真田昌幸は、徳川家康も恐れていたといわれる武将です。家康が戦をする中で、どうしても勝てない相手といわれたのが「武田信玄」と「真田昌幸」でした。

「真田家」は昌幸をはじめ、息子の幸村・信幸など、戦国時代が好きな人たちにとって、有名な一家です。中でも昌幸は武田信玄に「我が眼」といわれるほど優れた武将で、武田家の滅亡後、真田家を独立した大名に押し上げ、上杉謙信や徳川家康ら、名だたる大名から領地を守りました。

軍力にものを言わせる徳川軍を、少ない兵力で2度も退けた上田合戦で、家康は2度自害を考えたといわれています。

昌幸の戦略は「表裏比興」といわれましたが、常に死と隣合わせの戦国の世で、情勢を見極め瞬時に対応し生き抜いた智将といえるでしょう。今回は、あの徳川家康さえも恐れた「真田昌幸」の名言から、波乱万丈な人生をたどります。

真田昌幸の名言

犬伏の別れ「どちらか生き残ればそれでよい」

真田昌幸と信幸、幸村は関ケ原の戦いの直前、下野国犬伏で、東軍と西軍のいずれにつくか密談をしました。この密談により、昌幸と幸村は西軍「石田三成方」へ、信幸は東軍「徳川方」へつくこととなります。つまり、親子、兄弟で敵味方に分かれたのです。

真田家を存続させるために、あえて親子・兄弟が敵味方になったのですが、その際、昌幸は以下の言葉を残しています。

「我が真田家は今存亡のときを迎えておる。道を誤ってはならぬ。我らは二つに別れてそれぞれの道を歩むしかあるまい。どちらか生き残ればそれでよい。遺恨も後悔もあるまいぞ」

戦乱の世の中で、家を残すための決断とはいえ、親子と兄弟にとってこれほど辛い決断はなかったでしょう。いずれかが生き残り血脈を残すために、戦によって「血を流す」のです。本当に厳しく辛い決断でした。

関ヶ原の戦い「時代という化け物に負けたのだ」

武田家から沼田領を統治していた昌幸に対し、家康は土地を北条氏直に明け渡せと勧告しました。昌幸はこれを拒否し、第一次上田合戦が勃発します。1585年8月、上田城へ兵を出した家康は二の丸まで攻め入りましたが、真田軍はこれを待っていました。二の丸で徳川軍に集中攻撃し、7,000の徳川軍は2,000の真田軍に負けたのです。

第二次上田合戦は1600年でした。関ケ原の戦いで昌幸は中山道を通り関ヶ原に向かう徳川秀忠軍を挑発し、上田城におびき寄せます。大手門まで引き寄せ一気に集中砲火し、秀忠は5日間も動きが取れず、関ケ原の戦いに遅れてしまったのです。

関ヶ原の戦いは、1日で決着し、東軍勝利で終わりましたが、昌幸の戦いは2度とも勝利しているわけです。そこで昌幸は以下のように話したといわれています。

「わしは戦いには負けておらぬ。時代という化け物に負けたのだ」

九度山への流罪「さてもさても口惜しきかな」

関ヶ原の戦いで西軍となった昌幸と幸村は、死罪を免れました。東軍の味方をして戦った息子の信幸が、家康に命だけは助けてほしいと懇願したといいます。

しかし昌幸と幸村は高野山の九度山へ追放されました。昌幸は信幸との別れの際、悔し涙を流しながら以下のように話したと伝えられています。

「さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」

西軍が勝利していれば、家康を高野山に配流しようと思っていたのに・・・という、昌幸の悔しさが伝わってくる言葉です。九度山には池田長門守、高梨内記、小山田治左衛門ら16人が一緒でしたが、随行を許されず自刃した家臣もいたといいます。

蟄居生活「気根くたびれ候」

「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候(中略)ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるべく候」

九度山に追放され、晩年の昌幸が信幸にあてた手紙に書かれていた文章です。九度山に配流されても、年月が経てば赦免され国に帰れるのではと思っていた昌幸でしたが、10年もの蟄居生活は昌幸の心と体を萎えさせました

信幸や高野山蓮華定院などから生活費を援助してもらっていても、生活は厳しく、信幸に何度も援助金を催促していたといわれています。その書状は20余りで困窮していた様子がうかがえます。

晩年「その馬を眺めて病中の慰めにする」

九度山に配流され11年の年月が経ち、昌幸は長く厳しい生活を送ったことで病気がちになり、食べ物の味すらわからなくなりました。そんな中、昌幸が国元の重臣に送った手紙の文章です。

「馬を一匹送ってほしい。自分の馬はよそから所望され、くれてしまった。昌親の持ち馬から爪のよい悍馬をお願いしたい。その馬を眺めて病中の慰めにする」

徳川家康を2度も追い詰めた智将「真田昌幸」の面影はすでになく、昌幸は不自由な暮らしの中、九度山の真田屋敷にて病没しました。

曲者といわれ、武田信玄に愛され、家康を恐怖に陥れた智将の、あまりにもみじめな最後です。「公儀御はばかりの仁」(将軍家の許しが出るまで葬儀はしない方がいい)のため、葬儀も行われませんでした。

