鎌倉時代は今までの時代とは大きく異なっていた、まさしく「激動の時代」でした。
日本初の武士主導の政治、貿易の活発化による経済の発展、文化の庶民化など、さまざまな変化がありました。
本記事では「鎌倉時代」に起きた出来事や当時の社会について幅広く解説します。
鎌倉時代とは
鎌倉時代とは、源頼朝が鎌倉幕府を開いてから、反乱により幕府が倒れるまでの約150年間のことです。実際に何年を始まりとするかは議論が分かれています。かつては「1192年(いいくに)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えていましたが、現在は東国支配権を得た1183年説、守護・地頭を設置した1185年説が有力です。
鎌倉時代の前、平安時代までは朝廷が政治を支配していましたが、鎌倉時代では日本初の「武家政権」による統治が行われました。また、平安時代までは政治は「京都」で執り行われていましたが、鎌倉時代にはその名の通り関東の「鎌倉」が政権の中心地になります。
鎌倉時代の年表
年代 | 出来事 |
---|---|
1183年 | 源頼朝が東国の支配権を朝廷から承認される。 |
1185年 | 守護・地頭を設置する。 |
1189年 | 源義経が奥州平泉にて自害。 「奥州合戦」で頼朝が奥州藤原氏を討伐する。 |
1192年 | 源頼朝が征夷大将軍に就任する。→鎌倉幕府の成立 |
1199年 | 源頼朝死去。「十三人の合議制」が敷かれ、妻の北条政子による政治がはじまる。 |
1202年 | 源頼家が2代将軍に就任。 |
1203年 | 源実朝が3代将軍に就任。 北条時政が初代執権に就任。 |
1205年 | 北条義時が2代目執権に就任。→北条氏による執権政治のはじまり |
1213年 | 「和田合戦」で御家人・和田義盛が没落。 |
1219年 | 実朝が公暁により暗殺される。(源氏の正統断絶) 事実上北条政子が幕府を執り仕切る。 |
1221年 | 後鳥羽上皇が北条義時追討を命令。(=承久の乱) 京都に六波羅探題を設置。 |
1224年 | 北条義時死去。北条泰時が3代執権に就任。 |
1225年 | 評定衆の設置。 |
1226年 | 藤原頼経が4代将軍に就任。 |
1232年 | 北条泰時が御成敗式目を制定。 |
1242年 | 北条経時が4代執権に就任。 |
1244年 | 藤原頼嗣が第5代将軍に就任。 |
1246年 | 北条時頼が5代目執権に就任。 |
1247年 | 宝治合戦で三浦泰村が滅ぶ。 |
1249年 | 引付衆の設置。 |
1252年 | 宗尊親王が第6代将軍に就任。 |
1253年 | 日蓮宗が立教開宗。 |
1256年 | 北条長時が6代目執権に就任。 |
1264年 | 北条政村が7代目執権に就任。 |
1266年 | 惟康親王が第7代将軍に就任。 |
1268年 | 北条時宗が8代目執権に就任。 |
1274年 | 元軍が北九州に再び襲来(文永の役)元寇1回目 |
1276年 | 北九州の海岸に若望を築く |
1281年 | 元軍が北九州に再び襲来(弘安の役)元寇2回目 |
1284年 | 北条貞時が9代目執権に就任。 |
1285年 | 霜月騒動で得宗(北条氏嫡流)専制体制が確立。 |
1289年 | 久明親王が第8代将軍に就任。 |
1293年 | 博多に鎮西探題を設置する。 |
1297年 | 御家人の救済のため、永仁の徳政令を発布。 |
1301年 | 北条師時が10代目執権に就任。 |
1308年 | 守邦親王が第9代将軍に就任。 |
1311年 | 北条宗宣」が11代目執権に就任。 |
1312年 | 北条煕時が12代目執権に就任。 |
1315年 | 北条基時が13代目執権に就任。 |
1316年 | 北条高時が14代目執権に就任。 |
1318年 | 後醍醐天皇が即位する。 |
1321年 | 後醍醐天皇による親政が開始。 |
1324年 | 正中の変が起きる。 |
