真田家は戦国時代でも有名かつ人気が高い武将がいる一族です。真田信之の父の昌幸は徳川家康も恐れたと伝えられている智将で、2度も家康を自害寸前まで追い込みました。弟の幸村も大阪夏の陣において家康の本陣まで攻め込んだ強者。

真田信之の父 昌幸と弟 幸村の話は有名ですが、実は真田信之も91歳まで現役だった戦国時代における「レジェンド」です。

信之は信濃上田藩初代の藩主となり、その後、信濃松代藩の初代藩主にもなりました。戦国時代は短命な人が多い中、信幸は91歳で現役を退いた後、93歳まで生きた武将です。

真田家を存続させるという父、弟の思いを背負い厳しい時代を生き抜いた真田信之の生涯を紹介します。

真田信之の出自

真田信之は武藤喜兵衛(後の真田昌幸)と山手殿の間に長男として生まれました。父の昌幸は三男だったため、武田家の親類衆「武藤家」を継承していたのですが、長篠の戦において昌幸の兄「信綱」「昌輝」が戦死したことで、真田姓に復姓し家督を継ぎました。

父昌幸と共に武田家の家臣として活躍していましたが、武田信玄が1573年に病死し武田家は衰退します。息子の武田勝頼は織田・徳川連合軍に攻め込まれ自害し、武田家は滅亡してしまいました。主君を失った父昌幸は、武田家滅亡によって同じく主君を失った仲間たちと共に、織田から北条、上杉に家康、秀吉と主君を変えて生き残ってきました

信之は智将と呼ばれた父と共に、戦乱の世の中を必死に生きていたのです。

第一次上田合戦での活躍と結婚

仕官先を転々としながらも、真田家は実戦経験に長けており、信之も戦では活躍を見せていました。第一次上田合戦では、徳川7,000の兵に対し、昌幸の籠城で敵をおびき寄せたところへ信之隊の火縄銃や矢による急襲で撃退しました。

こうした他の武将が考えつかないような策を思いつくのが、父の昌幸です。信之はこうした父の奇策を幾度となく経験し、戦のノウハウを得ていきました。

この勝利によって真田家の名は広く知られるようになり、徳川家康にとっては「敵にしたくない」存在となったのです。家康は真田家と少しでも良好な関係を築けるようにと、自分の重臣である本田忠勝の娘「小松姫」を信之に嫁がせました。

犬伏の別れ「父昌幸と弟幸村」との別れ

真田家は第一次上田合戦後、家康の元から離れ、天下人「豊臣秀吉」の家臣となっていました。信之は秀吉の北条攻め「小田原の役」において功績をあげ、恩賞として沼田領を取り戻しました。(かつて真田と北条で領有権を争っていたエリア)

しかし豊臣秀吉が亡くなり、豊臣家の内部分裂によって関ヶ原の戦いが勃発し、真田家は大きな決断を迫られることになります。

関ヶ原の戦いの前に、父昌幸、弟幸村と共に「犬伏」の薬師堂で話し合いを行いました。徳川家康が率いる東軍に着くのか、それとも石田三成が率いる西軍に着くのか、会議を行ったのです。ここまで、親兄弟で力を合わせ「真田家」として戦国の世を生き抜いてきましたが、今回はそう簡単に決めることができません。

信之の正室は徳川の家臣本田忠勝の娘「小松姫」であり、幸村の正室は石田三成の親友であった大谷吉継の娘です。そこで真田家として下した結果が、信之は徳川方へ、昌幸・幸村は三成方へというものでした。真田家を存続させるために敵味方になるという決断は、後に「犬伏の別れ」として語り継がれています。

第二次上田合戦「父・弟との戦い」

関ヶ原の戦いにおいて信之は、徳川家康の息子「秀忠」の軍に入り、関ケ原の戦いの途中、国元である「上田城」を攻めることになりました。そこには父「昌幸」がいます。信之にとって辛すぎる「第二次上田合戦」でした。

策士昌幸は一旦「無血開城」すると見せかけ、一転籠城作戦に出ます。秀忠は怒り狂い攻めかかりますが、結局昌幸の策に翻弄されるのみで、上田城を攻め落とすこともできず、なおかつ関ケ原の戦いに遅刻しました。

一方、弟の幸村は上田城の支城である「戸石城」を守っていましたが、信之が説得し開城しています。そのため、兄弟対決により血が流れることはありませんでした。

しかし関ケ原の戦いは東軍勝利となったため、西軍の昌幸と幸村は窮地に立たされます。信之は命だけはなんとか助けてほしいと家康に懇願し、結果、高野山・九度山への流罪となりました。真田昌幸の遺領は信之に与えられたため、結果的に「真田家」は生き延びたのです。

関ケ原の戦い後の信之

関ケ原の戦いが終わり、信之は上田藩主となって戦や浅間山噴火によって荒廃した領地の復興に力を尽くしました。このとき信之は、年貢の減免・用水整備・城下町の拡張など、様々な功績を残しています。

