、武田信玄も彼女の存命中は駿河を攻めようしなかったほどです。

今川義元の城とは?


今川義元の城は、現在の静岡県静岡市葵区にあった駿府館(今川館)でした。義元の祖先である今川範国(のりくに)らが、14世紀に室町幕府から駿河と遠江の守護職を任命された際に本拠として造営します。

駿府館は今川家の本拠として機能し続けましたが、武田信玄の駿河侵攻で焼失しました。その後徳川家康が新たに駿府城を築いて自らの居城としています。

近年の駿府城本丸での発掘調査で今川家時代の陶磁器なども出土していて、駿府館が本丸付近にあった可能性も出てきました。