1326年 | 北条貞顕が15代目執権に就任。 北条守時が16代目執権に就任。 |
1331年 | 後醍醐天皇が倒幕を企てる。(=元弘の乱) |
1332年 | 元弘の乱(倒幕計画)の失敗により、後醍醐天皇が隠岐に配流 |
1333年 | 後醍醐天皇が再び挙兵。足利尊氏・新田義貞らが北条氏を滅ぼす=鎌倉幕府の滅亡 |
鎌倉時代の主な出来事
承久の乱
1221年、幕府による支配体制に不満を持っていた後鳥羽上皇は、上皇中心の政治を求め京都で討幕を掲げ兵をあげます。
この時の京都は源平の争乱からの復興も進み、朝廷が勢いを取り戻していました。西国の御家人を束ね挑みますが、東国の御家人の兵力に敵わず惨敗という結果で終わりました。
この乱を機に幕府は京都に「六波羅探題」を設置。朝廷の監視や西国の御家人を指揮する組織を置いたことで、幕府の支配力は西国にも及ぶことになります。
はじめての武家法「御成敗式目」が制定
1232年、北条泰時によって「御成敗式目」が制定されました。この法典では武士の土地に関する裁判の基準を示しており、おもに武士社会の慣習や道徳、幕府の先例などを取り入れ作られました。
御成敗式目が制定された大きな理由は、全国の御家人とのルール統一です。 式目が制定される前は、何か法的な揉め事が起こると慣習や道理をもとに解決していました。しかし、承久の乱以降支配下になった西国の御家人とは慣習が異なっており、幕府から派遣した地頭と荘園主の揉め事が頻発するようになります。この問題を解決するため、幕府発布の式目が作られたのです。
元寇
「元寇」とは、国号を「元」と改めたモンゴル帝国による2度の日本侵攻を総称した呼び名です。1度目は1274年の文永の役、2度目は弘安の役と呼ばれています。
文永の役では大軍で押し寄せてきた元に対し日本の武士は苦戦を強いられますが、元側も海を渡っての不慣れな戦いだったため一度兵を引き上げます。
この戦いの教訓をもとに日本では元への対策がされ、弘安の役では接戦を繰り広げました。さらに元軍は大豪風雨により大損害を受け日本から撤退。この時の暴風雨が「神風」の由来になっています。
霜月騒動
元寇後、御家人へ渡す恩賞で問題が起こります。
- 今までは奪った土地を恩賞として御家人に賜っていましたが、今回は外国相手だったため土地を奪えず、御家人に恩賞を渡せない事態が発生してしまいました。この問題を解決するために9代執権北条貞時と有力御家人の安達泰盛は幕政改革に乗り出しますがうまくいかず、反対した得宗被官の平頼綱により安達泰盛は滅ぼされてしまいました。
この事件をきっかけに幕府内での有力御家人の権力は衰退し、得宗と呼ばれる北条氏家系出身者のみが力を持つ「得宗専制」が始まります。後醍醐天皇の倒幕計画
後醍醐天皇は幕府による支配体制に不満を持ち、討幕することを決意します。その結果起こったのが「正中の変」と「元弘の乱」です。
「正中の変」は討幕計画が幕府に漏れてしまい未遂に終わりますが、その後後醍醐天皇は再び討幕計画を実行に移します。「元弘の乱」のはじまりです。この時、討幕に同意した武将・楠木正成も挙兵しました。 幕府軍の力は強く、後醍醐天皇は捕まり隠岐に流されてしまいます。しかし楠木正成は降伏せず、何ヶ月もの間幕府軍と戦いました。
この間で幕府に反旗を翻す者、幕府軍から寝返るものが現れ、形勢は逆転。足利高氏、新田義貞らの活躍により鎌倉幕府は滅亡することになりました。
鎌倉幕府について
鎌倉幕府とは、源頼朝によって開かれた初の武家政権です。 - 平安時代までは貴族が政治の実権を握っており、武士は大きな力を持っていませんでした。しかし、「平清盛」が太政大臣に就任したことをきっかけに、武士の政界進出が見られるようになります。
源頼朝がどのように幕府を立ち上げたのか、そしてなぜ鎌倉幕府は滅亡してしまったのかこの項目で解説します。鎌倉幕府が開かれた理由