豊臣家へのあふれる想い「我あと三年生きれば」

徳川家康が最も恐れた武将「真田昌幸」は、豊臣家に対して以下のような言葉を残しています。

「我あと三年生きれば、秀頼公に天下を献上す」

当時高野山の九度山に蟄居していた真田昌幸は、長い年月の中で病気を患い、晩年は心身共につらい状態でした。もしもあと3年生きることができるのなら、豊臣秀頼様が天下人となれるように奮闘できたという、昌幸の強い願いと絶望を感じます。

願いはかなわず、九度山で65歳の生涯を終えました。

真田昌幸を恐れた徳川家康の言葉「親の方か、子の方か」

徳川家康は上田合戦において、真田昌幸にしてやられ2度も追い詰められています。追い詰められた際は自害を考えるほどでした。家康にとって当時、恐怖するような対象の武将はほぼいなかったでしょう。しかし昌幸だけは、家康の恐怖対象でした。

昌幸が九度山で亡くなった際、「死後の影響力」を恐れ、本田正信に葬儀をどうすればいいかと相談したほどです。

また大阪夏の陣で「真田が大阪城内に入った」と聞いたとき、家康は「親の方か、子の方か」と尋ねたといいます。昌幸の葬儀の相談をしていたくらいですから、昌幸が死んでいることは重々承知だった家康ですが、戦の最中に「真田が・・」と聞いただけで、恐怖に手を震わせたのです。

死してなお、その策略と意思が受け継がれているのではないか、そのように思ったのかもしれません。家康は昌幸ではなく「幸村だ」と聞き安堵したそうです。

真田昌幸の逸話

真田昌幸は武田信玄に「我が眼」といわれていた

真田昌幸は真田家の三男として誕生し、一度は武藤家の養子に出たこともありますが、真田の2人の兄が長篠の戦いにより戦死し、家督を継ぐことになりました。29歳で真田家の当主となり奮闘する昌幸の能力を、武田信玄は高く評価しています。

信玄は幼少期に患った天然痘により右目を失明していました。そんな独眼の信玄が昌幸のことを「我が眼」と呼ぶほど、昌幸の武将としての能力をかっていたのです。

真田昌幸が模範とした2人の武将

昌幸は工夫された戦い方をする智将であり、また豪快なエピソードも多数残っていますが、そんな昌幸の戦の能力を高めたのは、2人の模範がいたからといわれています。

1人は南北朝期に活躍した「楠木正成」です。少ない兵力で多数の敵に立ち向かうため、どの様な策が必要となるのか、また家臣や領民をどう統率していくべきか、楠木を模範として身に着けました。昌幸は奇策が得意ですが、これも楠木の十八番だったようです。

もう1人は「武田信玄」です。軍略家としての基礎的な部分は、身近に信玄がいたことで培われました。昌幸の周りにいた武将たちが、武将として魅力ある人物であり、名をあげたい昌幸にとって、最高のお手本となったのでしょう。

真田昌幸の戦に関する逸話

真田昌幸の戦い方を見ると、相手をしっかりと見極め、戦という極限状態の中でも常に冷静であることがわかります。上田合戦の際、神川での戦いで、徳川軍が大挙して押し寄せてきても、昌幸は焦りませんでした。

徳川軍が神川を渡り攻撃を仕掛けようとするところをじっくりと引き付け、一斉に鉄砲を撃つことで撃退に成功したのです。徳川軍は神川で多くの兵士が溺死したといわれています。

一気に攻めてきた徳川の軍勢を横目に昌幸は、家臣に「高砂」を舞うように命じ、昌幸自身は大好きな「碁」を打っていたそうです。

こうしたお話は「俗説」であるともいわれていますが、昌幸が名軍師だったからこそ、こうした話が伝えられているのかもしれません。いずれにしても、戦国武将の中で絶対に侮れない武将であったことに間違いないでしょう。

真田昌幸と関わりのあるスポット

真田昌幸と関わりがあり、今でも訪れることができるスポットを紹介します。

  1. 真田郷
    真田昌幸発祥の地・真田家のルーツといえる場所です。
  2. 上田城
    昌幸が守った城です。
    2度の上田合戦では徳川家康を自害寸前まで追い込みました。
  3. 九度山
    関ヶ原の戦いの後、昌幸と幸村が配流され蟄居した場所です。昌幸はこの地で亡くなりました。
    ここには「九度山・真田ミュージアム」があります。
    九度山・真田ミュージアム
  4. 蓮華定院
    昌幸と幸村が高野山に蟄居を命じられた際、仮寓としたのが蓮華定院でした。
    山門には真田家の家紋「六文銭」が描かれた提灯が掲げられています。
    宿坊として利用可能です。