また高野山・九度山で流罪となった父昌幸と弟幸村への援助も続けました。しかし徳川家と豊臣家の状態が悪化し、1614年には大阪冬の陣が、1615年には大阪夏の陣が始まります。弟の幸村は九度山を脱出し、豊臣方として戦いました。

家康本陣まで攻め込むほどの強者ぶりを発揮しましたが、越前・松平隊に加え井伊直孝の軍勢の加勢もあり、幸村の真田隊は撤退しかなくなります。幸村は四天王寺近くの安居神社境内の木にもたれ身体を休めていたところを、越前・松平隊の鉄砲組に発見され討ち取られした。

信之は大阪夏の陣・冬の陣共に病気で参戦していません。元々病気がちだったといわれている信之ですが、弟との戦いを避けるために病気としたのではないかといわれています。

真田信之の死

真田信之は厳しい戦国の世にあって、93歳という長い年月を生き抜きました。上田藩から松代藩に転封し、91歳まで松代藩主として役割を果たしています。

これほど長く藩主を務めたのは、信之が居座ったわけではなく、江戸幕府に隠居を何度願い出ても引き留められたからといわれています。徳川将軍家の中に、戦国時代を知る生き字引のような信之を尊敬するものが多かったようです。特に、徳川家康の十男であった「徳川頼宜」は信之をしたい、話を聞きたがったと伝えられています。

91歳になりようやく次男の真田信政に家督を譲ることができました。信之は93歳で亡くなっています。信之は親兄弟と敵味方になっても、真田家を守り抜き存続させたのです。

真田信之が成したこと

真田家を存続するために家康から信用を勝ち取った

真田家を存続させるために、関ケ原の戦いで父・弟と敵味方となった信之ですが、その後、徳川家康から信頼を勝ち取るためにいろいろと苦労があったようです。

九度山に流罪となった昌幸と信幸に対し、仕送りをするなど気を配っていた信之ですが、家康の信頼を裏切らないようにとかなり気を使っていました。昌幸が亡くなり葬儀をする際にも、幕府に伺いを立てたほどです。

大坂の陣で幸村との内通に関して、厳しく詮議したのも、家康の信頼をゆるぎないものとするためでしょう。財政が苦しい中でも、幕府から命令されればコツコツと命令をこなし、信用を少しずつ積み上げていきました。

そしてその結果、信濃国の要塞の要である松代13万石の加増転封となったのです。

真田として所領安堵を勝ち取った

関ヶ原の戦いで西軍、石田三成軍へついた父昌幸と弟幸村は敗軍の将となって九度山へ流罪となります。信之は徳川方の敵となった父と弟を持つ武将でしたが、その後、徳川家康の信頼を勝ち取りました。

関ヶ原の戦いのあと信之は、父の所領であった上田領を全て引き継ぎ、家康から新たに沼田領3万石を受け取っています。徳川譜代の大名は各地に派遣となり、旧領主は一旦移封や改易となっていますが、真田信之だけは多大なる領地を得ました。つまり信之だけが所領安堵を得たということです。

上野国・信濃国の発展に尽力

関ヶ原の戦いのあと、上田城は本丸・二の丸などの中心部が破却されました。それでも信之は藩主屋敷の建築や城下町の拡張整備などに精を出します。上田の城下町は信之の時代にほぼ完成したのです。

年貢が苦しく農民が逃亡しないように、年貢の減免措置を行ったり、農作放棄地を減らす政策を打ち出したり、さらには用水堰の開削や築造も行い、農村についても多数の改革を行いました。

その後、信濃国松代に転封となってからも、藩政の整備や農村政策、新田の開発や城下町建設に励んだといわれています。

真田信幸から信之となった理由

犬伏の別れによって父昌幸・弟幸村と行動を別にし、東軍西軍に別れて戦うことになった信之は、大きな覚悟を持って徳川方に入ったと思います。

信之は元々「真田信幸」でした。しかしのちに「信之」と改めています。これは家康の敵軍となった父「昌幸」の「幸」という文字が信幸と同じであることから、「信之」に改名したといわれています。

真田家で「幸」を使うのは当主だけだったそうで、信幸は当主となるはずでしたからこの名はふさわしかったはずです。しかし信之は家康のもとで武将として生きていく決心をしたのですから、その意志を「幸」を捨てることで表したといえるでしょう。

真田信之は家を守り真田幸村は名を遺した

信之は93歳まで生き、真田家をしっかりと存続させました。当時家を守るということは、多数の家来を養うことでもあり、その家族を守っていくことになります。また城下にいる領民も守らなくてはなりません。

戦国時代では戦によって名を残すことも大切でしたが、家を守ることも重要なことでした。その両方を叶えたのが「真田家」といえます。

関ヶ原の戦いで敵となった弟幸村は、父と共に九度山に幽閉されながらも抜け出し、大阪の陣で家康の本陣まで攻め入るという戦いを見せ、「真田幸村」という名を後世に残しました。

信之は智将である父の「昌幸」、ヒーロー的存在の「幸村」と比較するとネームバリューは薄いのかもしれません。しかし「真田」という家を存続させたという大功績を成し遂げたのは「信之」でした。真田信幸は家を守り、真田幸村は名を残したのです。