平清盛による政治に不満を抱いていた皇子・以仁王(もちひとおう)は源頼政(みなもとのよりまさ)とともに平氏打倒を掲げます。それに呼応したのが、当時伊豆にいた源頼朝でした。
頼朝は兵を挙げると、東国にいた反平氏勢力を束ね勢力を拡大します。最終的には数万騎の軍勢となった源氏側は拠点を鎌倉に移しました。
頼朝は1183年に朝廷から実質的な東国の支配権を得たことで、大きな経済基盤を獲得します。一方の平氏は飢饉の影響や家臣の離反により軍事力が衰えてしまい、壇ノ浦の戦いで滅亡しました。平氏滅亡後起こったのは、頼朝と弟・義経の対立でした。頼朝は平氏討伐の際、安徳天皇と天皇家に伝わる三種の神器の保全を最優先にしていました。しかし義経はどちらも達成することができなかったため、頼朝に目の敵にされてしまいます。
面会すら行わない頼朝に対し義経は痺れを切らし、朝廷に迫り頼朝討伐の宣旨を出させました。しかし義経は頼朝の返り討ちにあってしまうのです。
頼朝は逃亡した義経を捕えることを名目に、1185年に守護・地頭の設置権を獲得。これにより頼朝は全国の軍事支配を達成しました。その後義経は奥州で死去。頼朝は1192年に征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府は誕生しました。
鎌倉時代はなぜ終わったのか
鎌倉時代が終わってしまったのは、「元弘の乱」により鎌倉幕府が滅亡したためです。鎌倉幕府から後醍醐天皇側に寝返った御家人も多く、幕府はあっけなく滅亡してしまいます。
鎌倉幕府が斃れた最も大きな理由は、得宗専制政治による御家人の不満です。
得宗専制により北条氏嫡流の家人である御内人が贔屓されるようになり、御家人の意見は軽視される傾向にありました。元寇の際も、懸命に戦った御家人達には十分な恩賞が与えられず、困窮した御家人から不満の声があがります。幕府側は救済措置として徳政令などを出しましたが効果は一時的なものに過ぎませんでした。「元弘の乱」をきっかけに社会全体が大きく変わりました。
元寇以降、御家人だけでなく朝廷も困窮していたため、反抗する力を持っている勢力はないだろうと幕府は油断していたといいます。しかし、楠木正成や足利高氏が幕府に勝利したことで反幕府の機運が高まり、あっという間に討幕勢力が拡大しました。困窮による社会情勢の変化を読み取ることができなかったことも、北条氏の敗因のひとつと言えるでしょう。
鎌倉時代の主要人物
- ここでは鎌倉時代を解き明かす上で欠かせない主要人物を紹介します。
・歴代将軍一覧
・歴代執権一覧
・そのほかの主要人物鎌倉幕府の歴代将軍
将軍名 在位期間 初代 源頼朝 1192年~1199年
鎌倉幕府の初代征夷大将軍。2代 源頼家 1199年〜1203年
「十三人の合議制」を敷かれ御家人らに権力を奪われる。3代 源実朝 1202年~1219年
鶴岡八幡宮で暗殺されこれ以降鎌倉幕府の源氏将軍は断絶。4代 藤原頼経 1226年~1244年
摂関家を歴任した九条道家の三男。5代 藤原頼嗣 1244年~1252年
6歳で就任するも14歳で追放され18歳で死去。6代 宗尊親王 1252年~1266年 7代 惟康親王 1266年~1289年
3歳で将軍就任。8代 久明親王 1289年~1308年 9代 守邦親王 1308年~1333年
鎌倉幕府滅亡後は出家する。その他の主要人物
将軍や執権に就いた人以外にも、鎌倉時代を語るうえで欠かせない人物を紹介します。
◆源義経
初代将軍・源頼朝の弟です。源平合戦では大きな活躍を見せ、数々の逸話が残っています。頼朝に命を狙われ奥州に逃げますが、仲間の裏切りにより亡くなりました。◆梶原景時
源頼朝の側近として活躍した有力御家人です。鎌倉幕府成立後は「十三人の合議制」に加わりますが、他の御家人との対立により鎌倉を追われてしまいました。◆北条政子
源頼朝の正妻であり、執権政治の礎を築いた人物です。一時は実質的に将軍職を担当し「尼将軍」と呼ばれました。承久の乱の際に行なった演説が有名です。◆和田義盛
「十三人の合議制」メンバーの一人です。3代将軍実朝からも信任も篤い人物でしたが、2代執権義時と対立し、和田合戦にて討死しました。◆三浦義澄
源平合戦時には頼朝に従い、壇ノ浦の戦いや奥州合戦に参戦し功労を挙げました。幕府成立後は甥の和田義盛とともに「十三人の合議制」の一員になります。鎌倉時代の政治
鎌倉時代の政治の特徴は、実際の権力を持っていたのは将軍ではなく、執権をはじめとする有力御家人達だったという点です。執権・北条氏が先導する「執権政治」は鎌倉時代を象徴する制度といえます。幕府成立直後の支配が徐々に全国まで広がると、統率するための諸制度が整備されました。
この項目では「執権政治」の成り立ちや制度に関する解説をはじめ、貿易など国際関係について幕府が行なった諸政策を紐解きます。
鎌倉時代に行われた「執権政治」とは
執権政治とは、北条氏が「執権」という地位で幕府の権力を掌握し行なった政治のことです。
初代将軍・源頼朝によって開かれた鎌倉幕府でしたが、7年後には頼朝が亡くなってしまいます。家督を継いだ源頼家は統率力がなく、将軍や御家人の間での紛争が絶えず起こるようになり政治基盤が不安定になりました。
ここで登場したのが頼家の実母・北条政子と、政子の父・北条時政です。北条氏は頼家の独裁を阻止するため、「十三人の合議制」という組織を作り、有力御家人による合議制政治を採り入れました。その後頼家は出家を理由に伊豆に幽閉され、何者かによって暗殺されてしまいます。3代将軍に就任したのは、当時わずか12歳だった源実朝でした。実朝の就任とともに北条時政は「執権」を称し、幕政を掌握するようになります。
2代目執権の北条義時の代には朝廷が幕府に反旗を翻し、「承久の乱」が起こります。北条政子の呼びかけにより多くの御家人が集まり、この乱では北条氏が圧勝しました。承久の乱の勝利を機に、幕府による全国支配の体制を構築していきます。その後、北条氏は幼い藤原氏家系の将軍や皇族の将軍を立て、執権として幕府の実権を握る執権政治を本格化させます。
3代目執権の北条泰時の代で諸制度が整備され、執権政治は確立されました。
守護・地頭の設置
鎌倉幕府が成立するとすぐに設置されたのがこの「守護・地頭」です。守護・地頭を設けたのは鎌倉幕府の支配を全国に広める目的がありました。
「守護」は各国ごとに配置され、主に軍事や警護を担当。地頭の管理も守護が行なっています。
「地頭」は貴族や寺社の私有地である「荘園」ごとに設置され、税の取立てや近隣の治安維持を担当しました。守護・地頭の設置が決定したのは1185年ですが、実際は朝廷や寺社の勢力に押され、西国側では守護・地頭は思うように配備することができなかったようです。西国にも守護・地頭を設置できるようになったのは1221年の承久の乱の後でした。
その後、北条泰時が定めた「御成敗式目」により守護の職務が正式に定められました。書かれていた内容は以下の通りです。
1.大番役(鎌倉・京都での警固のこと)の招集、指揮監督
2.謀反人の捜査、逮捕
3.殺害人の捜査、逮捕
これらの権限は「大犯三箇条」と呼ばれ、守護は地域の警察を司る管理官としての地位を確立しました。この内容は室町時代まで引き継がれています。外交政策
鎌倉時代の主な外交といえば、平安中期から続けられていた「日宋貿易」です。 日宋貿易は平清盛が始め、その後鎌倉幕府になった後も民間で継続的に行われていました。宋からは香料や経典、刀剣、漆器などが輸入されています。 最も多く輸入されていたのは「宋銭」。銅でできている宋銭は、当時仏具の材料として輸入されていたようです。平清盛はここに目をつけ、宋銭を大量に輸入し、日本全体に流通させました。
鎌倉時代には貨幣流通がさらに加速し、納税を金銭で行う人々も増えていったのです。 宋文化も多く輸入されました。僧侶などの来日により、宗教、仏像、建築などに宋の影響が見られるようになります。
また、鎌倉時代中期以降になると、宋を滅した「元」との交易が行われました。元寇などがあったことから仲が悪いイメージがありますが、元は日本との朝貢貿易を求めていたため、積極的な貿易を望んでいました。そのため、元寇前後も貿易面では引き続き交流が図られています。 しかし、元寇の際には元側の官吏が日本商船に高い関税をかけたり乗員に不当な圧力をかけていた事例もあったようです。 日元貿易に関する史料があまり残っておらず、当時の様子などはあまりはっきりしていません。
鎌倉時代の経済
鎌倉時代の経済の最たる特徴は、貨幣経済が庶民にも広まっていったことです。 平清盛の時代から日宋貿易は積極的に行われるようになり、宋銭(宋で使われる貨幣)が大量に流入。貨幣経済は都市はもちろん農村にも広がっていきました。物々交換によって行われていたやりとりが、貨幣中心に切り替わっていったのです。
市場の発展と徳政令
貨幣経済の発展により、市場もさかんに開催されるようになります。市場が栄えたのは、庶民の間で手工業がさかんに行われ、さまざまな工芸品が出回るようになったことも関係しています。
こうした背景のもと、貨幣の取引、貸付を行う金融業者も現れます。 御家人の中には自分の持っている土地を担保にお金を借り、そのまま土地が返ってこないケースも見られるようになりました。こうして土地を奪っていき栄えた人を政府は「悪党」と呼んでいます。悪党は力をつけ、後に鎌倉幕府を倒す勢力へと成長していきました。 政府は御家人による土地の売買を禁止しますが、困窮していた御家人にはあまり効果がなかったようです。
売買により土地を失った御家人たちのため、無償でその土地を戻すことを認めた「徳政令」を発布しますが、一時的な効果しか得られませんでした。
鎌倉時代の宗教
この項目では鎌倉時代に広まっていた宗教の特徴について取り上げます。 - 農民、武士には主に仏教が親しまれていました。地域によって宗派の違いはありましたが、主に信仰されていたのは鎌倉時代以降新たに生まれた「鎌倉新仏教」です。 平安時代に生まれた天台宗、真言宗などの旧仏教を修めた僧侶らによって新たに派生しました。 また、鎌倉末期には神道でも新たな教えが生まれています。 それぞれ項目で特徴を確認してみてください。
鎌倉新仏教の登場
鎌倉時代に新しく成立した仏教6つを総称して「鎌倉新仏教」と呼ばれています。
それぞれの特徴について表にまとめました。宗派 開祖 教義の特徴 浄土宗 法然
(ほうねん)難しい教えや苦しい修行は必要なく、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで良いという教え。 浄土真宗 親鸞
(しんらん)人間は皆悪人であるという「悪人正機説」を説く。阿弥陀如来の本願は悪人の救済であるとし、救われるためひたすら念仏を唱えよという教え。 時宗 一遍
(いっぺん)万人は念仏を唱えていれば男女や身分にかかわらず救われると説いた。踊りながら念仏を唱える「踊念仏」が特徴。 日蓮宗 日蓮
(にちれん)法華経こそ唯一の釈迦の教えであり、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えれば救われると説いた。 曹洞宗 道元
(どうげん)ただひたすら座禅を組むことで悟りに到達することができると説いた。俗世に目を向けず、ただ修行に臨むことを教えとした。 臨済宗 栄西
(えいさい)坐禅を組みながら、師から与えられた問題を1つ1つ解決すれば、悟りの域に到達することができると説く。 鎌倉新仏教の特徴は、主な支持層が武士や農民といった庶民だったことです。厳しい修行や難しい教えがない点や、座禅をする、念仏や題目を唱えるだけで救われるという手軽さから庶民層に瞬く間に広がりました。
当時は戦乱や飢饉により人々は苦しい生活を強いられており、仏の教えも廃れてしまう「末法」という時代が近づいていると考えられていました。こうした背景から民衆は新たな教えに救いを求めていたのです。庶民の中では鎌倉新仏教が盛り上がっていましたが、社会権力を握っていたのは鎌倉時代以前から栄えていた「天台宗」や「真言宗」を中心とした旧仏教の勢力でした。
特に天台宗は後醍醐天皇の倒幕計画に参加していたり、室町時代に入ってからは足利尊氏に協力し「建武式目」の制定にも携わっています。神道
鎌倉時代は仏教の印象が濃いですが、神道信仰もありました。鎌倉時代末期には伊勢神宮の神職をしていた渡会氏(わたらいし)らによって伊勢神道が唱えられます。
武家政権となり朝廷の権力が薄まると、朝廷に支えられていた神社は力を失っていきます。そうした中で神社の権威を取り戻そうと伊勢神道は作られました。
鎌倉時代以前の宗教観は「本地垂迹説」(ほんじすいじゃくせつ)が中心でした。本地垂迹説とは、古来日本に伝わる八百万の神々は、実は様々な仏様が化身になり日本に現れたとする考えで、神と仏は同一であると定義されています。 しかし伊勢神道は本地垂迹説とは反対の立場をとり、排仏を強く押し出しています。儒教・道教思想も取り入れた初めての神道でした。
鎌倉時代の文化
鎌倉時代の文化は、優雅な貴族文化が継承されつつも、武士・庶民たちによる素朴な新しい文化が醸成されていきました。貴族支配による伝統が残るなかで武士が権力を強めていった時代性を反映しているといえるでしょう。この項目では鎌倉時代に生まれた庶民による文化を中心に紹介します。
手工業、農業の発展
鎌倉時代には農業の生産力が向上し、新たに手工業が盛んに行われました。
農業では、鉄製の農具が普及。また牛や馬が土地を耕す「牛馬耕」の手法も広がり、産業効率が上がっていったとされています。技術の向上によって農業に多くの時間を割く必要がなくなり、農民は副業として手工業を始めるようになります。農産物を使った布や糸、紙などが中心でしたが、そのうち手工業を専門に行う職人が現れ、手工業品は商品として市場に多く出回り始めました。
手工業品が商品化すると、商業活動も活発になります。月に何度か行われる定期市が開かれ、京都では常設店も見受けられるようになります。手工業品だけでなく年貢米や各地の特産物も流通しました。
市場が賑わっていた様子は当時の絵巻物などから把握することができます。貨幣経済が発展していたこともあり、身分や職業にかかわらず多くの人が利用する場でした。
貴族文化から庶民派文化へ
武家政権の中で生まれた文化は今までと異なっていました。
文学面では武士が主人公の「軍記物語」が生み出されました。「祇園精舎の鐘の声」の冒頭で知られる『平家物語』もこの時期書かれています。これらの物語は琵琶法師によって日本国中に語り広められ、武士の自信をつけていました。
学問に力を注ぐ武士も現れ、幕府の成立や歴史を記した『吾妻鏡』も編纂されました。『吾妻鏡』は当時の様子を知る史料として現代でも重要視されています。
鎌倉時代には民衆向けの絵巻物も増え、武士の生活を描くものや、戦乱に関するもの、仏法説話をまとめたものなどが多く出されています。特に仏法説話に関する絵巻物は民衆に教えを広めるため多く制作され、寺社へ奉納されているものも多いです。
鎌倉時代以前に建てられた寺社、仏像の修繕もこの時代に進められました。源平合戦により各地の寺社は荒廃してしまったため、僧侶の尽力により各地の復興が進められています。 当時の仏像や絵画は、写実性の強いタッチが好まれるようになります。写実的な表現が使われるようになったのは、当時積極的に貿易を行っていた宋国の文化が流入したためでしょう。
鎌倉時代の建築物
日宋貿易がさかんだった鎌倉時代は、建築様式についても宋の影響が多く見られます。
写真:東大寺南大門(奈良県奈良市)
たとえば、奈良県の「東大寺南大門」は、再建を務めた重源が南宋から伝えた大仏様(だいぶつよう)という建築様式が採用されています。豪快な造りが特徴的です。
写真:円覚寺(神奈川県鎌倉市)
鎌倉に建てられた「円覚寺」は、禅宗様(唐様) という建築様式が採用されています。こちらは大仏様と打って変わり、繊細な技術を用いている点が特徴です。